(93)ソキウス:ミセスとの対話
貴族の部屋としては小規模で、しかし平民の尺度で見れば十分に広々とした、豪奢な客間。
品の良い年季を感じさせる茶卓を挟んで、高位の貴族夫人と一対一。
……いったいなんの罰ゲームであろうか。
(いや罰ゲームっていうか罰そのものか……)
内心の動揺と背中にびっしりとかいた冷や汗だけは悟られぬよう、ソキウスは背筋を伸ばして口を引き結び、相手の出方を待った。突然の貴族からの要請に、咄嗟にてらいのない笑顔で息子を差し出したベルモー商会会頭の領域にまでは、あと十年経っても到達できる気がしない。
……見捨てられたわけではないというのは理解している。ただあの場で突然貴族から声をかけられれば、応じないわけにはいかなかったのだ。まずは夫人が何を考えてソキウスを指名したのか、慎重に探らなければ……
カチリ、とカリエーラ・カドレッドの手元の茶器が鳴って、ソキウスは肩を揺らした。
ティースプーンがカップに当たってしまったらしい。この年季の入った淑女にはあまりに不釣り合いな無作法。
……たぶん、わざと鳴らしたのだ。
「そのように緊張されずともかまいません。わたくしは社交に関しては不調法者です。深読みの必要はありません」
「っ、はい、ミセ、ス……」
うっかり反射的に答えを返してしまって、ソキウスははたと息を詰めた。
(……あれっ、後家さん相手に「既婚者様」ってまずい? 「マダム」って未亡人に使っていいんだっけ……年輩者に「マドモワゼル」は避けたほうがいいって話で……無難に「レディ」? でも確か高位の女性にレディは無礼に当たるとかなんとか……これ隣国のローカルルールだったっけ? あれどっちだっけ!? え、ええとこないだ会った未亡人は「独身って呼んで」って言ってたけど…………ど、どうすれば……!?)
ぐるぐると思考の迷路に迷い込むソキウス。よりにもよってこんな重大な局面で、駆け出しのぼろが出てしまった。
大人の貴族と対面した経験は両手の指で数えるほどしかなく、しかもこれまでは必ず家族の誰かと一緒だったのだ。貴族夫人との一対一での対話など初体験である、という目をそらしていた事実に気づいてしまって、先程までの虚勢はどこへやら、転げ落ちるようにめげてしまいそうだった。
案の定、前カドレッド侯爵夫人は引っかかったような仕草を見せた。
「ミセス……」
「あっあの、不勉強で申し訳ありません……!」
「いえ」
謝りながら起立しようとしたソキウスを軽く手で制して、前カドレッド侯爵夫人は洗練された仕草ではっきりと首を横に振った。
「ミセスで結構。そのままお呼びください」
……前カドレッド侯爵夫人は表情も声色も常に平坦で、表面的な態度から感情の機微を読み取るのは難しい。
だがそれでも、ソキウスはその言葉に、どこか納得の色を感じた。既婚者であることを明確に示すことに特化した敬称こそが、自分自身にふさわしい、と。
少し不思議な感覚だった。前カドレッド侯爵夫人は夫である前侯爵と長い間ずっと──それこそ結婚直後から前侯爵が亡くなるその日まで別居状態だったと聞いていたから。
さぞ乾ききった夫婦関係であったろうに。夫が亡くなれば意気揚々と独身を謳歌してもおかしくないのに。カリエーラ・カドレッドという人にとっては、死んだ夫の妻であるという事実こそが、自己を形成する決して小さくはない要素である……と感じられるのだ。
おかげでソキウスにも冷静さが戻ってきた。
(……先入観で考えるのはやめよう)
今回、ソキウスがこうやって茶会に「お招き」された経緯には少しばかりくせがある。
商売人としての経験値を積むべく、このところはソキウスも御用聞き以外の家業手伝いもするようになっていた。今回は父に誘われて丁稚のつもりで商談に同行し、とある貴族の屋敷を訪問したところを、屋敷の主でもないはずの前カドレッド侯爵夫人に捕まった、という次第である。
その父も、先方が三男坊に興味を示し、さりげなく連れてくるよう促されたために、今回の商談にソキウスを誘ったのだそうだ。……となれば、周到な罠にハメられたのではないかと勘ぐりたくなってしまう。
珍しい誘いだったから、ソキウスも多少は警戒と緊張を携えて商談に臨んでいた。とはいえ、まさかカドレッド侯爵家の関係者から接触されるなど想像の埒外であり、その点において油断がなかったとは言えない。
なにせ今回の商談相手は、かのエズモンド子爵その人だったのだから。
(こんな場所でお会いするなんて思いも寄りませんでした……なんて絶対言わないほうがいいよね……)
エズモンド子爵とカドレッド侯爵との因縁については、調査の初期の段階で判明していた。
カドレッド侯爵の身勝手で手酷く袖にされた侯爵の元婚約者が、現在のエズモンド子爵夫人だ。ずっと元婚約者に懸想していた子爵からすれば、愚かな婚約破棄をかました侯爵は恩人と言えなくもないが、とはいえ愛しい女性を公衆の面前で侮辱された恨みのほうが強かろう。
目の前の前侯爵夫人は、そのにっくきカドレッド侯爵の実母である。
貴族にもしがらみは多いだろうから、不俱戴天の敵であっても交流せざるをえないこともあるだろう。しかしよりにもよって商談があるとわかっている日にぶつける形で、子爵が前侯爵夫人を招き入れるなどあまり考えられない。カドレッドとエズモンドが和解しているという情報を商人づてに漏らしたい事情があるのならば話は別だが……おそらくこのあとベルモーに課されるのは、口止めのほうではないかという予感があった。
(カドレッドとエズモンドは、そもそも反目しあってなんかない……けど、誤解を放置しているってことは……周囲には確執があるように見せかけておきたい……?)
……だとすれば認識を大きく改めなければならない。兄たちと頑張って集めた情報が虚偽だったとは思わないけれど、たぶん完璧ではなかったのだ。貴族の建前の裏側にある本音の部分にまでは、手が届いていなかったのだろう。
何か表には出てきていない……表には出せない複雑な真相が、その奥に隠されているのだとしたら。
ソキウスはその内情を嗅ぎまわったネズミだ。真相にまではたどり着けずとも、聡い前カドレッド侯爵夫人にとっては十分に目障りだったはず。
しかし調査中には、カドレッド家からの接触はなかった。脅しや牽制はもちろん、その他の友好的な名目でのコンタクトもなし。
さらに、調査終了後から今日に至るまでの、ひと月を跨ぐ微妙なタイムラグ。
(泳がされてたんだ……こっちの正体や目的を探り返すために)
観測者は観測対象から観測されるリスクを負っている……わかっているつもりだったが、思った以上に怖い相手を敵に回してしまったようだ。
(いや……敵、なのかな……?)
ミセスは言った。深読みの必要はない、と。
貴族の社交ならば笑顔で茶卓を囲んでいても、その実、皮肉嫌味当てこすりといった壮絶な鍔迫り合いが繰り広げられていたりするものだが、ミセスにはその気がないと明言されたに等しい。同じテーブルでお茶をするのは友好的仕草であり、敵対の意思はない、と。
それを信じるのであれば、今回ソキウスに接触してきた目的は……
「……回りくどい話をする必要はなさそうですね」
ソキウスの思考が一巡するのを待ち受けていたかのように、ミセス・カドレッドが切り出した。
「こたびは不意打ちのような塩梅でお招きしてしまったこと、まずは謝罪いたしましょう」
「いえ、むしろ光栄です」
「ご寛恕に感謝いたします。では早速、確認させてください」
貴族としては……商人としてもかなり性急に感じる話運びで、ミセスは本題へと突き進む。
「貴方がカドレッド侯爵家に探りを入れたのは、貴方ご自身の意思であり、他者から依頼されたものではない……という認識で間違いありませんか」
一応は疑問形をとりながらも、ほとんど確信しているような語調だった。ソキウスは素直にうなずく。
「はい、そのとおりです」
「ありがとう。ではやはり貴方をお招きしたのは正解でした。──重ねてお訊ねいたします」
少し事務的すぎるのでは、と感じるほどの尋問……もとい質問を矢継ぎ早に浴びながら、ソキウスは驚くほど落ち着いている自分を自覚していた。
なんとなく……本当にただの直感でしかないが、ミセスにはソキウスの所業を咎める気などないように感じる。それに。
(ミセスが知りたいことって……)
脳裏にひらめく可能性がひとつ。
都合の良い期待でしかないかもしれない。でもそれでも、少しでも可能性を追いかけたい。
たとえミセスの思惑が期待外れだったとしても、今ここで、ソキウスの口から伝えられたなら……
「貴方がカドレッド侯爵家を調査する必要に迫られたのは、カトリーヌ・カドレッド侯爵息女に原因がある……違いますか?」
カドレッド侯爵家の隅に置き去りにされたような女の子の、本当の姿を。




