(85)しがらみを断ち切る時
前公爵は黙り込み立ち尽くす父を少し下がらせ、再び聴衆へと向き直った。
「さて、老体は早々に退場しよう。祝いの席を騒がせてしまったことは済まなかった。本日めでたくも学園を卒業する諸君においては、此度の騒動から何かしらの教訓を得たことを期待したい」
──他人事だと侮って研鑽を怠り二の舞を踏むような無様は見せるなよ。
絶妙な言い回しと一瞬剣呑なまでに鋭い光を帯びた眼差しで、調子に乗りやすい若人たちをきっちり戒める前公爵。ピシィ、と空気が締まり、生徒たちの背が強制的に伸びたのがわかる。さすがの威厳。
前公爵は満足げにうなずいて、父の元へと戻っていく。
そのわずかな猶予。未だ肥大化した自己愛に惑う父の目が、迷子のように宙を彷徨い──
カトリーヌと、目が合った。
縋るような眼差しだった。素直に喪失を恐れていた。まるで大切な宝物を取り上げられそうになっている子供のように。
視線が、茨の如く、カトリーヌの手足に絡みついていく……
(そう……そうだったの)
茨の這い進む不快感を感じながら、天啓のように、カトリーヌの胸に理解が降りる。
(娘は貴方にとって、唯一自由にできる最後の存在だったのね……)
何一つままならない父の人生、人との縁がどんどん薄くなっていく空虚の中で、ただ一人傍らに残った、唯一の家族。
名ばかりの家長の権限を、まともに振るうことができる唯一の相手。
親と子という力関係を不可逆に体現した、自分よりも明白に下の立場にいる存在。
……きっとこの茨は、ずっと昔から、じわじわと侵食するように、カトリーヌの全身に絡みついていたのだ。
カトリーヌは決して従順な娘などではなかった。
けれど最終的に、父が用意した嫁ぎ先に行けと命じられれば、断るすべはカトリーヌにはない。……それを回避するための準備や努力なんて、何一つしてこなかったから。
娘の人生を絶対的に左右できるという事実は、誰にも相手にされない父にとって、懐に大切に抱え込んだ最後のお守りだったのだろう。
(……ああ、これなのね、お祖母様)
弱さを抱えた誰かに頼りにされる、えも言われぬこの感覚。心もとない足下を光で照らし出されるような。先の見えない分かれ道の真ん中に、一方向だけを指し示す案内標識が与えられたような。
あれほど煩わしかった父の姿が、ひどく憐れに思える。嫌悪さえ覚えていた相手に、無性に手を差し伸べてしまいたくなる。このまま茨に絡め取られたままでもいいと、流されてしまいそうになる。
行く先を定められずにいる人間ほど、立ち位置の心もとない人間ほど、誰かに救いを求められると、ころりとまいってしまう。たとえ縋りつかれて運命をともにしたその先が、とんでもない苦難の道であっても……
けれどカトリーヌは。
「いやよ」
きっぱりと、茨を断ち切った。
「絶対に、いや」
傍らに再び誰かが立ち、不安と心細さに細かに震える右手が、暖かな体温に包み込まれた。その手をカトリーヌはしっかりと握り返す。
……傍から見れば歪な夫婦であっても、祖父と祖母は上手くやった。茨を適度に互いに絡めて、駄目なところはきっちり剪定して、互いの人生の導とした。
父と娘は……お互い甚だ未熟で未来を見ようともしない自分たちは、きっとそうやって支え合えない。ここでカトリーヌが父の弱さを許し、共に生きることを選べば、その先には互いに互いを傷つけ相食み合う地獄が待っている。そんな底なし沼に沈んでいくような破滅は、『悪役令嬢』だって跨いで通る。
『悪役令嬢』を下りた今のカトリーヌだって同じだ。
ずっと投げやりな気分でいたけれど。こんな人生どうでもいいって思ったこともあったけれど。自分もろとも父を破滅させてやりたいなんて、心の底から本気で思った瞬間もあったけれど。
血の繋がった父の、救いを求める眼差しは、ひどく甘美だけれども。
カトリーヌはもう、光の中で、光を浴びて、踊ることを知ってしまったのだから。
「私は、お父様の道具じゃない。私の自由は、私のものよ」
そして父もまた、娘の人生に干渉できるか否かなんて小さなことに拘うことなく、己の自由を何に使うのか、きちんと自分自身に向き合うべきなのだ。
娘から拒絶を突きつけられ、決定的な絶望に叩き落された父の瞳から生気が抜け落ちる。
前公爵はカトリーヌを一瞥し、ふ、と意味深に笑うと、そのまま父を促しホールの袖へと向かう。
もはや逆らう気力も生気もなくしてとぼとぼと歩き出す父に、新たにかけられた前公爵の言葉を、カトリーヌは聞き逃さなかった。
「……そして今一つ。自身は非凡な才覚によって幸運にも夫に見出され己の道を拓くことが出来たが、異端でありかつ非才なる者には己以上に手厚い扶けがあって然るべきである……と。そなたの母の言葉だ」
父の後ろ姿が大きく揺れて、わななく片手で顔を覆ったのがわかった。
ハリスンのために労を惜しまず心を砕いてくれる人は、確かにいたのだ。気づけないほど近くて遠くに。
たとえその根源にあるものが愛情ではなかったとしても。暖かな交流に基づいた理想の形ではなくとも。
人の群れの中で生きていく能力の低い父にとって、それは途方もない救いに違いない。
二十年越しに挫折という名の通過儀礼を与えて、問題児を公に破滅させると同時に人生を立て直させようという、頑迷なまでの恩義の深さ。策略を最後まで成し遂げた手腕、執着、途方もない根気……
ここにはいない、けれど確かにカトリーヌの中にいる『悪役令嬢』が、手を叩く。本来断罪されるはずの立場から降ろされ、諸悪の根源を正すためのだしにされた皮肉をたっぷりと含めた拍手と艶やかな笑顔を、祖母とその協力者へ。
『お見事でしたわ』
父を一顧だにしようとしない彼女の幻に、カトリーヌは自分が、『悪役令嬢』とは完全に袂を分かっていることを知る。
父は、決別すべき相手だ。けれど、だからと言って、存在そのもの全てを切り捨てられるほど、カトリーヌは割り切れない。
あんなのでも、やっぱり父で、結局カトリーヌにとっても人生のほとんどを共にした家族で。
茨を断ち切っても、互いにしがらみ合ったその跡は、どうしたって残るのだ。
それでも……今はもう、手をつなげる相手が、他にいるから。
「……さようなら」
表舞台を去る父へ、シンプルな別れの言葉を。
会場を満たす浮ついた空気にやるせない想いを溶かしながら、カトリーヌは袖の暗がりへと消えていく父の後ろ姿を最後まで見送った。




