(81)ブライアン・カドレッド
ジョナサンの葬儀を粛々と差配したのちも、カリエーラは王都で忙しく後始末に動き回った。
そして、ハリスンの爵位継承手続きが学園卒業後に予定している最終段階を残して概ね片付いた頃合い。カリエーラが諸用で子供らを残して家を空けたほんの短期間の隙に、学園の卒業パーティでハリスンがやらかした。
恋に溺れた貴族令息の愚の骨頂。「真実の愛」を謳った身勝手な婚約破棄。
ハリスンの婚姻を左右できる侯爵がすでにこの世に亡く、唯一同等に近い実権を有する侯爵夫人がすぐには帰宅できないタイミングを狙われたこと。当時の卒業パーティには大人の介入が最小限だったこと。学園内には侯爵内定者以上に身分の高い者が生徒どころか教職員にすらいなかったこと。のちに判明したことだが、そもそもこの頃の学園には密かに汚い金が流れ込んでおり、それが迂遠に作用したこと。かてて加えて、貴族社会の慣例的に、侯爵不在のカドレッド家においては侯爵内定者の決断が大きな力を持つという現実。
こうした様々な要因が重なった結果、侯爵子息が婚約者を罵倒した挙げ句に一方的な婚約破棄を突きつけ、平民の娘を妻に迎えると宣言するという狂気の沙汰が、事もなくまかり通ってしまったのだ。
ハリスンとジュディは即日登城し、カリエーラが準備していた手続きを勝手に進めてさっさと爵位を継承、侯爵の権限をもってして婚約者の挿げ替えを強行した。そして直後速やかに二人でカドレッドの邸宅へ向かい、適当な名目で妾の子らを家から追い出し、爛れた蜜月に耽溺したわけである。
一連の騒動の一報をとある公爵の屋敷で聞いたカリエーラはさすがに頭を抱えたものだったが、ジョナサンとの契約に従って静観を決め込むことにした。電光石火で最終手続きを終えたハリスンは、すでにして侯爵その人となってしまった。後継者の当てができるまで、侯爵家はどう転んでもハリスンの天下なのである。
そんなことより家を追い出されたロビンとコリーナへのフォローが百倍大事だ。本人たちの機転とカリエーラの尽力で、二人の身柄はつつがなくコリーナの婚家の王都居宅に保護された。そこで世話になりつつ、ロビンは予定を前倒しで王城併設の文官寮への入居を急ぎ、コリーナは結婚までの短い期間、婚家の領地屋敷で花嫁修業に勤しむことになった。
ロビンとコリーナの手配を急ぎ済ませ、義親子で顔を合わせる時間もそこそこ。思っていた以上に忙しないものになってしまった二人の旅立ちを見送って、カリエーラも王都での全ての諸用を済ませて仕事が山積みの領地へと戻った。三人が三人とも、王都の邸宅には一度たりと帰ることなく。
さて、蜜月には結果がつきもの。正式な婚姻を待たずして、ジュディは腹に子を宿した。
それが、長男ブライアン──カトリーヌの兄である。
結婚を大いに前倒しにして、ジュディの腹が大きくなりすぎる前に形ばかりは盛大な結婚式を上げ、その数ヶ月のちにブライアンが誕生した。母親からは髪色を引き継ぎ、父親に似た面差しの長男を、夫妻は目に入れても痛くないとばかりに可愛がった。
さらに数年後には長女であるカトリーヌが生まれ、家族関係は順風満帆。内向きに満たされて、そろそろ外からの称賛も欲しくなったハリスンが社交界に出るようになってから、何もかも裏目に出るようになったのはカトリーヌの知るとおり。
なにせ、ハリスンはお飾りの侯爵だ。侯爵としての主軸である実務は何もかも他者に丸投げしている、父親と同じぼんくらである。舐められたらおしまいの社交界で、ヒエラルキーが最底辺になるのも致し方なし。
代官に実務を任せて遊び歩く貴族など珍しい話ではないが、そんなことは毛ほども感じさせずに、いかにも自分が主人でございと振る舞う演技力や社交性、隠蔽能力などがないと格好がつかないのが社交界である。しかしハリスンの場合、多少取り繕ったところで内情は丸見えだ。卒業パーティという公衆の面前で醜聞を撒き散らし人々の注目を浴びたがために、カドレッド家のその後の動静も静かに注視され続けることになってしまったのだ。結果、ハリスンが侯爵の実務などろくにしていないことも、カリエーラこそが実質的なカドレッド家の主人であることも、聡い者たちにはあっさりと露呈していたのである。
すなわち「現カドレッド侯爵はいい歳して実母の脛をかじっている」と。
……これが社交界でなくとも舐められないわけがない。さらにカドレッド侯爵死亡の醜聞にまつわる某公爵の圧力なども加わり、カドレッド侯爵家は社交界においてお触り厳禁の腫れ物扱いになったわけだ。
そうした社交界での失墜のしわ寄せで、転げ落ちるように夫婦仲は険悪になり、我が子への関心もどんどん薄れていった。
その頃にはすでに物心ついていたブライアンにとって、両親からの惜しみない愛情が失われることは大変な負担だった。自身に注がれる二人の眼差しから熱が失われ、やがて目が合うことも稀になり、顔を合わせる機会すら如実に減っていく……その痛みは、始めから「持たざる」カトリーヌとは色の違う喪失感だったことだろう。
ブライアンもまたカトリーヌと同じように、親の関心を得ようと足掻いた時期もあるらしい。もちろんあの両親が我が子に心を戻すようなことはあり得ず、寂しい思いを重ねていった。
しかし、思春期にさしかかり、本格的に心がねじれる前に、ブライアンはふと思い出した。今より少し幼い頃に、領地の本邸で一度だけ顔を合わせた祖母から与えられた本と、意味深な言葉を。
「お前が、父と母のことを考えるのが少しでもつらいと感じるようになったなら、この小説の最後の台詞を、王都邸の執事に告げなさい」
手渡された本は、今思えば厳格で知られる祖母からの贈り物としては意外な、巷で人気の冒険活劇だった。
ブライアンは悩みに悩み抜き、心が擦り切れる前に意を決して、言いつけどおりに実行することにした。
小説の主人公は冒険者。幾多の街を旅して回り、数々のダンジョンを踏破し、数多のトラブルを解決し、それでもなお飽くなき冒険心に突き動かされてやまない。だから彼は、何もかもが大団円に収まった物語の末尾にも、こう叫ぶのだ。
「……『世界はまだまだ広い。ぼくはもっと、いろんなところを旅してみたい』」
仕える家の嫡男に、おどおどと脈絡のない言葉を投げかけられた執事は、しかし驚くことなく顔色ひとつ変えずに、ただ静かに会釈した。
その数日後には何もかもがお膳立てされた状態で、ブライアンはあれよあれよと馬車で領地に連れて行かれることになった。
拒否権もなく父母から引き離される不安は大きかったが、祖母からの急な呼び出しには嫌悪もあらわに、我が子を差し出せば自分たちは出頭せずとも良いという条件を喜んで呑んだ両親の顔を見てしまえばもう、居ても立っても居られず、一刻も早く家から離れてしまいたかった。
領地で孫を出迎えた祖母は静かに歓迎の意を表すと、脈絡もなくブライアンに小間使いのような他愛ない仕事を与えてきた。それも毎日。
「当時はわかっていなかったが、要は叔父上叔母上にやったのと同じ再教育……ってことなんでしょ?」
傍らに視線を送り、祖母に向けてちらりと笑う兄。全体的に少々軽薄さが鼻につくが、今どきの貴族としてはまあ許容範囲の内側だろう。
投げかけられた疑問に対して、祖母は正面を見たまま答えない。
しかし当時の祖母の意図は、今となっては疑いようもない。自己肯定感と存在意義を取り戻すべき子供は、ロビンとコリーナだけではなかったということだ。
ブライアンは穏やかな表情で懐かしげに目を細める。
「しかし俺……私は、叔父上や叔母上ほど素直ではなかったよ。これでも嫡出子の端くれだったからな、変な虚栄心や反発心ばかりは一丁前で、なぜ俺がこんなこと、というのが口癖だった。隙あらば反抗したり、呼び出しをやり過ごしたり、仕事自体をバックレ……放棄したり、いろいろやったものさ。まあ大体はお祖母様や周りの大人たちに言いくるめられたり上手いこと誘導されたりで、結局小間使い役を完遂させられる羽目になったものだが」
……反抗的なブライアンを、しかし祖母はいちいち叱りつけたりはしなかった。それがかえってブライアンをいたたまれない気分にさせた。
それでいて仕事は毎日よこしてくる。ブライアンが役立たずだった翌日もおかまいなし。祖母の部下である周囲の大人たちも、飽きもめげもせずに何かとブライアンをかまい続けた。成功には称賛を、失敗には助言を、反抗には沈黙を。
そんな物慣れない状況が煩わしいような面映ゆいような、なんとも言えない感覚を持て余した末に、ブライアンは一度領地から逃げ出した。父母の元からの帰宅を促す連絡に乗っかって、王都の屋敷へ戻ったのだ。
その時も、祖母は特に反対はしなかった。気が変わったのならまたいつでも来なさい、とだけ告げられた時には、もう二度と来るものかと心の中で毒づいたものである。
王都に戻ってからは世話を焼かれる一方の生活が戻ってきた。怠惰で退屈な日々に逆戻りだ。
両親がブライアンを呼びつけたのは、社交に子供を利用しようといういつもの病だった。領地から帰る言い訳にした手前、祖母に対する体裁を整える意味で、ブライアンは素直に両親の言いつけに従った。……その動機が、いつのまにか両親の関心を得るためではなくなっていることを、ぼんやりと訝りながら。
久方ぶりに戻ることになった社交界は、ひどく無味乾燥な世界に見えた。腹の底では何を考えているかわからない作り笑顔に、中身のないお決まりの美辞麗句。
祖母に連れられて顔を出した近隣諸領の会合でも称賛の応酬や腹の探り合いはあったが、もっと見ていてハラハラさせられるような、それでいて充実感のある内容だったように思う。
それに比べて貴族同士の探り合いはどこかじっとりと薄暗く、常に裏側に嘲笑が張り付いているような、薄汚い軽薄さがつきまとっていて……
……いや、違う。
ここに、実際に陰で嘲笑されている人物がいるから、そう感じるのだ。
人々に嘲笑されるような人物がなんとかかき集められた程度の人間ばかりが集っているから、薄汚さばかり鼻につくのだ。
ブライアンが嘲笑されている人物の側の人間とみなされているから、悪意を向けられてしまうのだ。
貴族だから、社交界だから、ではない。
そこにいる一人ひとりの人品に問題があるからこそ、必然的に集団は澱むのだ。
釈然としないものを抱えたまま、それでもそつなく社交をこなしたブライアンを、両親は大仰に褒めた。その芝居がかった白々しさに、ようやく愛してもらえた……と喜ぶことは、その時にはもう難しかった。
どうしても祖母の淡々とした褒め言葉と比較してしまう。あの、どう見ても他人を褒めるのが下手くそな祖母が、それでも必要だと考えて、簡単な仕事を全うした孫をぽつりと労うひとつひとつの言葉と比べて、両親の達者な言葉はなんと浮薄なことだろう。自分にとって都合の良い駒を手に入れた喜びから湧き上がる称賛に、なんと中身のないことだろう。
褒められることそれ自体に価値があるとは限らない。本当に重要なのは、褒めてくれたのが誰なのか、なのだ。
……この場所に居続けることに、果たして自分にとって意味はあるのか。
視線は自然と、領地の方角を向いた。
「……以降、私は年の半分以上を領地で過ごすようになった。父上も母上もあまりいい顔はしなかったが、王都の屋敷ではろくな嫡子教育もできないだろう、とお祖母様から説得してもらってね。二人ともお祖母様とは極力関わりたくないらしくて、私は体の良い生贄役にされたのをこれ幸いに領地に居着かせてもらうようになったわけだ。もちろん私自身も二人の不満が溜まりすぎないよう、重要な社交にはきちんと顔を出して、良い子のふりで媚を売りまくったものさ」
兄の、突然の息子登場の衝撃から立ち直れていないらしい父を見下ろす目の生ぬるさといったら。もう共感しかない。
家の主の社会的信用は、そのまま人脈の多寡に比例する。カトリーヌの教育係の確保に苦心したように、最重要であるはずの嫡男の教育でさえままならなかったらしい。それを解決してやろうという祖母の提案は両親にとって渡りに船。面倒事をまるまるよそに放り投げて、自分たちは美味しいところだけを収穫できる、甘い誘惑である。
そうして兄は、限定的な自由を手に入れた。
「その後領地でどうやって暮らしたかは、ご想像のとおりと言ったところだ。私はとりたてて領地経営の才能があるというわけでもなかったが、才能の有無よりも学ぶこと、経験することで乗り越えられることのほうがずっと多かった。どうしても行き詰まった時には専門家や先達の助けを借りることだってできる。できなかったことが徐々にできるようになるのは楽しかったよ。生まれて初めてやり甲斐のようなものを感じていた。まあつまり、お祖母様の掌の上で転がされていたわけだがな」
「人聞きの悪い……。わたくしは個々人の才能の有無については問いませんが、やる気のない者、適性が一切ない者に無理にお役目を押し付けるような非合理は好みません。お前に経営の手ほどきしたのは、お前にそれなりに見込みがあり、お前自身が少なからず意欲を見せたからこそ。お前が後継の立場を拒むのならば他の道を用意し、煩雑な手続きを覚悟して外部から養子を迎えるつもりでおりました」
「そこまで買って頂けていたとは光栄の至り。……まあそんなわけで色々あって、十五になる頃には嫡子教育の名目で隣国に留学に行かせてもらって、色々あってこのたび帰ってきたわけだ。私の時代にはすでに貴族の慣例になっていた学園通いを蹴って出国することになるから、反対はされたがね、父上と母上の説得はそう難しくはなかったよ。お祖母様の後ろ盾もあったし……あの二人の関心は、その頃には私以外に移っていたようだからな」
ふと細められた兄の目と、カトリーヌの視線が絡んだ。どこか、憐れむような……申し訳無さそうな。
……物心ついた頃にはすでに家に居着かずほとんど見かけることすらなかった兄という人物は、カトリーヌにとっては何を考えているのかわからない、どう生活しているのかも知らない、知ろうと思ったこともない、近くの他人より遥かに遠い存在だ。それなのに。
「……自分なりに自分らしく生きるだけで手一杯で、俺は俺の行動が結果的に他に犠牲を強いていたなんて思いもしなかった。最近になってそういうことを教えてくれた奴がいるんだ。だからまあ……今更だと思われるかもしれないが、自分の不始末にはきっちり片を付けるつもりではいる」
近くて遠い兄の、少し粗暴な口調で告げられた言葉に、なぜか胸と目の奥に熱いものがこみ上げる感覚を、カトリーヌは感じていた。




