(95)ソキウス:生きるための根幹を成すもの
ベルモーは商人だ。
商売は商品を売る仕事だ。物品はもちろん、情報や人材、縁故も含んだあらゆる事物が商売のネタになる。
商品を安定的に売り続けるには、人々が欲しているモノを見極める必要がある。
それはある意味で、人々の気持ちの動きを絶えず模索し続ける作業と言えなくもない。
人間の欲望に、ごまかすことなくきちんと向き合わなければ、商人として大成することは難しい。
「父は言っていました。商売を続けているとたまに、自分が本当に何が欲しいのかわかってない客と遭うことがあるって。そういう人は子供の頃、成長する過程で自分なりの欲望を見つけられなかったんじゃないかって」
ソキウスの、マナーや教養的にはまるでなっていないであろう発言に、前カドレッド侯爵夫人は黙って聞き入っている。急かさず、静かに先を促すように。
「人が生きていくには欲望が必要で、それは食欲や性欲なんかの本能的欲求ももちろん含まれてるんだけど、そういう肉体ベースの欲望はなんというか、強いけど『脆い』んだそうです。それだけを生きる糧にしていると、いつかどこかで行き詰まる可能性が高いって。人が生きるために必要なのはそういうんじゃなくて、もっと個人的な、自分だけの宝物みたいななにか……趣味でも、モノでも、景色でも、思い出でも、誰か他の人でもいいから、心に響く『好きなもの』を見つけていくつか持っておかないと、どこかの段階で生きる意味につまずきやすくなるんだそうです」
「己の裡を覗き込まず、己自身と向き合わず、流れ流され生きるだけでは、いずれ己の存在価値を見失う……」
つぶやくようなミセスの概括に、ソキウスは控えめにうなずいた。
「ほんの小さな、何気ないものであっても、心に『好き』を積み上げていける人は、好きなものがある世界を肯定して愛することができる人。世界を愛せれば自分の存在も愛することができる。たとえ生きる意味に迷ったとしても、世界を愛した記憶や経験を手繰って戻ってこれる可能性が高い。……そしてその『好きなもの』をきちんと積み上げるための土台が作られるのが、多くの人の場合、成人するまでの子供時代なんだそうです」
「……なるほど」
ミセスはソキウスの言いたいことの二手三手先まで読めているのだろう。しかしソキウスは労を惜しまず伝えるべき言葉を紡ぐことに集中する。
それがきっと、この場での自分の最大価値だから。
「両親からの愛情、温かい食事、安心できる家庭、家族や友人たちの笑顔……そういう『良い』もの、何気ない『普通』を体験する機会が多ければ多いほど、人は自分を肯定して欲望を取り違えずに積み上げていける。逆にそういう経験が少ないほど、欲望に迷う可能性が高くなる。自分が何をしたいのか、何が欲しいのか……なぜ生きなきゃいけないのか……そんな根本的な部分がぼやけてしまう……」
まして、自己の価値に迷い惑う親を見上げて育てば、生きるという行為への疑問は膨れ上がるばかりだろう。なぜこの親はこんなにも惨めに生きている? なぜまともに育てられもしない子を産んだ? 苦しむためか、苦しませるためか。生きることで得られる利など見当たらない、ならばいっそ生きないほうがましではないか……
この思考に陥った人間に対しては、大多数の人間を生に押し留めている死の恐怖など、一般的に期待されるほどの抑止力を持たないだろう。
なにせスタート地点が違うのだ。多くの人にとっては温かな思い出となるはずの幼少期を、冷たく乾いたもので埋め尽くされたまま大人になっていくのだから。
頼りない土台の上に、道徳的な生きる意味など積み上げても、崩れるのは一瞬のこと。
「……各々に辛苦を伴う事象、しかし生は長く、死は瞬間……その誘惑に耐え得るや否やの天秤は、畢竟生きることに利益を見いだせるや否やによって決定的に傾いてしまう……」
つぶやくような詠ずるようなミセスの独白には、これまでにはなかったかすかな揺らぎを感じる。まるで自身の過去を遠くに見つめるような、懐かしむような……痛みをこらえるような。
「親は子に、何を教えるより先に、親自身が生きている意味を、子が生きていく意味を、そして世界は生きるに足る場所であることを、正しく示さなければならない……耳の痛い話です」
……ふと、ソキウスは思う。カトリーヌ・カドレッドに根付く『惑い』は、世代を経てカドレッドの家に積み重ねられてきたものなのではないのか、と。
今回の件、鬼籍の人にまで詳しい調査は入れられなかったが、たぶん、現侯爵の父である前侯爵も。前侯爵の父母も、その前の世代もまた。貴族という、血筋にお膳立てされたくびきに染み付いた古めかしい価値観ではなく、この世界にたった一人の自分自身が生きていく意味、目標……結局そういうものを持てなかった人々が流され世代を積み重ねてきてしまった結果が、今のカドレッド家なのではないだろうか。
その闇……とも言えないうすらぼんやりとした澱みは、余所の家から嫁いできたはずのミセスさえ呑み込んでしまったのでは……
「我々先達の生きてきた轍の惑いに巻き込まれ、カトリーヌは自ら道を踏み外そうとしている……そう仰りたいのですね」
改めて問われ、ソキウスははっと息を呑み、しかし浅く首を振って否定した。
「そこまで大げさじゃありません、少なくとも今はまだ。ただ……生きる意味が見えなくて、それを探す方法もわからなくて、とっかかりすら目の前になくて。考えるのが億劫で、消極的に楽なほうを探してる……ような感じがするっていう、ただの勘なんですけど」
「そこは父親に似ましたね……いえ、まだ足掻いているだけ、カトリーヌの父のほうが己の人生に誠実と言えるかもしれません」
「……」
いいえともそうですねとも言い難く、なんとも言えぬしょっぱい顔で黙り込むしかないソキウス。
ミセスは気持ちを切り替えるような吐息をつくと、目礼をするような仕草を見せた。
「話はわかりました。貴重なお時間を頂き、まこと有難うございました」
「え、あ、いえ、はい……」
「こちらの都合で長く引き止め過ぎましたね。お父上も商談を終えた頃合いでしょう。今、連絡を──」
「あっいえ待っ──あのっ!」
訊けることは余さず聞いたとばかりに茶会解散へと突っ走るミセスの勢いに、一挙に湧き上がった焦燥に突き飛ばされてソキウスは割り入った。
あまりにもミセスの表情が薄すぎて、伝えたかったことが伝わったのかどうか、このあとミセスがカトリーヌ・カドレッドをどう遇するのか、なんら確信が持てない。
少し話した感じ、難しいけれど良い人だと思うし、とても賢く公平な目を持っているように見える。「おざなりにするつもりはない」との明言もあったことだし、そう悪いことにはならないとは信じたい。
が、一方で古き良き厳格さを持ち合わせている人物でもあるはずだ。平民の多少の粗相は許しても、貴族である孫娘に対しては別の結論を下す可能性だってないわけじゃない。
この世代の貴族夫人には、男孫と女孫の待遇に差をつけて当然と考える人物も少なくないと聞く。カトリーヌ・カドレッドの兄を息子夫妻から逃がした人なのだから話せばわかるだろうと思っていたが、そんなことは最初から織り込み済みということもあるかもしれないのだ。
むしろ今の話を聞いて、面倒な孫娘の早急な排除こそが合理的だと判断されてしまったら……!
(うかつだった……! もっとしっかり考えなきゃいけなかったんだ……)
正直に事情を話すだけでは相手を思うとおりに動かせるものではないのだと、ソキウスは改めて思い知る。かと言って、ではどのように話を持っていけば成功を確信できるだけの『商談』にできたのか、今のソキウスにはちっともわからない。ここから巻き返せるだけの材料もない。まだまだ経験不足だと、己の無力を痛感してしまう。
(……でも、萎縮してたら駄目だ。伝わってないかもしれないなら、何度でも伝えなきゃ……!)
未熟者には未熟者なりのやり方ってものがある。
忌憚なく声をあげよと、ミセスは寛容したのだから。
「──ミセスは、これから『彼女』をどうされるおつもりですか?」
ストレートな質問。これぞ未熟者の特権である。
ミセスは表情を一切変えぬまま、奇妙にゆっくりとした瞬きをひとつだけした。……もしや意表を突かれた表情なのではないか、とソキウスは直感する。
事実ミセスは即答せず、思考を一巡りさせるような沈黙を挟んだのち、ゆるりと口を開いた。
「……今後の対応については、一度持ち帰ってじっくりと検討し、十全な計画と準備を整えてから動く予定ですが……ああ、いえ、そうではないのですね。カトリーヌをどうするか、ですか」
固唾を呑んではらはらと答えを待つソキウスの表情に思うところがあったか、ミセスは事務的な回答を引っ込めた。
「貴族との慣習から見れば甘いと言われるかもしれませんが……わたくしの力が及ぶ限り、あの子にとって悪いことにはならぬよう尽力するつもりではあります。まずはあの子が腹では何を望んでいるかを調査し、その上でどのような環境を用意してやるのが最適かを考え、想定される終着点を目指すべく計画を練ることになるでしょう。すぐに身動きを取るのは難しい状況ですが、幸いにして時間は有り余っておりますので」
「そうですか……」
カトリーヌ・カドレッドの意思は尊重してもらえるらしい。やはり話のわかる人だったと安堵したのもつかの間、ソキウスはふと、ミセスの事情に思い至り眉を曇らせた。
前カドレッド侯爵夫人は、ベルモーが調査を入れる少し前に体を壊して療養生活に入っているはずだ。王都に姿を現したということは、長距離の移動が可能な程度には回復したということなのだろうが……これまで滅多なことでは領地を離れることがなかったミセスが領地を空けたということは、そうしなければならないだけの事情があるということになる。
「……お体のお加減はいかがでしょうか?」
推測をもとにぽつりと訊ねれば、ミセスは鷹揚にうなずいた。
「よく調べていらっしゃいますね。ええ、悪くはありませんよ。王都には良いお医者様がいらっしゃいますし、道も交通も店舗も、あらゆる設備も整っていますからね。領地での暮らしに比べれば負担は格段に少なく過ごせています。ですがやはり歳が歳ですので、そう無理は利きません。しばらくは適度に体を動かしながら、ゆっくりと静養せよとのことです」
やはりだ。快癒はしていないらしい。貴族の療養と言えば自然豊かな田舎が定番に思えるが、近年では医者の選択肢が多くインフラが整った都会が静養先に選ばれることが、実は多いのだ。
一昔前は代々続く伝統的な医家やその徒弟を貴族が召し抱えてどこへなりとも連れ回したものだが、どちらかと言えば神学や占星術、怪しげな呪術の延長でしかなかった彼らの権威は、医学の発達とともに時代の波間に消えていった。現在の医の主体は、学問としての医術をしっかりと学び、都市部で活躍する民間医だ。
都市で働く医者は貴族に連れ回されることを厭う者も少なくない。優秀な医者ほど、なんやかやと理由をつけて招聘を辞退しようとする。貴族の治療は報酬は破格であることが多いものの、長く都会を離れればキャリアや経験といった損失が大きく、貴族の療養が済んだのちの身の振り方に窮する可能性が高いためだ。
また、貴族の治療は「失敗した」とみなされた時のリスクも大きい。医者が信仰に近い尊敬を集めていた時代ならまだしも、医家の凋落とともに分不相応な評価が消え失せた現代となっては、ほとんどが平民、もしくは爵位を持たない貴族の末端でしかない医者たちは、権力者である患者に逆らえない。となれば極論、患者やその家族のわがままによって満足な治療が施せずとも、それで患者が死ねば医者のせいにされ私刑に処される……といった理不尽な目にあう可能性も低くはないのである。王都から遠く離れた領地ならば、そうした横暴の隠蔽もいっそうたやすい。
つまり貴族に招聘されて喜び勇んで領地に馳せ参じる医者というのは、これらのリスクを見ていないか、それ以上に報酬に目が眩んでいるか、失敗などありえないと考える自信家か……いずれにせよ予想されるのは概ね、見通しが甘く命に対する責任や考え方が軽薄な人物像。翻せば、貴族の側から見てもリスクだらけの雇用ということになる。
そのため、貴族も都会の便利さの恩恵に浴する療養スタイルが近年は定着しているというわけだ。いわんや伝統に囚われず先進的な領地経営を成功させているミセスにおいてをや。
「では今回は僕のためにご無理を……」
「無理を言ってお招きしたのはわたくしです、お気遣いなく。それにこの程度ならば適度な運動の範疇です。病を克服するための療養なのです、いつまでも伏しているつもりはございません」
ソキウスは考える。実際、少なくともミセスはここまで、足取りも顔色も口調も、あらゆる仕草の端々に至るまで、一切の不調を感じさせなかった。これが弱みをさらさぬための強がりの可能性もなくはないが、さすがに病身に鞭打ち子爵家に頼ってまで、今回の茶会を秘密裏に開こうとはしないだろう。そんなことをせずともソキウスを締め上げて情報を吐かせる簡便な方法などいくらでもあるはずなのだから。
回復状況は良好、本人も治療に対して極めて前向きで、時間が有り余っているということはどうやらすぐに領地に戻らねばならないという情勢でもないらしい。ならば……
「……生意気かもしれませんが、一つだけ、僕から提案してもよろしいでしょうか」
控えめに、しかし恐る恐るにはならないように気を張りながら、ソキウスはミセスを見据えた。
ミセスは不興を示すでもなく、相変わらず淡々と「なんでしょうか」と促してくる。
ソキウスの頭にあったのは、学園で聞いた教員の言葉だ。
「ミセスは刺繍を始めとした手芸に関しても、ひとかたならない腕前をお持ちだと聞き及びました」
「……その話、出回っているのですか」
なんとここで初めてミセスの眉が明確に動いた。一瞬の動きから感情の種類を計り知るのはなかなか難儀だが……不快……いや、もしかして気まずそう……?
少々の焦りを覚えつつも、ソキウスは慎重に言葉をつなげる。
「学園では近い将来、手芸の講師が不足することが見込まれているそうです。なり手が少ないし、今いる講師もいつまで勤められるかわからないと。すぐにというわけではありませんが、そろそろ新しい人材を雇い入れたいという話を聞きました」
別件で職員室を訪ねた際に小耳に挟んだ話だ。さすがに生徒が教師たちの御用聞きをするのはいろいろとまずいので、その時は聞き流したのだが……たまたま手に入ってしまった情報をどう活用するかは自由だろう。
「だから、これが僕の提案です。──手芸の講師になって、カトリーヌ嬢がどういう学園生活を送っているのか、直接ご覧になってみませんか?」
カトリーヌ・カドレッドに今もっとも不足しているのは、家族という枠組みの最初の基本──コミュニケーションだと思うから。




