(82)第三者
貴族の子女のうち、実は男児よりも女児のほうが社交の「武器」として有用であることが多い。
なにせ、貴族社会はなんだかんだ言って男社会である。実権を握るのが男性である以上、彼らのご機嫌を取ることが社交の主題と言って過言でもない。
権力者のご機嫌取りに普遍的に重宝されるのが、魅力的な異性──多くは女性である。容姿が優れており、華やかに装い、貞淑に微笑み、若ければなおよし。そうして売り込むことで、家格に釣り合わぬ玉の輿に乗れる可能性も決して夢物語ではない。であればこそ、貴族の女児は男性好みに美しく貞淑に育てられ、男性の目を愉しませる社交界の花であることが求められる。
言うなればハニートラップの原点。肌を露出して媚や体を売ることだけが色仕掛けではないのだ。
一方で男児の場合は、爵位を継承するにせよ家を出ることになるにせよ、まずは勉強第一。社交界に顔を出す機会はあっても、地道に自身の立場を確立することに注力すべきであり、若いうちにできることは限定的だ。
群を抜いて容姿が優れていれば、女児ほどではなくとも社交界の花になることはできる。が、男性以上に権力を持つ女性というのは極めて限られるうえに、玉の輿に比べると逆玉の輿に対する世間の風当たりは強い傾向にある。男色や稚児趣味の男性もいないではないが少数派だし、大っぴらにできるものではないから、建設的な利益に転換するのは難しい。
すなわち、親が男児を己のための社交の武器とするのは、女児に比べて実利が薄いのである。
だから、たとえ兄が家に居着こうと居着くまいと、社交界での名声だけを見ていた両親の関心は、早晩カトリーヌを社交の道具として利用することに移っていただろうと思うのだ。子供らの将来のために尽力する発想も度量もないあの二人なら、後継者の社交をフォローするなど夢のまた夢。それどころか自身の役に立つか立たないかで我が子を峻別することすら、当然やってのけるだろう。
兄が留学したからカトリーヌに全ての負担が来た、という因果関係はたぶん成立しない。兄が隣国に発った頃にはもう母は火遊びに夢中で、子供を使って社交界を渡り歩こうとすることに興味を失いかけていたし、そのぶん父の執着や干渉が強まったという面はあるにせよ、父一人相手ならさほどの脅威ではなく、カトリーヌ一人でもほどほどに躱してこれたわけで。
親からどういう絡み方をされたか、というのは枝葉でしかない。心に負担をかけている根本原因は、親がああいう人間性である、というどうしようもない現実そのものにあるのだから。
兄のせいではない。それは絶対。
ただ……そう。
家に理解者がいない状況は心細くて……逃げ場がどこにもない閉塞感は、たぶん、自分で思っている以上に……
(つらかった)
「……っ」
自覚した瞬間、心臓の裏側から鼻の奥に込み上げた気配を、カトリーヌは必死に押し留めた。ここで自己憐憫に酔って思考を鈍らせるわけには──
「────ふざけるなッ!!」
横っ面に叩きつけるような感情の破裂が、カトリーヌの感傷を殴り飛ばした。
父だ。皆の視線を一身に集めて、激しく肩を上下させている。立ち並ぶ祖母と兄を見上げるその顔は、苦悩も恥辱も入り混じった憤怒に染まっている。
「私を差し置いてその若造に爵位を継承させる、と!? 私はそのような横暴を許可しない!」
一度手に入れたものを奪われることへの強烈な怒り。それが今の父の頭を埋め尽くしているのだろう。衆人環視のただなかで実の息子を若造呼ばわりとは、もはや恥も外聞もあったものではない。
唾を飛ばして怒り狂う父に、祖母は鼻白んだ……とも思えぬようなほんの一瞬の微妙な沈黙ののち、淡々と反論を返してくる。
「説明義務は果たしました。これは先代の旦那様のご遺志であり、正式な契約に基づいた措置。わたくしの融通の利かぬ公平さを信頼してくださった旦那様の采配です」
「嘘だ! そんなことは後からなんとでも言える!」
「正式な契約と申し上げたでしょう。契約書も実在しております」
「契約などっ! 父上と母上が裏で勝手に結んだだけの、至極個人的なものでしょう!? そんなもの公的な効力など持たないはずだ!」
「この契約は本来表に出す類のものではございませんが、契約の手順と形式は公式に準じたものです。旦那様の死後における情報開示もまた、わたくしの権限として差配を任されております」
「俺が侯爵だぞ! 侯爵家の一切は侯爵に一任されているはずだ、先代の遺志だからと言ってなんの権利があってそんなことを──!」
「侯爵継承の際には全てを開示するよう差配した……と申し上げたはずです。王城での最終継承手続きにて、公証人から継承の前提条件を提示されませんでしたか? お前がカドレッド侯爵を継ぐ場合、後継者の指名権限が剥奪されること、わたくしがお前の後継者を指名した時点で速やかに退任手続きが執行されること……公証人には文面を読み上げてしかと理解させるよう依頼してあったのですが」
「……っ」
「……話をろくに聞いていなかった、と」
「ち、違う! 読み上げなどされていない! 公証人の怠慢だっ!」
「そうだとしても、継承についての書類は渡されたはずです。自らの意志で爵位継承のサインをした以上、後継者の件を含めた全ての契約内容を熟読、理解したうえで合意したものと見做されます。お前がそうしてカドレッド侯爵を名乗っている時点で、後継者の指名権限を自ら放棄したことと同義なのですよ」
「────っ」
悔しげに顔を歪めて言葉を失くす父。完全に祖母の優勢である。
(でも……祖母は祖母で、少し強引すぎない……?)
目の前で繰り広げられる情けなくなるほどの醜態にまみれた家庭内抗争に、一周回って冷静さを取り戻したカトリーヌは、父より少し速い速度で思考を先に走らせる。
父が主張したとおり、この国における侯爵という身分は決して軽んじていい存在ではない。たとえ望まぬ爵位継承になってしまったのは本人の不手際が原因の自己責任だとは言っても、侯爵ほどの立場となれば法廷で争うことも不可能ではない。
その際、「先代の遺言という口実で侯爵の権利を侵害する条項が付け加えられていたのは如何なものか」という点を争点にすれば、父にも勝利の目が出てくる。身分制度の恩恵を最大級に与る貴族社会にとって、それほどまでに爵位の権利とは重大なものなのだ。
二十年余前に遡及してまで侯爵の権利を侵害した者──すなわち祖父母に罰を与えることは現実的ではないだろうが、問題の条項を無効化できる可能性は決して低くはない。そうでなくともそれらの是非について審議を長引かせることで、父が侯爵の座に居座る時間を稼ぐことはできる。
翻せば、今回の祖母による一連の見世物は、実は土台からリスクの高い行為だと見ることができる。
父は断罪されるに足る人間だろう。しかし侯爵の肩書はやはり無視できるものではない。
カドレッド家の内部事情的には、財布の紐を握るどころか財布そのものである祖母に楯突くことができる者などいるわけがないのだが、そんな事情を斟酌する義理もないよその貴族からの視線は厳しいものになるだろう。こんな準社交界とも言える卒業パーティで、実権を握っているとはいえ前侯爵夫人でしかない祖母が現役の侯爵である父を糾弾するのはかなり外聞が悪いし、蚊帳の外からなんらかの横槍が入る可能性もある。
……だが。ならばなおさら。
(そんなこと、カリエーラが気づいてないはずない……そんなリスクは最初から犯すはずがないわ)
断罪のさなか、ずっと続いていた違和感。
合理性に重きを置き、社交を忌避する祖母は、元来悪目立ちすることを好まないたちのはずだ。こんなふうにカドレッド家のお家騒動をわざわざ衆目の見世物にするなど、どう考えてもおかしい。
だとすれば……
「──!」
カトリーヌは弾かれたように顔を上げた。すぐさま祖母の披露する舞台に好奇の視線を注ぐ観衆へと目を走らせる。
明確な探し人がいるわけではない無闇矢鱈な捜索は、吸い込まれるようにとある人物を捉えた。穏やかな物腰に抜け目のない空気を馴染ませた、父と同年代の紳士──
カトリーヌの視線に気づいたエズモンド子爵が、手を上げてにこやかに笑いかけてきた。
彼の傍らにいる淑女は、老齢の……おそらく祖母より一世代は上と思われる老婦人。社交に疎いカトリーヌには見たことのない顔だが、何者なのかを推量するのは容易い。並んで佇む二人は、どこか似通った面差しをしていたから。
子爵とは違ってカトリーヌの凝視に気づいていないらしい老婦人は、祖母のいる階段上を見上げたまま、ふと誰かの姿に気づいたように微笑み、そちらに向けて柔らかに手を振った。
カトリーヌは反射的に老婦人が手を振る方向を振り返った。こちらを観察しているかのような視線をよこしてくる祖母の姿を視界の端に素通りし、即席の舞台となっている踊り場のさらに上へ。
卒業パーティ中は閉鎖されている謁見の間の手前、兄とは逆方向の階段の降り口から、一人の男性が降りてくる。
おそらくは老婦人と同年代。相当な老齢でありながら杖にも頼らず、厳しくも矍鑠とした足取り。品の良いシルバーグレーに整えられた白髪頭も、若かりし日の端正な面影の色濃い顔立ちも、実年齢を感じさせない。ただ深々と刻み込まれた顔の皺だけが大樹の年輪の如く歳月の経過を否応なく知らしめ、その厳格な人柄を浮き彫りにしている。
知らず知らず背を伸ばさずにはいられないような厳粛な空気の中、老人の接近に合わせて祖母が口を開いた。
「……わたくしと旦那様の、あくまでも個人間のものでしかない契約が、侯爵の権限に干渉するのは越権行為だ……というのがハリスンの主張でしょう。ですがそれは前提が間違っています。これほどの大事を、わたくしが非公式の契約に収めたままなんら対策を講じずに実行すると思いますか?」
淡々と言い放ったのち、祖母は老人へと深々と頭を下げながら身を引いた。傍らの兄もそれに追随する形で腰を折っている。
二人に迎え入れられる形で、老人は威風堂々と踊り場という舞台に立った。……いかめしいその顔が、観衆の中にいる彼の老婦人と目が合うと少し微妙な表情になって、さっと一瞬だけ手を上げて彼女に応えたのをカトリーヌは見逃さなかった。何食わぬ顔ですぐさま手を下ろした老人を見る祖母の眼差しに若干の呆れが混ざった気配も。
気を取り直し、祖母は優雅に上向けた手のひらで老人を示しながら、観衆に向き直る。
「こちらは前ツィザーレ公爵閣下。契約の追加条項締結の際にお立会い頂き、爵位継承の手配にご助力くださった、我がカドレッド家の後援であらせられます」
その名は、カトリーヌも、よく知っている。……名前だけは。
名義を貸したサロンで祖父に勝手に死なれ。
醜聞の温床である父を、その権威を惜しみなく用いて飼い殺しにし。
エズモンド子爵越しにカトリーヌに首輪をつけ続けた……
名前を口に出すのを憚られる「某公爵」、その人である。




