(92)ソキウス:彼女のためにできることは
「あのヒトすごいわ……マジで」
池畔のベンチに腰掛け、気の抜けたような声を呆然と零すカトリーヌ・カドレッドに、ソキウスは思わず吹き出してしまった。たまに飛び出す貴族令嬢らしからぬ語彙は、どうやらリリア・ノトシュから伝染されたものらしい。ノトシュがどこからそれらを仕入れてくるのかちょっと気になる気もしないでもないが……いや別にどうでもいいか。
カドレッド侯爵家に正式にニッキーを紹介して早一ヶ月。ニッキーは侯爵家にしっかり入り込み、思った以上に上手くやっているようだ。
ソキウスは侯爵に直接面会していない。ただ兄たち直伝の手練手管を存分に活用したレポートをカトリーヌに手渡しただけだ。
徹頭徹尾ビジネスライクに、提供できる人材の略歴や雇用することによるメリットとデメリットを淡々とわかりやすくまとめた書類は案の定、侯爵のお気に召さなかったらしい。
最大の障害は結局のところ、ニッキーが平民であること。
今どき上位貴族だからといって屋敷に平民を一切雇わないということはありえないが、最下級の使用人としてならまだしも、家庭教師として貴族かその姻戚でもないただの平民を雇い入れるというのはなかなかない。しかし例外的に、剣術指南や技術指導など、体を使う系統の実務訓練に関しては専門の平民を雇うケースもある。
その点、体術の一種でありつつも平民などお呼びでない社交界のためのダンスレッスンを平民に任せるのは、「新しい」と見なされるか、「けしからん」と眉を顰められるか、かなり微妙なラインのようだ。
実際のところカドレッド侯爵家はえり好みできる立場ではないはずなのだが、面子を軽んじてはさらなる苦境へと追い詰められるという強迫観念に、侯爵は囚われているのだろう。
そこで、予想通り侯爵が難色を示したところで出番となったのが、ソキウスがカトリーヌ・カドレッドに持たせた第二の矢。ニッキーが現役時代に獲得したファンについての情報を列挙し、その熱狂度を示す証拠を資料に添えた書類は覿面の効力を発揮したそうで、即日契約の運びとなった。
平民、かつ休養中とはいえ、ニッキーは今や王都中、果ては隣国の上流階級にまで評判の広まった売れっ子だ。彼女を講師として雇えるのならば話題性は抜群、羨ましがる貴族のファンも少なくないだろう。それで侯爵の株が上がるわけではあるまいが、少なくとも上位貴族が平民を雇うことに対する体裁は繕えるというわけだ。
しかしそこから先は完全にニッキーに託す形となる。貴族の家庭内にまで商会の援護射撃を届かせるのはなかなか難しいのだ。
講師役を上手くやれるか、一筋縄ではいかないであろう侯爵に追い出されるか、むしろ愛想がつきてニッキーから役目を投げ出すか、全てニッキー次第。
その結果……
「あの、絡み始めるとろくでもなくめんどくさい父を、初対面一撃で撃退したのよ。大した教育は受けてないって言うわりに独学の教養はあるみたいで、嫌味もさらっといなしてうまいこと話をそらすし、おべっかと正論使い分けてあっという間に主導権持っていくし。口先男の父があそこまでやり込められてるのを見るのは初めてよ。……まあいつも貴族には相手にされてないからでもあるんだけど。おかげで父はちょっと静かになったし…………レッスンも、たぶん、順調」
話が進むにつれてぼそぼそと、微妙に不本意そうにつぶやくカドレッドの不貞腐れ顔の奥に、明らかに滲む安堵の色。心の重りが、少しは軽くなったのだと感じられる。
ニッキーは上手くやった。ソキウスの目論見は、見事成功したのだ。
「そっか……お役に立てたみたいで、本当によかったよ」
心からの喜びが柔らかな笑顔となって溢れれば、カドレッドの口許はますますへの字になった。
この『初仕事』の成功を機に、ソキウスの学園生活は一変した。
生徒たちの困りごとを商人的手段で解決する、いわゆる御用聞きを始めたのだ。
まずは平民の友人たちから。最近の悩みをさりげなく聞き出して、それに見合った解決策を提示する。商品、情報、人材……一から十まで解決できるわけではないが、商家の強みを活かせば多くの悩みに対応し、背中を押したり助けになることができた。友人たちのほとんどは初め戸惑いつつも、最終的にはソキウスに感謝し、その後なにかにつけて頼ってくれるようになっていった。
もちろん、友情価格ながら成功報酬は頂くようにした。金銭で贖えない事情がある場合は、相応に価値のある物品や情報、顔つなぎなどを対価に。決して無償奉仕ではないと示すためのけじめだ。中には「友達から金を取るのか!」と騒ぎ立てる厄介な手合もいて、周囲から顰蹙を買って悪態つきながらソキウスから離れていくこともあったが……まあそれは仕方がない。縁がなかったと割り切るだけだ。
こうした草の根活動が徐々に評判を呼び、他学年を含むあまり面識のない平民生徒から相談を持ちかけられることも多くなり、さらには身分の垣根も越えて、下位の男爵家や子爵家の子を初めとした貴族生徒たちからも声がかかるようになっていった。
ソキウスは平民と貴族の別なく同じ対応を心がけた。案の定それが気に食わない貴族生徒に食ってかかられることもあったが、学園の掲げる自由と平等の理念は──たとえそれがある種の建前であろうとも──ある程度はソキウスを守ってくれたし、ソキウス自身もまたベルモーの名や人脈を上手く使って自力で切り抜けるよう努力し続けた。
商売の楽しさ、難しさを日々学びながら、兄たちほどの競争心や熱意なくして御用聞きにのめり込んでいけたのは、ひとえに「子供である自分にも思いのほか出来ることは多いのだ」と実感できたことが大きい。
「やりたいことがない、わからない」というソキウスの思春期の惑いは、たぶん、不安に根ざしたものだった。
こんなにも幼く未熟で苦労をしたことのない自分には大したことなどできない、きっと社会には通用しない。学び、実践を重ねて自分を作っていけばいいという理屈はわかるけれど、実際に行動に起こして無能であることを思い知ってしまうことが怖い。だから動き出せない。
動き出さなければ世界が見えないし、自分自身のこともわからない。よくわからないものへの時間と労力の浪費を嫌い、変化を避けて、いっそう「いつもどおり」に固執する悪循環。だから、いつまで経っても何も見えず、何も出来ない自分に甘んじて、そんな自身の未来への過剰な不安や失望に心を侵食されてしまう……
そうして静かに閉じていたかもしれないソキウスに、初めの一歩を踏みださせたのが、カトリーヌ・カドレッドの存在だった。
「彼女のため」という名目のもと奔走した結果、ソキウスは自分自身を拓いたのだ。やりたいことのために動き回って、自分にできること、できないことを知って、思った以上に自分が社会で泳げることを自覚して、できることがある、まだまだやれると思うと楽しくなってきて、どんどん外へ外へと活動が広がっていく好循環。
所詮は学生規模の御用聞きだ、ものすごく大きな成果があるわけではないし、小さな挫折を感じることも少なくない。 けれど小さな成功の積み重ねから生まれる清福はソキウスの性に合っていたようで、多少の失敗があったとしても、同窓生たちとの関わりも、御用聞きのお役目も、決して投げ出そうという気にはならなかった。
──なにより、また彼女が頼ってきてくれた時のために。
経験を積んで、人脈を増やして、できることを少しずつ積み増して、どんな無理難題が来ても対応できるように備えておきたい。
……と、意気込みはすれど、残念ながらカドレッドはあれ以来、ソキウスに頼ろうとしてくれなかった。
人前で貴族と平民がビジネスの話をするのはあまりよろしくないと、込み入った話がある時は池畔で待ち合わせるようになり、それがなし崩しに習慣化して、なんでもない世間話でも二人っきりで逢うようになってからも、商人としてのソキウスが求められる機会はニッキー関係以外皆無と言ってよかった。愚痴は多くとも、具体的な助力を請う言葉は一度たりとも口にしてくれない。
幾度となく積み重ねていく交流の中で、ソキウスは彼女の内にある歪みを見つめる。
ソキウスの仕事に不満があるとか、借りは作りたくないとか、プライドが許さないとか、迷惑をかけたくないとか……それっぽい理由はいろいろと考えたが、たぶんそんな表層的な問題ではない。もっとそれ以前の、根本的な、最初の一歩がなっていないのではないか。
すなわち、「他者を頼る」ということを知らない……やり方がわかっていないというより、「頼る」という概念自体が彼女の中にしっくりと馴染んでいないせいではないか……
(根深そうだな……)
古くからある貴族の家庭の形から、そう大きくはみ出してはいないように見えるカドレッド侯爵家。人間嫌いの愛想なしであっても、学園生活をそれなりに乗りこなせる「まともな」人物に見えるカトリーヌ・カドレッド。
しかしその内側に蓄積された夥しいひずみが彼女の存在を不安定に揺らし、その姿はソキウスの目にはひどく危うく見える。
何かが少しでも違っていれば……ほんの小さな刺激があっただけでも、彼女の人生はあらぬ方向へと転げだしてしまうのではないか。誰も手を差し伸べることもできない、暗い、暗い、深淵へと……
(僕が)
衝動的に、ソキウスは手を伸ばしたくなる。
(僕にできることは──)
彼女に出会って以来、その欲求だけが、ソキウスの原動力。
お互いの関係性は進展しても、状況の改善にまでは手が及ばない、そんな日々にうっすらとした焦燥を覚え始めた頃。
「──貴方がベルモーの三番目の御子息ですか」
かの夫人の訪問は、あまりにも唐突だった。
「この数ヶ月ほど、我がカドレッド侯爵家の内幕を探られていたのは、貴方で間違いありませんね?」
由緒正しい装いをした貴族夫人の突然の登場に、なんとか腰を抜かさずに済んでよかったと、三年後のソキウスはつくづく安堵する。
それが未来の大姑──ミセス・マトローネことカリエーラ・カドレッド前侯爵夫人との最初の出会いだったのだから。




