(94)ソキウス:気丈さに潜む病
カトリーヌ・カドレッドとの出会い。
彼女のためにダンス講師を手配することになったこと。
講師の適任者を説得するために、カドレッド家の内情を探る必要があったこと。
ソキウスは前カドレッド侯爵夫人に、事の経緯を正直に開示した。……個人的な折々の動機や感情は省いて、なるべく事実だけを客観的に。
ミセスは話の腰を折ることなく、ソキウスの説明が終わるのをじっと待ってから、静かに口を開いた。
「……なるほど。想像を裏切りませんね……」
平坦な声色にかすかに混じる疲労感。呆れを含んだミセスの眼差しが思い描いているのはたぶん、カドレッド現侯爵……すなわち息子のことなのだろう。
当初から感じていた疑問が急浮上するのを感じて、ソキウスは控えめに挙手した。
「あの……僕からもお訊ねしてもいいでしょうか」
「なぜ現侯爵に手を貸してやらないのか、ですか」
ずばり言い当てられて口をつぐむソキウス。ミセスはため息未満の吐息とともに自責するようにかぶりを振った。
「人の言葉の先回りをするものではありませんね、申し訳ありませんでした」
「いえ……」
「もちろん、いつでも忌憚なく質問してくださってかまいません。反論も同様に。……あの子に助け舟を出さないのがなぜか、という話でしたら、単純に際限がなくなるからですよ」
現カドレッド侯爵は方々に信用がない。しかし前カドレッド侯爵夫人はその逆だ。豊かで広大なカドレッド侯爵領は近年きわめて評判が良く、それはそのままミセスの名声そのものと言える。
ミセスならば、一声かければ講師のほうから馳せ参じるはず。でありながら現侯爵に力添えをしないのは、一度手を貸してしまえば次も、また次もと要求が膨れ上がるだろうことが目に見えているため。すなわち、家の体面を保つこと以上に、現侯爵を甘やかさないことのほうが大事ということらしい。
わからないではない。調査結果から浮かび上がる現侯爵の人柄は、自分に甘く、浅薄で、楽なほうへと流れていくタイプだ。ミセスに頼ることを覚えれば「おねだり」が増えるのみならず、母の威を借り気が大きくなって、何か大それた失敗をしでかす可能性は低くない。
……だがミセスの話には、決定的に欠けている視点がある。
「これまではそれでよかったのですが。……貴方は、そうは思わなかった。そうなのでしょう?」
硬質なミセスの眼差しに見据えられながら、ソキウスは逃げることなくうなずいた。
「はい。講師が確保できないことの一番の被害者は、カド……カトリーヌ嬢ですから」
講師が確保できなければ、カトリーヌ・カドレッドはいつまでもダンスが身につかない。高位貴族の娘がそれなりに踊れなければ、社交界で軽んじられる。その結果として生じる不利益や父侯爵の勘気を最も被るのは、カトリーヌ・カドレッド本人だ。
貴族の子女は、家長の付属物だ。その運命は家長の掌の上。それは人生を親の方針によって好き勝手に決められるてしまうという以上に、親の力量にどうしようもなく人生を左右されてしまうということを意味している。
カドレッド侯爵は社交界の基準において、様々な能力が平均に大きく劣る。侯爵自身の心算はいかにあれ、無能の事実そのものが、彼の娘の人生そのものを危うきに追い込まずにはいられない。
貴族ならば……それも高位の娘ならば、その程度自力で乗り越えろというものなのだろうか? でなくば不要、淘汰されてしまえ、と。
だがそれはずいぶんと横暴な理論に感じる。彼女は生まれてこのかた無能の傍らで無能を見上げて育ってきたのだ。幸いにして知能も才覚も両親より傑出したものを携えているようだが、それを伸ばし、活かすための土台となる手本や経験、環境にはどうやら恵まれていない。自力で状況を乗り越えられるだけの素地など、はなから存在していないように思われる。
子を育むのに適した環境を用意できていない。それは侯爵家の怠慢ではないだろうか。
その程度、できない前カドレッド侯爵夫人ではないはずなのだ。父親が無能で、手助けするに値しない男であろうとも、せめて罪のない娘だけは救ってやれなかったものなのだろうか。ミセス手ずから隣国に逃がしたと思われる嫡孫──カトリーヌ・カドレッドの実兄と同じように。
ぽつぽつと湧き出る疑問を、ソキウスは明確な言葉にして発することはできずに、視線を下げて黙り込んでしまう。
しかしミセスにはお見通しだったらしい。今度は明らかなため息をひとつ。ソキウスの疑問に答えるように、静かな言葉を紡ぎ始める。
「……わたくしも、カトリーヌに関しては決してなおざりにするつもりはありませんでした。あの子の置かれている環境については、おそらく貴方よりも詳細な情報を把握している自負があります。もっとも、ノトシュ伯爵家の家庭教師との因縁については、詳細までは把握できていませんでしたが……」
やはり怠りない人だ。侯爵のそばに内通者を置くなどして、間接的に動向を監視しているのだろう。一方で、屋敷の外にまではなかなか目が届かないということか。
「その上でわたくしの目には、カトリーヌを取り巻く状況はさほど悪いようには見えていなかった……というのが実際のところです。あの子は両親に対して良い感情を抱いてはいないようでしたが、だからといって深刻な反抗に発展することなく、親の価値観に染まることもなく、絶対権力者である家長の要請をあしらう技量さえ身に着けました。……端的に言えば、『よくやれている』ように見えたのです。わたくしの支援など必要ないと思えるほどに」
「……」
「ブライアン……カトリーヌの兄の場合は、両親と過去への愛着が過ぎ、幼少時よりはっきりと危うい兆候を見せていたために、両親から引き離す方向へ手配をしたのですが。カトリーヌは両親の愛情に飢えていた幼少期に多少不安定な様子を見せたきり、その時期も長くは続かず、どこか達観したような人格形成を見せておりましたから。ダンスの件も、いずれ当人がどうにかするだろうと……事態を甘く見ていたのかもしれません」
……それはたぶん、カトリーヌ・カドレッドに関わる多くの人間がそうなのだろう。両親は言うに及ばず、侯爵邸の使用人たちも、長年の友人関係にあるリリア・ノトシュも、有能であるはずのミセスの間諜でさえ、カトリーヌ・カドレッドの境遇に積極的な改善の必要性を感じてこなかった。
きっと、カトリーヌ・カドレッドは上手くやりすぎたのだ。
機能不全の家庭環境。無能な父、幼稚な母。粗雑な鳥かごの中に放り込まれた自分自身。
そんなままならぬ境遇に、多くを望まず、ただ呆れ、遠くから眺めるように諦めることで心の平穏を守り、理不尽を日々受け流し、直面した問題は逃げ道回り道を駆使して上手く切り抜けたふりをして、それが根本的な解決になっていなかったとしても、周囲にはそうとは感じさせずに。そうやってずっとだましだましやってきた。やってこれてしまった。
だから誰も、彼女を助けない。彼女が強いのをいいことに、面倒な侯爵家をひたすら遠巻きにし続けるばかり。
彼女の強さは確かに彼女自身を守っただろう。顔立ちと表情から覗ける気の強さや、誹謗中傷をものともしない態度は、弱きを挫いて陰湿な快感を得ようとする手合を退けてきたはずだ。
……だが、強いからと言って傷つかないわけではないだろう。どんなに優秀だとしても彼女はまだ十代の、友人に対して悩みを愚痴ることもある、本質的にはただの少女なのだから。
そのただの少女が、現在のカドレッド侯爵家のような膿みきった環境に身を置き続ければ、果たしてどうなるのか。
今向き合わなければならないのは、ここに結果としてある現実だ。
「カドレッドは」
ぽつりと、あふれた思いが言葉となって零れ落ちる。呼称の訂正にも気が回らないほど、あまりにも衝動的に。
これまで明確にできなかった危機感が、自然と、確かな形を持って言語化されていく。
「彼女はずっと探してるんだと思います。……自分が、生きなくてもいい理由を」




