(84)凡愚なる恩人のために
──パン!と高らかに手を叩く音が浮ついた空気を引き締め、皆の注目を強制的に舞台上へと戻させた。
指先まで神経を通した嫋やかな手を美しく重ね合わせる祖母と、その傍らに端然と佇みながら抑制的な笑みを浮かべる前公爵の姿に、自然、皆の背筋が伸びる。
前ツィザーレ公爵監修による舞台は、いよいよ佳境だ。
「以上により、カドレッド侯爵の爵位継承の正当性を証明できたと自負しておるが、御一同、如何であろうか」
途端に大人たちから統制の整った拍手が上がる。否を唱える者は当然いない。
「いやもうほとんど出来レースじゃん、貴族こわ……ッッッ」
「予定調和がすごい……さすが公爵閣下……」
「……まあ確かに怖い人たちではあるけど」
身震いせんばかりに慄くリリアと、若干顔を白くして遠い目をしているソキウス、さらには周囲で似たような反応をしているその他大勢の生徒たちをよそに、カトリーヌは祖母たちの意図を透かすように目を細める。
根回しは当然してあるだろう。知らなかった者でも、前公爵に逆らう選択を咄嗟にとる蛮勇はまず犯ささない。中にはツィザーレ家の政敵に相当する貴族もいるかもしれないが、だからと言ってこの場でこの件でごねるのはいかにも政争の具じみていてみっともなさすぎる。いずれのケースも、この状況では迎合を選ぶのが無難と言える。
なにぶん、現カドレッド侯爵の失脚を惜しむ人間など、社交界には存在しないのだから。
前公爵の策略が原因で腫れ物扱いだったと言っても、父個人にもできること、やるべきことは、本当はたくさんあったはずだ。まずは被害者と関係各所への謝罪と賠償、自らの手で破壊した人間関係の修復、失った信頼を回復するための誠実な行動、社会にとって価値ある人間たらんとする謙虚な努力……そうした誠意が少しでも感じられていたなら、今頃父にも擁護してくれる貴族の一人や二人はいたかもしれない。
しかし今、誰ひとりとして父の味方はいない。それが答えだった。
そう、徹頭徹尾、父の自業自得である。
これは、かつてなあなあで済まされてしまった婚約破棄騒動に本来付随すべきであった断罪劇を、二十余年越しに再構築させたもの。前公爵の言ったとおり、罪に対する適量の罰をもってして、かつて無下にされた秩序と被害者に報いるため。そして……
「皆の寛容に感謝する。──この場を以て宣言しよう。ハリスン・カドレッドの侯爵の勇退と、新たなブライアン・カドレッド侯爵の誕生を!」
いっそう大きな拍手が会場を満たしていく。
今この瞬間をもって、兄は前ツィザーレ公爵の後見を得たことが周知された。
同時に父もまた、前ツィザーレ公爵の庇護のもと穏便に侯爵の座から退くことを許された……という形になる。
今後父が社交界に復帰するのは事実上不可能だろう。そもそも父が社交をする必要は、カドレッド家としても、貴族社会から俯瞰しても、皆無と言って過言ではない。
その事実は、父にとって最もつらく受け入れがたい罰であり、これまでずっと目をそらし続けてきた現実そのもの。
けれどその現実を呑み込まなければ、かつて自業自得で人生を大きく脱線させてしまった父が、この先まだまだ続く人生を自力で歩いていくことは、永遠にできないだろう。
「ありがとう存じます。かねてよりカドレッド家の行く末を注視してくださっておられた皆様方におかれましては、至極無難な人選で恐縮ですが、この者が次代の侯爵となります。どうぞ、お見知りおきを」
やまぬ拍手の中で、とびきり美しく会釈する祖母と、皮肉たっぷりの笑みを浮かべながら黙して頭を下げる兄。
意訳すると「意外性のある展開じゃなくて貴方たちにはつまらないでしょうけどごめんなさいね」。……物見高い社交界の悪趣味をちくりと腐しておくあたりがさすがである。
カトリーヌは兄と似通った笑みで皮肉げに笑う。
(娘が愛玩動物なら、父は井の中の蛙ならぬ水槽の中の観賞魚か。ほんと、社交界は怖いところなのね)
少なくない貴族たちが、「某公爵の勘気」が偽りであると理解していたのと同じく、相当の年月をかけたであろうこの計画の落とし所もまた見通されていた展開だったのだろう。いずれこの結末に収束することがわかっていながら、社交界は父を腫れ物という形で野放しにして……要は、皆で笑いものにしていたわけだ。
逆を言えば、そうでもなければ父が社交界に存在することそのものが許されなかったということだ。己の足元がいかに脆いかも知らず、侯爵という肩書だけの栄誉に固執して無様に足掻く道化として、社交界に下種な愉悦を提供し続けてきたことこそが、「某公爵」への忖度以上に、父を今日この日以外の破滅から守り続けていたのだろう。
神輿は軽いほうがいい……というのは、こう見ると大嘘だ。軽すぎる神輿は方々動き回ってトラブルを夥しく呼び込んでくる。それを未然に防ぐために前公爵が要した策略のなんと周到なことだろう。祖母が今日この時を迎えるために割いた労力は如何ほどか。
それだけの手間暇をかけて、父はずっと、見放されずにきたのだ。
祖母自身が言ったのだ。「平民の娘を合法的に退場させる方策なぞいくらでも」……と。
祖母はそういうことを、ためらいもなくできてしまう人だ。たぶん相手が平民でなくとも、それが必要かつ可能だと判断すれば、容赦なく選択肢の一つとして実行してしまうだろう。
侯爵は侯爵でも社交界をまともに渡り歩くすべも知らない、実権のほぼ全てを母親に握られている状態の父を、その母親自身である祖母がその気になれば、表舞台から一瞬にして排除できない道理はない。そうすればしち面倒な手順を踏まずとも、祖父との契約はあっけなく反故にしてしまえる。
回りくどい契約に縛られてこんなふうに回りくどい断罪劇を演出せずとも、もっと楽な方法は、きっといつでも祖母の頭の中にあったはず。
それが実行されてこなかったことには、たぶん、当人が思っている以上の意味や価値がある……
「……本来ならば、今少し穏便なやり方に収めるつもりだったのだがな」
思いのほか近くに深い声音が響いて、カトリーヌは思考の波間から顔を上げた。
いつの間にか中央階段を降りてきたらしい前公爵が、父の前に立っていた。その声は決して小さくも大きくもない自然体。にもかかわらず、未だ続く拍手の音に紛れることなく、はっきりとカトリーヌの耳に内容が届く。
たぶん、わざとだ。声を張り上げずとも、聞かせたい相手のいる任意の距離まで適切に言葉が届く喋り方。人を率いる立場の高位貴族ならではの技術なのだろう。
「事態は我々が把握している以上に悪かった……そう知れたのはこの二、三年ほどのことでな。野次馬どもを納得させるための見世物を少々派手にさせてもらった。そなたが明確に能力に乏しく、侯爵の地位に相応しからざる者であること。実権を持たぬ飾り物であること。カドレッドの負うた歪みは、後継の正当性を儂が保証することで正されること。……これらを大々的に証明することを以て、「犠牲者」に報いるための土台とさせてもらった」
前公爵の手が父の肩に置かれる。何ひとつ父を慰めてはいないし、謝罪でもない。しかし敵対するためでは決してなかった、ということだ。
父はぼんやりと、王城の床を見つめている。もはや怒り散らすだけの気力もなさそうだ。
「……どうして」
憔悴を通り越して魂が抜けてしまったかのような口元から、ぽつり、と零れ落ちた言葉に、恨み言の響きはない。ただどこまでも疲れ切った疑問だけ。
「あの女はなぜ、父の契約に……俺を、侯爵にすることに、同意したのでしょうか……」
それはかつて、祖父こそが切実に問うた疑問。
前公爵は、ふむ、と呟いて、思考を泳がせるように目を細めた。
「そうだな……誤解されやすいことだが、彼女にとって、凡そこの世は生き易い場所ではない」
思いのほか踏み込んだ、思いもよらぬ表現に、憔悴以上の疑問を宿して父の目が上向く。
「能力の高い人間というものは確かに他の者よりも選択肢が多く、社会に必要とされ易く、凡人よりも生きるに易いように見える。だがそれは、基礎が社会の要請する健常の枠内に収まっている場合に限った話だ。何故ならば人類という群れによって構成される社会は、基本的には群れの中の多数派に適合するよう日々調整されているからだな。群れという機構そのものが種の繁栄のために大多数を生かすという選択肢である以上、この調整は常日頃から確実に発生し、結果として平均を大きく逸脱した異端者は社会から排除されていく傾向にある。平凡、平均的、中央値などとされる者こそが事実上の社会の中心であり、社会によって生かされ易い人間。翻してこの平均の範疇から外れれば外れるほど、その者にとって社会は生きにくい場所になっていく……ということだな」
人は平等ではない。平凡に生まれついた者ほど、実は誰より恵まれている。それが社会という名の群れが抱く宿命。
平凡な気質に資産や才能、容姿などが加算されていくのならば、その者は平凡以上に恵まれている。しかし平凡より逸脱した部分を制御できない者は、破滅とも仲が良い。
生まれ持った気質そのものが平凡の範疇に収まらぬ人間の場合、破滅への親和性はそれ以上。まず親や環境による選別の可能性が生じ、そこを乗り越えられたとしても、生きることへの迷いは凡人以上に頻繁かつ深刻になりがちだ。他者よりも才能があれば身を立てる扶けにはなるだろうが、そもそも異端者は社会に生きていく意味や価値そのものを見出すのが難しくなってしまう。生まれた以上は食べていかなければならない、という常識人の定型句が通じないケースも多いのだ。あるいは凡人のための社会などくだらないと背を向けて、裏社会や犯罪に身をやつすなどといった負の方向に突き進む傾向も強い。
──前カドレッド侯爵夫人、事実上のカドレッド領主、カリエーラ・カドレッド。そんな名実伴った彼女でさえ、生きるに惑う異端者であったのだろうと、前ツィザーレ公爵は看破する。
「刀自殿は常々、自分などは所詮……といった言い回しを好むが、これは謙遜などではない。己の感性が社会の規範から大いに逸脱しており、社会全体の価値観からは忌避されるものであると理解しているが故の発言だ。彼女はその気稟により、社交界に己の居場所を確立できなかった。己の能力を活かした婚姻を望んでいたのも、それ以外の方向性で前向きに生きる生き方を見出だせなかった故であろうさ」
愛情という感覚に実感がなければ、恋愛の素晴らしさはわからない。
身分や名誉、金銭は己の肉体を維持し、欲望を叶えるためのものだと割り切ってしまえば、欲望を失い肉体の維持に意味を見出だせなくなると同時にたちまち無価値なものへと変じる。
貴族として生まれつき、大人たちより示された価値観と人生の指針は、カリエーラにとって無価値と背中合わせのものばかりだった。
それでも彼女は彼女なりに、無価値なそれらを投げ捨てたりはせずに、社会の内側で生きていくすべを模索していたはずだ。
「探しあぐねていたその道を指し示した者こそが、そなたの父だ」
前公爵ジョナサン・カドレッド。うだつの上がらぬ非才の男。
しかし非才であり凡人であるがゆえに、人を頼るということを知り、面子や自尊心を棚に上げて実行できる男だった。
ジョナサンにしてみれば一方的にカリエーラを頼みにし、利用したつもりだったのだろうが……カリエーラにとっても、彼に頼られたことは救いになったのだろう。
「生きるに惑う者が、己が生きていくための納得の行く指針を示しそのための支援をしてくれた人間を、如何様に思うか。凡人も異端もさして変わりあるまい。それが愛情には結びつかずとも、湧き出ずる感謝の念は夥しく、報いねばならぬ恩義は一方ならぬものであったはず。彼女の人生にとってジョナサン・カドレッドはそれだけの人物なのだ。だからこそ彼女は、契約違反があろうともジョナサンを見捨てず、ジョナサンの意思を最大限に尊重し、ジョナサンの望みを全力を以て叶えんと尽力した……非才で、浅慮で、冴えない凡愚であろうとも、誰かを救うことも、誰かにとっての唯一の存在になることもできるということだ」
「────……」
深く、ゆっくりと。非才で、浅慮で、冴えない凡愚である父は息を呑み、視線を下げた。心を波立たせる幾重もの波紋を追いかけるように。




