(88)ソキウス:思春期の悩みを吹き飛ばした運命の出会い
ソキウス・ベルモーの人生はとりたてて起伏のない単調なものだった。
少なくとも、学園に入学するまでは。
三男坊であるソキウスが物心ついた頃には、少し歳の離れた二人の兄はすでに商売の道にどっぷりハマっていた。
「っらぁッ! モソレのじっさまから契約一丁!」
「こっちはギゴーフ酒場から大口注文だぁ!」
「おぉ……やるな。だがオレのがすごい!」
「なにをー! おれだって負けないからなー!」
双子同然に育った年子のじゃれあいが、両親から受け継いだ商人の血に火を付けたらしい。無理に家業を押し付けるつもりはない、という両親の気遣いなどなんのその。後継者争いすらじゃれあいのネタとして、遊びの延長で切磋琢磨しまくる長兄次兄は、メキメキ商売人としての実力を身に着けていったのである。
一人遅く生まれたのんびりやのソキウスはといえば、兄弟仲にも家業にもとりたてて情熱はなかったので、
「へー。にーちゃんたち、しゅごいねー」
と、言い争う兄たちを平等に褒めそやして、二人から無言のなでなでを頂戴するという、要領の良い末っ子を地で行っていたものである。
小さな頃から女の子のように愛らしかったソキウスは、当然の宿命として大人たちにめっぽう可愛がられた。とはいえ両親だけは末っ子を特別扱いすることはなかったため、兄弟はほとんど平等に育てられたと言っていい。
確固たる両親の愛情を得たうえで、大人の関心を得るよりも互いに競い合うことに日々全力投球する兄たちは、小さな弟が周囲の大人たちに甘やかされて多少得をしても気にしない。むしろ愛らしい見た目や年齢差や体格差を慮って、男兄弟特有の激しめのじゃれあいに引っ張り込むこともせず、乱暴に扱うこともしなかった。
そんな家庭環境に、ソキウスは何ひとつ不自由や不満を感じることなく育った。
ソキウスが生まれた頃にはすでに一角の商家として名が知られていたベルモー家の経済力は高く、生活環境も平民としてはそれなりの水準。両親の方針としてなんでもかんでも買い与えられるような贅沢は許されなかったが、何かが欲しいと思ったら自ら動いて手に入れる方法なんてものも商家の子供の特権としていくつか心得ていたから、実際不自由したことがなかった。
そもそもソキウス自身、生来から兄たちに比べて穏やかで欲の薄い気質をしていたために、何かを強烈に欲する気持ちとか、上を目指さずにはいられないような闘争心なんてものもいっかな湧いてこず、日々は実に穏やかだった。
……ただ少しだけ。脇目も振らずに猛烈に打ち込めるものがある兄たちの姿は、少しだけ眩しく、羨ましいと思うこともあった。
平坦なまま、ただなんとなくで単調に過ぎていく人生に疑問を持つことになった……持たざるを得なくなったのは、学園に入学してからだ。
ソキウスが学園に通うことになったのは、兄二人がそうだったから弟にも平等に学をつけさせようという、ただそれだけの理由だった。ソキウスも親の方針に異論はなく、さりとて兄たちのように人脈を広げようとか商売の肥やしにしようとかいう野心があるわけもなく、ただなんとなくで流されるまま学園通いが始まった。
少なくはない平民生徒の中には、ソキウスのように惰性で送り込まれてくる子供もいたが、そのほとんどが富裕層の中でも上位の家に限られた少数派だった。
相応の経済力、知名度、縁故などの高いハードルが求められる学園に入学できるとなれば、本来は平民にとっては一大事である。運良く入学の権利を掴んだ生徒たちは皆、親や故郷からのなにがしかの期待を背負って学園の門を叩き、絶対に箔以上の何かを身に着けて確実に卒業せねばらならない、という強い目的意識を持って日々を過ごす者が大半だったのだ。
さしもののんびり屋も、そんな環境に放り込まれれば焦りも覚える。すでに卒業した兄たちの精力的な人脈づくりや競い合いの様子を強烈に記憶している教員も多く、あからさまに比較されるようなことはなくとも、兄のような目標や熱量を持てない自分自身になんとなく居た堪れない気分になることも少なくなかった。
ソキウスの未来は真っ白だ。両親は兄たち同様、ソキウスに対しても何も要求せず、好きなように生きればいいと言う。大商家の子として生まれたからにはそれなりのしがらみもあって然るべきなのだが、長男次男がああも猛烈に両親の後を追う勢いなもので、三男坊への周囲の期待は極めて微小。ソキウス自身が大人に楯突かず何事もそつなくこなす「いい子」だったのもあって、誰にも将来を心配されず、よく言えば自主性に任せられ、悪く言えば放任されて育ってしまったのである。
自分だけの夢や目標、将来の展望……なんてそこまではっきりとしたものでなくても、せめて何か、漠然とやりたいこと、好きなことだけでも見つけなければ。
ぼんやりとした強迫感が、裏を返せば物事を渇望できない、自分の好きなことすら必死にならなければ見つけられない、そんなからっぽな自分自身を炙り出す。
二人の兄たちに対する劣等感を初めて強く感じたのがこの時だった。
自分を取り巻く世界に価値を見いだせて、世界を好きだと心の底から言えて、生きることに疑問を持つことなく世界に適応できる。それはたぶん、知能の高さとか、剣の才覚とか、そういう一般的に言う才能より何より素晴らしい天禀ではないだろうか。
そんな都合の良い才能など、実際のところ持っていない人のほうが多いのかもしれない。けれどソキウスはあの兄たちの弟だ。兄たちと同じ胎から生まれ落ち、同じ恵まれた環境で育ったのにもかかわらず、ソキウスだけが兄たちと同じようになれない……。
じわじわと、黒く冷たいものが指先から侵食してくるような感覚。焦りの裏側にべったりと張り付いた虚無感が気持ちを削いでいく。好きなもの、やりたいことなんてきっと見つからない。所詮自分なんかが何を足掻いたところで、何にもならないのではないか……
「──はあ? ダンス講師がつかまらないぃ?」
懊悩に霞む脳に届いたのは、素っ頓狂な女子生徒の声だった。人の意識を揺さぶり、否応なく惹きつけずにはいられない、そんな不思議な声音。
足を止めて振り向けば、たまたま通りがかった食堂の一角で、二人の女子生徒が卓を挟んで向かい合っていた。他の席にも人はそれなりにいたけれど、なぜだか今の声はその二人のどちらかが発したものだと確信があった。
ソキウスは二人のことをまだ知らなかった。正確には、顔と名前は知っていたが、対面で直接会話をしたことはなかったのだ。
声を上げたのはおそらくリリア・ノトシュ伯爵令嬢。その真向かいに座っているのが、カトリーヌ・カドレッド侯爵令嬢。
入学してまだ数ヶ月、彼女たちもまだ少し猫かぶり気味で完全には素を晒していなかったため、学園中にその名が知れ渡っていなかった頃の話だ。
「……うるさい。声を控えなさい」
うんざりと、カトリーヌ・カドレッド侯爵令嬢がリリア・ノトシュ伯爵令嬢をたしなめた。
世にも珍しい暗赤色の髪……それもカトレアやブーゲンビリアのような濃いピンクを重ねた、暗く深く艷やかな薔薇色だ。貴族らしくはっきりとした目鼻立ちも含め、飾り付ければ際限なく派手になりそうな容姿をしているのに、ろくに化粧もせず、派手な赤毛を窮屈なおさげにして、全体の印象を地味にまとめている。
抜けるように白い肌に纏い付く紅の後れ毛。伏し目がちに物憂げな眼差しとため息。細かに震えて憂い深い影を作り出す長い睫毛。
……妙に、気持ちを惹かれる。気のない色気とでもいうのか、男に媚びない無造作な佇まいの中に押し隠された、生来の魅力が匂い立つように滲み出ていて……
我知らず、ソキウスの足は二人の卓へと吸い寄せられるように向いていた。
「やー、だってさぁ。カトちゃんちってお偉い侯爵家じゃん。ふつー誰だって雇われたいじゃん。そうじゃなくたって命令すれば一発じゃん。なのにカテキョ雇えないとか何事ー?」
「……知らないわよ。そのお偉いはずの侯爵サマがよっぽど信用ないし無能ってことでしょ。あとカトちゃん呼びはやめて」
「んーな他人事みたいにぃ。また昔みたいにうちくる? ダンスレッスンは月一しかやってないけど」
「ああ、体力バカの相手とか、講師のほうがキツイでしょうからね……」
「おうおうケンカ売ってんのかー!?」
「……月一でも通えるならありがたいけど、たぶん無理。父が許さないでしょうから」
「え、なんで」
「あんたんとこの講師陣に遺恨があるから」
「えぇ……なにがあったし」
「私を方々の茶会に送り込んだ弊害よ。子供の頃にノトシュ家の講義やレッスンに紛れ込ませてもらってた時は「リリアお嬢さんのお友達のどこかのおうちのカトリーヌさん」で済んでたけど、茶会に顔を出すようになってからは顔と名前と家名が一致するようになっちゃったわけ。となると……」
「あー……「あらあのこノトシュさんちの娘さんの家庭教師に行った時に紛れ込んでた子だわ、侯爵家の子だったのね。ずいぶん熱心に講義に混ざっていたけれどおうちではどのような教育をされているのかしら。どなたかカドレッド侯爵家に招かれた講師をご存知ない? いらっしゃらない? ……あっ(察し)」……って感じで物笑いの種にされちゃったわけかぁ」
「……見てきたように言うじゃない。まあ大体そんな感じよ」
「なんつーか、カトちゃんちって悪役令嬢が育つべくして育つ環境って感じぃ。ゲームじゃここまで細かい設定なかったもんなぁ」
「こら、こういうところで『ゲーム』とか『悪役なんちゃら』とか言うんじゃないの、私まで頭おかしいと思われるでしょうが。あとカトちゃんは今すぐやめろ」
二人は決して声を張り上げているわけではない。食堂全体は生徒たちのおしゃべりで喧騒に包まれている。
だがそれでも不思議と、二人の会話はソキウスの耳にクリアに届いた。それによく見れば二人の周囲の席の生徒たち……確認できる限りほとんどが平民だと思われる……は、あえて会話を控えて二人の話に耳をそばだてているらしき気配を見せている。
ソキウスの足は自然先を急いだ。平民たちのほとんどは分をわきまえて貴族と男女関係になることを夢見たりはしないが、高貴な身分で眉目麗しい貴族令嬢への憧れを抱かぬ男はまずいない。たまたまでもお近づきになれれば嬉しいし、あわよくば……という欲を持つ者も決して少なくはないだろう。今は皆、目の前に転がり込んできたチャンスをどう扱うべきか、二の足様子見状態。……彼らに先を越されてはならない。
誰よりも先に、自分が彼女に声をかけなければ──
「……まあようするに、社交界の事情に精通してる貴族の講師を招くのは絶望的ってことなのよ。かと言って、社交界に顔を出さない手合に連絡をつけるのなんて、それこそ人脈が物を言うわけじゃない? うちの父親には無理難題よ……」
「うーむシメンソカ」
「どこかに、社交界の評判なんか気にしなくて、面倒くさい雇い主にも屈しない、ダンスをそれなりに教えられる講師……なんて都合のいい人材──」
「──いるよ」
契機を捉えて言葉を割り込ませる。少し、急き込んだ口調になってしまったかもしれない。けれどソキウスに後悔はない。
二人の少女が同時にこちらを振り仰ぐ。リリア・ノトシュはきょとんと無謀に、カトリーヌ・カドレッドは人間不信と警戒も露わに。
ソキウスは焦らない。ここで物を言うのは商売人の肝っ玉。物怖じなど一切していないと口より雄弁に主張する曇りのない笑顔。押し付けがましさを感じさせずに人の心に忍び込む自信と安心感。
腹の底ではどんなに緊張していても、怖気づいて尻込みしそうでも、決してその他大勢の受け身な臆病者に埋もれるな、勇気を出して一歩を踏み出して勝機は絶対に逃さず掴み取れ──兄たちが常日頃口にしている訓戒が脳漿に響き、末っ子の背中を押してくれる。
「社交界とは無縁で、気難しい上司とサシでやりあうガッツがあって、ダンスの腕はもちろん一級品……っていう人材になら心当たりあるよ。ただし、貴族にこだわらなければ、だけど」
それが、ソキウスとカトリーヌの最初の出会いだった。




