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先頭を進むマルスは、迷いのない足取りでルートを選んでいく。いつの間にか取り出した黒板と、おそらく頭の中に叩き込まれたであろう地形情報を頼りに、最も安全かつ迅速にこの危険なエリアを脱出できる道を選んでいるのだ。その冷静な判断力は、騎士にも劣らない。
隊列の中には、負傷した隊員たちがいる。動ける騎士が一人、そして騎士ではないが戦闘に参加できる戦闘員が二人。彼らが、足を引きずる五名の負傷者を支え、あるいは担ぎながら進んでいる。負傷者の苦痛に歪んだ顔、担ぐ側の肩に食い込む布の跡。皆、極限の疲労と緊張の中にいる。
しばらく進んだ頃、マルスが少し速度を落とし、隊列の中にいる動ける騎士に声をかけた。
「少し先の座標にある安全地帯を目指します。問題ありませんか?」
マルスは、常に冷静な口調を崩さない。緊急時においても、自身の判断を仲間に確認し、情報を共有することを怠らない。
騎士は、マルスの言葉に力強く頷いた。
「ああ、問題ない。そちらの判断に任せる。……しかし、助かった。地図士が、生き残っているのは心強い」
騎士は、心底安堵したような表情で言った。広大な迷宮において、正確なルートを把握し、安全な場所へ導いてくれる地図士の存在は、まさに命綱だ。特に、このような混乱した状況下では、その重要性は計り知れない。各隊に一人ずついるはずだが、すでに全滅していたのだろう。
マルスは、騎士の言葉に何も返さなかった。ただ、その丸眼鏡の奥の瞳が、鋭く周囲を見回す。そして、かすかに眉をひそめた。
「……喜ぶのは、早いようです」
マルスの低い声が響いた。その言葉に、ケイを含む隊列全体に、再び緊張が走る。
マルスの言葉の直後だった。
周囲の廃墟の陰や、崩れた瓦礫の山から、一斉に緑色の影が飛び出してきた。
「グギャアアアアッ!」
ゴブリンだ。一体、二体、それどころではない。十数体、いや、それ以上の数のゴブリンが、四方八方から奇声を上げて襲いかかってくる。待ち伏せしていたのだ。
「くそっ、どこにこんなに……!」
動ける騎士が叫び、腰の騎士剣を抜いた。ケイも、手に持っていたゴブリンソルジャーの剣を構える。襲いかかってくるゴブリンに対応するため、隊列の側面や後衛に位置していた動ける騎士とケイが、即座に迎撃を開始する。
騎士は、迷いのない剣技でゴブリンを斬り伏せていく。ケイも剣を振るい、ゴブリンを殴り飛ばしたり、突き刺したりして応戦する。騎士剣と異なり剣に魔物の血がベッタリとつくせいで、すでに鈍になっている。
(ゴブリンの数が多すぎる)
他の隊の動ける戦闘員たちも、それぞれが持っている武器――剣、棍棒、あるいは盾など――を取り出し、ゴブリンに対応しようとする。しかし、彼らは騎士のように、魔法や騎士剣を使えるわけではない。必死に応戦するものの、数の暴力に押され気味だ。
そして何より、この戦闘によって、撤退隊列全体の足が完全に止まってしまった。負傷者を抱えながら、混乱の中で移動を続けることは不可能だ。立ち止まって応戦せざるを得ない状況。それは、追いつかれるリスクを高めることになる。
絶望的な状況だ。数で圧倒され、撤退が妨げられている。遠くでボス級魔物の咆哮が響く中、この場で足止めを食らうわけにはいかない。
戦闘が続く中、ケイはゴブリンたちと戦いながら、廃墟の奥に、黒ずんだ影が潜んでいることに気づいた。それは、普通のゴブリンよりも一回り大きく、剣を持った姿。
(ゴブリンソルジャー……!)
隠れていたのだ。通常のゴブリンを先に襲わせ、こちらが混乱したところで、本命であるゴブリンソルジャーが出てくる算段だったのだろう。
そして、その隠れていたらしいゴブリンソルジャーが、ケイに向かって動き出した。狙われている。騎士剣を失い、慣れない奪った剣で苦戦している自分こそが、最も容易に仕留められる標的だと判断したのだろう。
「グアアアアッ!」
新たなゴブリンソルジャーが、ケイ目掛けて突進してきた。手に持ったばかりの剣は、騎士剣とは重さもバランスも違う。しかし、今はこれしか武器がない。
咆哮と共に振り下ろされる歪んだ金属剣。ケイは、正面から打ち合うのではなく、剣をいなし、相手の攻撃を受け流す。鍔迫り合いを避けるように、剣の側面を使って攻撃の軌道を逸らす。
剣と剣がぶつかり合う鈍い音、そして重い金属音が響く。新たなゴブリンソルジャーの剣は、赤いオーラこそ纏っていないものの、その一撃一撃には恐るべき力が込められている。
ゴブリンソルジャーは、苛立ちを見せながらも、執拗にケイを追い詰めてくる。廃墟の瓦礫を飛び越え、素早い動きで間合いを詰める。
通常のゴブリンたちも、周囲から奇声を発しながら、ケイたちの撤退隊列に襲いかかっている気配も感じられた。
何度目かの打ち合いになった後、ゴブリンソルジャーが渾身の力で剣を振り下ろしてきた。避ける間がない。ケイは、奪った剣をクロスして、真正面からその一撃を受け止めた。
ガンッ!
凄まじい衝撃が、腕全体を襲う。剣と剣がぶつかり合い、火花が散る。ケイの足が地面にめり込みそうになる。
(重い……!)
重量化エンチャントがなくとも、その剣の一撃は重い。そして、ゴブリンソルジャー自身の怪力。力が拮抗し、剣と剣が押し合う鍔迫り合いになった。
「グアアアアッ!」
ゴブリンソルジャーがさらに力を込め、ケイを押し潰そうとしてくる。その歪んだ顔が、憎悪に満ちている。
ずる、ずる、ずる……
ケイの足が地面を擦る。体力の限界、そして純粋な筋力の差。このままでは、確実に押し負ける。剣を弾かれ、無防備になったところに追撃を受ければ――。
まさに、力が限界に達し、後ろに倒れそうになったその時だった。
ドォオオオオオオオオオンッ!!
大地が、轟音を立てて揺れた。
突然の出来事だった。地面が大きく波打ち、立っていることすら困難になるほどの激しい揺れが襲いかかる。廃墟の壁が崩れ落ち、瓦礫が雨のように降り注ぐ。遠くで、廃墟が次々に崩壊するような音も聞こえる。
(地震……!?)
瞬時に理解した。異世界で初めて経験する、激しい地震だった。かつて、日本の故郷で幾度となく経験した揺れ。迷宮の中で起こる地震は、物理法則すら歪んでいるかのような、異様な迫力と破壊力を持っていた。
(震度七くらいありそうだ……)
地震が発生した瞬間、周囲の全ての動きが止まった。襲いかかろうとしていたゴブリンたちも、隊長たちと戦っていたゴブリンソルジャーたちも、そして、今まさにケイを押し潰そうとしていた目の前のゴブリンソルジャーも。
皆、突然の激しい揺れに体勢を崩し、地面に倒れ伏したり、何かに掴まろうとしたりしている。魔物たちの咆哮や奇声も、恐怖の呻き声に変わる。
ゴブリン達の緑色の瞳は、本能的な恐怖に塗り潰され、理性を失っており、揺れに抗うように震え、意味もなく手足をバタつかせている
魔物も含め、誰もがこの予期せぬ天変地異に翻弄され、身動きが取れない。
しかし――その中で、ケイだけは動けた。
答えは自明であろう。例え生まれ変わったとしても、魂に刻まれた本能が、ケイの足を動かした。
これは、好機だ。
地震の揺れで体勢を崩し、隙だらけになっているゴブリンソルジャーを見る。剣を地面に突き刺し、必死に揺れに耐えようとしているが、その巨体がかえって仇となり、大きくよろめいている。
「みんな! 頭を守れ!!」
ケイは、周囲の仲間たち――マルス、他の隊員たち、負傷者たち――に、声を振り絞って叫んだ。廃墟が崩壊し、瓦礫が降り注いでいる。身を隠さなければ、生き埋めになってしまう。
そして、目の前の隙だらけのゴブリンソルジャーに、ケイは渾身の一撃を叩き込んだ。奪った剣を両手でしっかりと握りしめ、体勢を崩した相手の胸に狙いを定める。
グシャッ!
剣が、ゴブリンソルジャーの硬い体表を突き破り、深々と突き刺さる。心臓、あるいはそれに類する急所を捉えたのだろう。ゴブリンソルジャーは、激痛に苦悶の声を上げ、その場に崩れ落ちた。
ゴブリンソルジャーを仕留めた――その確認をする間もなく、ケイは自身も安全を確保する必要があった。頭上から瓦礫が降り注いでいる。
近くに、崩れかけた廃墟の残骸があった。かつて建物だったのだろう。その中に、木製のテーブルのようなものが見える。
(あそこだ!)
ケイは、姿勢を低くしたまま、そのテーブルの下を目指して駆け込んだ。激しい揺れの中で、崩れ落ちる壁や、降り注ぐ瓦礫を避けながら、必死にテーブルの下へ滑り込む。
ドォオオオオオオオオンッ!
滑り込んだ瞬間、地面が一層大きく揺れる。建物が崩壊し、轟音が響き渡る。ケイは、頭を抱え、体を丸めてテーブルの下に身をひそめた。目の前は真っ暗だ。瓦礫がテーブルの上に落ちてくる音が聞こえる。
◇◇◇
どれくらいの時間そうしていたのだろうか。激しい揺れが、徐々に、しかし確実に収まっていくのを感じる。轟音も遠ざかり、静寂が戻りつつあった。
揺れが完全に収まった後、ケイはゆっくりとテーブルの下から這い出した。全身が痛む。周囲を見渡すと、目の前に広がっていたのは、変わり果てた光景だった。
ただでさえ倒壊しかけていた廃墟は、さらに大きく崩壊している。壁は倒れ、屋根は抜け落ち、完全に瓦礫の山と化している。土埃が舞い上がり、視界は悪い。
周囲にいたゴブリンたちはどうなっただろうか。警戒しながら、ケイは奪った剣を構え、慎重に立ち上がった。
すると、瓦礫の陰に、緑色の肌をしたゴブリンが数体、うずくまっているのが見えた。彼らは、地震の恐怖と混乱から立ち直れていないらしい。腰が抜けているのか、あるいは単に揺れに体が慣れていないのか、震えながら動けないでいる。
これは、好機だ。
ケイは迷わず、その隙を逃さず、動けないゴブリンたちに襲いかかった。ゴブリンソルジャーの剣を拾い、次々にゴブリンを仕留めていく。悲鳴を上げるゴブリンに、容赦なく剣を突き立てる。ここでは無力化ではなく、完全に息の根を止める必要がある。
ゴブリンたちの処理を終え、ケイは周囲の仲間たちの安否を確認した。
「マルスさん! 騎士さん! 無事ですか!?」
大声で呼びかけると、瓦礫の陰から、マルスや他の隊員たちが姿を現した。皆、土埃にまみれ、顔色が悪かったが、大きな怪我はないようだ。
「ケイ! 無事か!」
マルスが駆け寄ってきた。その顔には安堵の色が浮かんでいる。
「はい、なんとか……皆さんは!?」
「ああ、ケイのおかげで、皆、瓦礫の下敷きにならずに済んだ。すぐに身を隠すことができたからな」
マルスが答えた。ケイが咄嗟に「頭を守れ!」と叫んだ声が、彼らの命を救ったのだ。
しかし、安堵も束の間だった。撤退隊列にいた、騎士の姿を見て、ケイは息を呑んだ。
騎士は、瓦礫の山を前にして、膝から崩れ落ち、嗚咽を漏らしていたのだ。顔を両手で覆い、肩を震わせている。
「どうしたんですか、騎士さん!」
マルスが駆け寄り、肩に手をかける。
騎士は顔を上げ、涙と土埃でぐしゃぐしゃになった顔を晒した。その目には、深い悲しみと絶望が宿っている。
「ラグが……ラグがぁ……!」
騎士は、瓦礫の山を掘り起こしながら、途切れ途切れに言った。
「ラグ……俺の弟が……落ちてきた瓦礫に……」
息を呑んだ。負傷していた隊員の中に、あの騎士の弟がいたのだ。そして、地震によって崩れた廃墟の瓦礫の下敷きになり――。
瓦礫の下からは、赤黒い液体が流れている。
目の前で起こった悲劇に、ケイは言葉を失った。騎士の悲痛な叫びが、崩壊した遺跡地帯に響き渡る。
しかし、悲しみに浸っている時間はなかった。地震は終わったが、これで終わりではない。
(余震が……来るかもしれない……)
大きな地震の後には、同じような規模の揺れが複数回発生する可能性がある。この迷宮の地震が、地球の地震と同じ法則に従うかは分からない。しかし、リスクは最大限に考慮する必要がある。
「マルスさん! 騎士さん! 今は悲しんでいる暇はありません!」
ケイは先ほどまで一緒に逃げていた仲間の変わり果てた姿に対する自身の悲しみと衝撃を押し殺し、声を張り上げた。
「余震が来る可能性があります! 同じような大地の揺れが、この後も複数回あるかもしれません!」
ケイの言葉に、マルスや他の隊員たちの表情が引き締まる。地震の恐怖はまだ鮮明に残っている。
「ここはこのままでは危険です! 状況が悪化する可能性があります!」
ケイは、周囲の崩壊した廃墟を見渡しながら言った。
「すぐにでも安全地帯へ……」
地震の恐怖、悲劇、そして今後の危険。それらが、ケイの中で一気に繋がり、一つの確信へと変わった。
(そうだ……)
廃村のような風景。土に埋もれた建物。削られた地面。そして、小高い丘と、その中腹に立つ巨大な石柱。あの石柱を境にした植生の違い。そして、この激しい地震。
ケイの頭の中で、パズルのピースが埋まっていく。
全てが、あの「デジャブ」と結びついた。
「津波が来る」




