(89)ソキウス:初めての営業先は気になる女子
カドレッド侯爵家について、この時ソキウスが把握していた情報は多くはない。
ただ、大商家の性として、積極的に関わるべき貴族と極力忌避すべき貴族の区別はしっかりつけていた。カドレッド家は言うまでもなく後者に分類される。
もっとも兄たちや従業員などからの又聞きだったからほとんど話半分で聞いていたし、肝心の噂の中身も大雑把で、詳細な事情までは伝わってこない。せいぜい「現当主が昔起こした醜聞が原因で、社交界の有力者の不興を買ったためにつまはじき者になっている」ぐらいの認識だった。
カトリーヌ・カドレッドはつまり、ソキウスにとっては本来噂の向こう側の存在だったのだ。
秘密のヴェールの奥から顔出した深窓の令嬢への好奇心が否応なく高まる。普通に暮らしていれば絶対に出会うはずのなかった相手へと、学園という特殊な場を介して導かれたような感覚に、奇跡のようなものを感じていた。
……とまあ、そんなものは結局後づけの小賢しい辻褄合わせに過ぎなかったと、今ならばわかるのだが。
人が転げ落ちる理由なんて、あってないようなものだ。
「ええっと、ドナタサマ?」
釈然としない顔つきで無防備に首を傾げ、見知らぬ相手を妙なイントネーションで迎え撃ったのはリリア・ノトシュ伯爵令嬢だった。ふわふわのミルクティーブロンドに控えめに揺れるリボン。美しさより愛らしさが先に立ち、見る者に安心感ややすらぎを提供する魅力的な容貌。お人形のような、綿菓子のような。そんな形容のよく似合う可憐な少女だ。
……にしてはなんというか、ほんの数フレーズ喋っただけで伝わってくるこの違和感よ。どうも外見と内面が釣り合っていないらしき気配が芬々と漂っている。
「……ベルモーよ。同じ学年の」
一方カトリーヌ・カドレッド侯爵令嬢は鋭利な眼差しに硬い声色。警戒心満載で、リリア・ノトシュ以外の万人に対する心の門戸を瞬時にして極限まで閉ざしてしまったのがわかる。どれだけ造形が美しくとも身分が魅力的でも、これでは人が寄り付かないだろう。
しかしソキウスはカトリーヌ・カドレッドに顔と家名を覚えられていたことに咲き乱れる胸中を必死に押し隠すのに夢中で、相手から傷つけられることへの恐怖などどこかへすっ飛んでしまっていた。
入学して間もなくとも、直接顔を合わせずとも、目立つ生徒は目に入ってくるし、噂という情報もついてくる。家を背負って学園に通うのならば、時には自ら情報を拾いに行く甲斐性も必要だろう。
商家の子として、ソキウスが貴族の顔と名前をあらかた記憶しておくのは当然のこと。しかし貴族がベルモー商会とその三男坊の顔を一致させるかどうかは、個々の事情や裁量に左右される微妙なラインだ。そのうえ少女めいた容姿が多少物珍しくはあるが目立つほどでもない、商会の重要人物ということもないソキウスのことを自発的に覚えていてくれる貴族令嬢というのは貴重である。
「ベルモー? あれ、どっかで聞いたよーな」
「……あんたがしょっちゅう通ってるケーキ屋の」
「はっ!? 「妖精の小箱」の親会社!? ──ファンですっ!!」
「!?」
シュバッとリリア・ノトシュが残像を残す勢いで席を立ち、一息に距離を詰めてソキウスの両手をぎゅっと握りしめてきた。
貴族令嬢にあるまじきスキンシップだが、百人中九十九人が可愛いと認めるであろう女の子にボディタッチをされておいて正直まったくドキドキしないのは、キラキラ光る大きな瞳が好意や憧れではなく即物的な欲望に爛漫と輝いているからであり、もっと言えば桜色の唇の端から食欲に起因するものとしか思えないよだれが垂れているからである。
この一瞬にして、それまでノトシュのことを「いいなぁ」と頬を赤らめて遠巻きに見つめていたクラスメイトの一人が、翌日からはなぜか彼女について言及しなくなるどころか見向きもしなくなった、という不可思議現象を思い出したソキウスである。おそらくは勇気を出して本人にアタックした結果「これ」を浴びて、夢見がちな思春期の理想から残酷な現実に突き落とされたのであろう。気の毒に。
ともあれ、ノトシュがソキウスが受け入れたとなれば、カドレッドも無視はできないらしい。
「さっきの話、聞こえちゃったんだ。もう少し詳しく事情を教えてくれない? 僕なら役に立てるかもしれないよ」
挨拶もそこそこにそう訊ねてみれば、おしゃべりなノトシュが次々情報開示するのを、カドレッドは鼻に皺を寄せて苦々しく睨みつけながらもいちいち止めはしない。肝心なところの手綱はカドレッドが握っているのは間違いないが、一方的に言いなりにしたりされたりするわけでもない……言うなれば対等な関係性であるらしい。なかなかに面白い二人である。
補足された話を加味したカドレッドの事情は以下のとおり。
カドレッド侯爵家は社交界に信用がなく、家を守り立てるべき当主──カトリーヌ・カドレッドの父である現侯爵にも状況を改善させる能力はなく、娘の家庭教師の手配にも苦心する始末。幼い頃は懇意にしているノトシュ伯爵家の助けを借りてリリア・ノトシュの教育に混ぜてもらえていたが、長じるにつれてカトリーヌ・カドレッドがあちこちの茶会に送り込まれるようになると、家庭教師もまともに雇えない侯爵家の内情を見透かされ笑いものにされ、いっそう逆風が強くなってしまった。身体の出来上がりつつある娘に本格的なダンスレッスンをさせたくとも講師は捕まらず、先の因縁によりノトシュ家には今さら頼れず、学園の特別講義に通わせて家の内情を曝すのは我慢ならず、しかし侯爵手ずから娘にダンスを教える気などさらさらない。……なるほど確かに四面楚歌。
「そっか……うん。それならやっぱりベルモーが役に立てるかも。ちょっと時間もらうことになるけど、見積もり作って手配してみていい? あ、侯爵がうるさそうだったらこっちで説得する方法も考えてみるし、話が立ち消えになっても違約金とかは取らないから」
「えっマジで!? なにそのオイシイ話!」
「うちは手広くやってますから。この程度はお茶の子さいさい。それに、「新しい販路やお得意様を開拓するチャンスがあったら無駄を恐れず積極的に掴みにいけ!」っていうのが、兄の格言だしね」
「おぉ~いいじゃんいいじゃん、カトちゃんどうよこの優良物件っ! マジで困ってるんなら頼んでみなよー!」
「どうかな? 僕の商人修行に付き合ってやるつもりで、任せてくれない?」
ベルモーという商会を貴族に売り込む三男坊を演じて。そこにあるのはあくまでもビジネスライクな利害関係なのだと強調して。
同情心や、それ以上の感情が含まれていると知られれば、きっと彼女は逃げてしまうから。
家業に大して関わっていない三男坊の分際で、安請け合いはすべきではない……のは承知の上。
それでも、やるのだ。なんとしても成し遂げるのだ。
「……勝手にすれば」
ぷいと顔を背けられる直前、胡散臭そうに眇められたカトリーヌ・カドレッドの瞳の奥に、すがるような期待の光が、かすかに、けれど確かに輝いていたのだから。




