(75)カリエーラ・カドレッド
一年以上前。あの池畔で、カトリーヌがソキウスに語ったカドレッド家の来歴の中に、実のところ動向が判然としていない人物が、一人だけいる。
先代侯爵が低迷する家を盛り立てるために娶った才媛──カリエーラ・カドレッド前侯爵夫人。
……すなわち、カトリーヌの祖母である。
現実に、カトリーヌは彼女の動静を一度たりと聞き及んだことがない。
自分に祖母がいるということは知っていたが、直接顔を合わせた記憶もなければ、どこで暮らしているのかも知らない。幼い頃に祖母が生きているらしいことを聞いたような覚えがあるし、その後訃報も聞かないから今も生きてはいるのだろうとはぼんやり思ってはいたけれど、事実を確かめようと思ったことさえなかった。物心ついた時にはすでに、その程度の確認を取るために話しかけるのも億劫な親子仲だったから。
だが……こうして祖母だという人が恩師ミセス・マトローネとして目の前に現れた今となっては、もっと警戒心を持っておくべきだったと、カトリーヌは痛感する。
初めて講義で顔を合わせた時の、あの探るような視線、意味深な態度。本来は年輩者のために開かれるサロンへ招待される特別待遇……
にこりともしない冷めた態度は彼女の天性であって、カトリーヌ個人に対するわだかまりからくるものでないことは信じられる。厳しくはないが甘くもない、様々な情に欠ける指導も同じく。
しかしその端々に常に感じていたかすかな違和感は、身内の因縁から生じるものだったのだと言われてみれば、しっくりこないでもない。
祖父が死んだ時、父は我が物顔で家長となり、母を夫人の座に据えた。その時家から追い出された家族の中に祖母も含まれるのかは判然としないが、少なくとも侯爵夫人の立場を強制的に引退させられたのは間違いないだろう。
すなわち、祖母もまた叔父叔母のように、父となんらかの確執を抱えている可能性が高い。
……その父の娘であるカトリーヌを、彼女はいったいどんな思いで指導していたのだろうか……
「そのように顔を青くする必要はありませんよ、──カトリーヌさん」
名を呼ばれ、カトリーヌはわずかに肩を揺らしてしまった。
ミセス・マトローネ……カリエーラ・カドレッド前侯爵夫人と思われる女性は、相変わらず感情らしい感情を覗かせずにカトリーヌを見つめながら、ようやく喉元につかえていた言葉を吐き出せたとばかりに深い吐息をついた。
「もとより「家族」と呼ぶべき縁など結んでいないも同然のわたくしごときが、カトリーヌさんの人生に差し出口を挟むつもりは毛頭ございません。──ですが」
視線が外され、未だ衝撃から立ち直れていないらしい父へと転じられる。
「そこにおります貴女の父親とは、縁がないものとは口が裂けても申せませぬゆえ、今この場において介入することに致しました」
「…………なにを」
ぽつり、と無意識に零れた自身の言葉に正気を取り戻したか、父は顎を引き、見開いていた目を攻撃的に据わらせた。しかし動揺は隠しきれず、こめかみに汗を浮かべながら恐ろしい早口で畳みかけ始める。
「突然何を言うのです母上、これまで家政のことには無頓着でいらしたでしょうに。そもそも領地で静養されているはずの貴女がなぜここに? このように騒がしい場所は身体に毒でしょう、誰か母上を外へ──いや私が付き添ったほうが良いな、行きましょう母上、私がお支えいたし──」
「──おだまりなさい」
一言だ。
たったの一言で、道化の一人芝居のようだった父の動きが冷水を浴びせられたようにぴたりと止まり、祖母は沈黙を勝ち取った。
その実に見事な偉力に加えて、普段の講義やサロンでの健勝な様子から察するに、静養が必要となるなんらかの不調を抱えているようには到底見えない。どうやら父には、はったりを使ってでもこの場から祖母を連れ出したい理由があるらしい。
「都合が悪くなれば言葉数に任せて場を誤魔化そうとする……そんなところは旦那様に瓜二つですね」
ため息と共に吐き出されたささやかな感想に、父の顔がカッと赤くなる。仲違いをしていた祖父に似ていると言われるのは屈辱なのだろう。
しかし父がなんらかの反論をする前に、祖母は隙なく続きを切り出す。
「わたくしがカドレッド領に張り付いていたのは静養のためなどではないと知っているでしょうに。一時期身体を壊していたのは事実ですが、もう三年ほど前の話ですよ。専門の医師に掛かるために王都に上京する旨はすでに通知してあるはずですが」
「お、お体が悪いのならなおさら休まれていらしたほうが……」
「現在はこの通り、ほぼ回復しています。これも通知済みですよ。……しかし寄る年波には勝てないものですね。さすがに若い頃のように憂いなく身体を動かすまでには至らず、以前のようにお勤めに専念することはまだ難しいとの医師の見解に従うことにいたしました。今は学園と商会のご厚意もあって、激務にならない範囲で働きながら予後を見定めているところです」
確かに特別講師は常勤の教員に比べれば格段に負担の少ない仕事だが、同時進行でサロンも経営しているとなると、引退世代の貴族婦人としてはなかなか精力的に働いているほうだと言える。それらも問題にならないほどの「激務」とは……
(……まさか)
心当たりは、ひとつある。ただひとつだけ、必ず果たされるべき重責でありながら、今現在カトリーヌの目線からは空席のまま宙に浮いて見える、大事な大事なお役目が。
ひやりと背筋を脅かす不吉な予感に突き動かされて父の様子を見やれば、祖母を見上げる横顔にはこれまでとは明らかに違う種類の焦燥が浮かんでいた。
「……しかしそう長く領地を空けたままにはっ……いや、やはり王都にいては治るものも治らない、今からでも医師を連れて領地に戻られたほうが……!」
「ハリスン。わたくしは領地に戻るつもりはありません」
祖母の無慈悲な断言に、父の喉が憐れに潰れた異音を奏でるのが聞こえてしまい、カトリーヌは顔を覆いたくなった。
「そんな……ならカドレッド侯爵領はどうなるのです! 誰が領地を管理すると言うのですかッ!?」
──語るに落ちるとは、このこと。
激情にかられて叫んだ直後、怒りに紅潮していた父の顔からザッと血の気が引いた。慌てて周辺に視線を馳せ……時すでに遅いことを悟る。
周囲には生徒だけでなく、壁際で子供たちの様子を見守っていたはずの保護者や教員の姿も入り混じり、刻一刻と人垣の厚みが増しているのである。心ある大人たちは無粋な大人がホール中央に乱入した時点で中央まで出張ってスタンバイしてくれているし、今になって好奇心丸出しの野次馬として集まってきている連中も多い。
要は、この茶番の一部始終はすでに大人世代にも共有されており、物見高い貴族たちの口に戸を立てることは叶わず、口から出た言葉は二度と取り消せないという残酷な現実である。
すなわち。
カドレッド侯爵領の管理は祖母が一切合切担っており。
本来の責任者であるはずの父は、領地の一切合切を祖母に頼りきりであり。
祖母が仕事を放棄した暁にはにっちもさっちもいかなくなる。
……という告白を、社交界に向けて大々的に喧伝したに等しいのである。
「ぁ……いやっ、ち、ちがうっ、誤解だ……!」
もはや青を通り越して白い顔でしきりに首を振りながら言い訳じみた奇声を上げる父。
カトリーヌはもう恥も外聞もなく両手で顔を覆ってしまった。いっそ殺せと叫びたい。
侯爵が寄りつかずとも順調な領地経営の裏には優秀な代官がいるのだろう、という推測は的中した。
しかしその代官が、侯爵が見出し任命した専門家であるのならまだしも、侯爵の実母であったとなれば、話の毛色は数段変わってくる。
正式に爵位を継いだ貴族が、自身の母親に自分の仕事を任せきりにして、母親の稼いだ金で暮らし、母親に維持してもらっている爵位を使ってのうのうと社交界で豪遊する……
……とんだすねかじりである。
そしてあろうことか、甲斐性なしのくせに子を成したうえ、母親からもらった小遣いで我が子を育て、父親風を吹かせてくる。現在形で。
(……愛玩動物か……!)
十八年越しに明かされた衝撃の真実に、もはやカトリーヌの膝が砕けそうだ。隣に立つ人がさり気なく背中を支えてくれなければ、実際うずくまっていただろう。
まともな親子関係なぞとっくの昔に諦めていたが、しかしそれにしたってこれはひどい。
夫婦仲のこじれから育児放棄に発展した、というのがこれまでの定説だったが、問題はもっと根っこのところにあったらしい。たぶん最初から、自分たちは親子などではなかったのだ。
世の中には様々な親子事情があるのだから、子供を経済的に養わなければ親ではないとまでは言わない。だが貴族は違う。曲がりなりにも正式に爵位を継いだ、豊かな領地を預かる立場の高位貴族たる健康体そのものの侯爵が、曲がりなりにも正妻に産ませた嫡出子を、実の母親の稼いだ金で養うとは何事なのか。
もはや、子犬を飼いたいと親にねだり、最初のうちこそそれなりに面倒を見るものの、子犬が成長するにつれてだんだん興味を失い億劫になって、やがて全ての世話を親に丸投げするという、子供あるあるのざまである。……蛇足だが、父は今年四十路に足を踏み入れたはずである……。
いい歳の仮にも侯爵が。我が子を、親を、社会を、自分以外のあらゆる他者を、どこからどこまでどれだけ馬鹿にし尽くせば、これほど厚顔無恥な生き方ができるのだろうか。
「……なぜ……」
ぞろりと、底のほうから胃の腑を脅かすような声がして、カトリーヌははっと顔を上げた。
恥辱に顔を真っ赤にした父が、小刻みに身体を震わせている。感情の爆発の気配……
「──なぜ! 今さら! ……我が子のことなど一顧だにしなかった貴女が、今さらッ!! なぜこのような仕打ちを……っ!? 我がカドレッド家の恥を曝してなんのおつもりですか!?」
額に青筋を浮かべ、血走った目を見開き、口を卑しく歪め。もはや恥も外聞も吹っ飛んでがなり立てるさまは、色男も台無しだ。
父も自身の両親に含むところがあったのか? ……しかし妙に打算的な芝居が入り混じっているようにも感じる。
切迫した我が子の訴えにも、ミセス・マトローネは……祖母はまるで揺るがない。
「それが、旦那様との契約だからですよ」
「父上との契約!? 一体何を……」
「お前、知らぬはずはないでしょう。遅くとも爵位継承の際には全てを開示するよう、しかと差配しておいたはずですが。……まさか引き継ぎ書類に目を通していないとでも?」
「……ッ」
疑念、苛立ち……初めて感情の色をあらわにした祖母の眼力に、圧倒されたように父が一歩後ずさった。力関係は歴然だ。
父の態度に全てを悟ったらしい祖母は、諦観の乗った深いため息を落とした。
「……相も変わらず緩怠な。旦那様の責任かお前自身の失態なのかは、この場では保留しておきましょう。──ですが問は発されてしまった。それもかように衆目のある公の場において。わたくしには、今この場でお前の疑問に答える義務がありますね?」
「……っ、い、いや、それは、待っ──」
「ここで話を打ち切っては誤解のもと。皆様もこのままでは据わりが悪うございましょう」
焦る父を捨て置いて、祖母はギャラリーに視線を馳せ、一部の隙もない完璧なカーテシーで深く頭を下げた。
「改めまして皆様にご挨拶申し上げます。わたくしはカリエーラ。亡きカドレッド前侯爵の家内でございます。ここ二年ほど、「ミセス・マトローネ」として手芸の特別講師を勤めさせて頂いておりました。学園のご厚意に甘え、今日まで実名を伏せて教鞭をとっておりましたこと、ここに深謝申し上げます」
張り上げているわけでもないのに、祖母の声はホールに朗々と響く。明朗な口上は流れる水の如く澱みない。最上級のカーテシーを維持し続ける身体の負担は若者の比ではないだろうに、わずかのゆらぎも震えも感じさせない見事な姿勢。
その細い全身全霊をもってして、決して無視はできず、無下にもできず、むしろ有無を言わせず圧倒させられるような存在感を醸して憚らない。
……淑女の年季と格が違いすぎる。カトリーヌに唯一勝てる要素があるとすれば、感情表現くらいのものだ。
「そしてこのたびの騒動もまたカドレッド侯爵家の内部事情に根ざしたもの。二十年前の不始末と併せ、重ね重ねお騒がせして誠に申し訳ございません。……とはいえ往時の醜聞ゆえ、ご存知ない方もおありでしょう。つきましては、身内の恥を晒すようではございますが、弁明の機会を頂けたなら幸いでございます」
祖母が語るべきを語り終えると、ホールには余韻を帯びた沈黙が落ちた。
数拍ののち、どこからともなく拍手が上がった。一人、二人、三人……おそらくは「二十年前の不始末」を知っているだろう大人たちを中心に、容認を意図した穏やかな拍手が漣のように場を満たしていく。偽名で講師をしていたことへの非難は上がらない。不自然なほどに。
満を持して、ミセスが……祖母が顔を上げる。相変わらずの無表情に、揺るぎのない貫禄。
父もカトリーヌも、もはや言葉もない。
完全なる祖母の独壇場である。
「ご寛恕ありがとう存じます、皆様には卒業祝いの余興としてお楽しみ頂ければ幸いにございます。──当主が実務より離れて久しい、我がカドレッド侯爵家が今ここに至るまでの、真実の経緯を」
細められた祖母の瞳は父をひたと見据え、威厳だけで反論を封じている。
──ここから始まるのは、カトリーヌがやった匂わせとは比較にならない、本物の暴露だ。
固唾をのむような空気の中で、いつの間にか人垣の最前線に出張ってきていたリリアの、圧倒されたような呟きが響く。
「ふぁぁ……『断罪』だぁ……」
そう、これは断罪。
『悪役令嬢』の犯した罪を裁くのではなく、その因果を紐解き、前世代の不始末に蹴りをつけるための。




