(72)夢のような時間は飛ぶように
胸が震える。
──誰かと踊る約束をしているか。
第二王子が戯れに口にした誘い文句と言葉は同じでも、ソキウスの口から聞かされるのとでは天と地ほども違う。
カトリーヌの口からは、久しぶりの挨拶も、長い不義理を責める言葉も出てこない。ただ感極まったように小刻みに首を横に振り、胸につかえている答えをなんとか絞り出す。
「……誰とも」
「……! だったら……」
ソキウスは喜びに頬を紅潮させると、素早く姿勢を正して……
カトリーヌの前に、恭しく跪いた。
「レディ・カトリーヌ。僕と、踊ってください」
駆け引きも、手練手管もない、ただひたすらに誠意に満ちた誘い。一切の偽りない、熱の籠もったまっすぐな眼差し。
視界が潤む。世界が色づいていく。目の前にはたった一人だけ。
「……よろこんで」
花がほころぶように。
少女の表情を常に憂鬱げに陰らせていた諦観が抜け落ち、心からの喜びに満ちた美しい微笑みが、彼女にとっての「たった一人」を明るく照らし出した。
幸せに満ちた男女が手を取り合い、大広間のダンスホールへと進んでいく。
一人は黒髪長身の少年。顔立ちは貴族のそれではないが、立ち居振る舞いには努力して身につけたのであろう気品がある。穏やかな笑顔に一切のてらいもなく、清潔に整った細面は誠実さとともに精悍さを感じさせる。
もう一人は暗く艷やかな真紅の髪の少女。顔立ちや仕草に貴族の特色が見え隠れしつつも、どことなく社交界には馴染まぬ独特な雰囲気と色気を纏っている。一見して後ろでまとめているかに思われた髪も、後ろに回れば実はうなじが見えるほどに短く整えられているのだとわかり、その非凡さを際立たせている。
そして何よりも目を引き、少女の魅力に華を添えているのが、その装い。純白から真紅への階調を描く神秘的なドレス、左胸に咲き誇る精緻な立体感の赤薔薇、背を大きく覆い尽くし清かにひらめく白鳥のショール……
平民の少年と貴族の少女。階級制度の垣根が昔ほど高くはない昨今においても、まだまだ異色の取り合わせという印象が強い。
それでも生徒たちのほとんどは、二人が並び立つ姿を意外に思うことはない。にもかかわらず、唖然として二人の一挙一動を見守らずにはいられない。羨望の眼差しもなくもないが、普段の二人を知るがゆえの驚愕の反応が大きい。
二人に親しい面々の反応は様々だ。
あちらでは、なんとも形容しがたい淑女ならざる表情でニヨニヨ見送るノトシュ伯爵令嬢と、愉快げに唇の端を持ち上げるローヴァン騎士団長子息。
そちらでは、少女に声をかけ損ね、何かをこらえるような、憧憬に似た眼差しを送るザルツェイロス侯爵子息と、彼を慰めるように肩に手を置いてやるアウレリウス第二王子。
そして奥まった場所には、並び立つ二人を祝福するように、一人ひっそりグラスを掲げる銀髪の留学生の姿も。
……さらにちなみに中層階で固唾をのんで少女を見守っていたガルバス宰相子息は、事ここに至って手すりに沈み込むように頭を突っ伏して、見るからにへこんでいた。
その背後を可憐な空色のドレスをまとう白金の髪の令嬢がすれ違いざまに、
「女性が着飾ってようやく「逃がした魚は大きかった」と気づく程度の安い恋心は、池の魚の餌にでもしておしまいなさい?」
と軽やかに言い置いてさっさと通り過ぎていくものだから、宰相子息のへこみようはもはや手すりにのめり込む勢いである。
色とりどりの視線を浴びて、少年少女はダンスホールで向かい合う。
互いに正面に立って、少し気恥ずかしげに手を取り合い、そうしてようやくカトリーヌははたと気づいた。
目線が合わない……。
「ソキウスあんた、背、伸びてない……?」
「今気づいたの?」
ソキウスはきょとんとして、それから少しだけ残っていた緊張をかき消すように吹き出した。
その笑顔すら、カトリーヌは首に角度をつけなければ見上げられない。ヒールも履いているのに、頭半個……いやそれ以上の差がある気がする。しばらく会えていなかったとはいえ、驚異的な伸び率だ。
「前回会った時には、もう結構伸びてたんだけどね」
「文化祭前の? ……ああ!」
思い起こせばあの時ソキウスはずっと猫背だった。にもかかわらず目線は相変わらず同じ位置。すでにしてあの時点で身長差は生まれていたのだ。
とすれば、当時の奇行っぷりにも説明がつく。
「あの時やたら痛がってたのって!」
「そ、成長期まっさかり。普通は足にくるって言うんだけど、僕の場合はあちこちの関節に一気にきちゃってさ」
「今も痛いの?」
「ううん、大丈夫。とりあえずはここらへんで打ち止めかな」
もうちょっと欲しかったんだけど、と庇にした手で自身の身の丈を示して見せながら、ソキウスはくすくすと笑う。その顔も、よくよく見ればやつれたわけではなく、子供らしさを大いに残していたまろい曲線が引き締まり、大人の骨格へと身体が急速に変化したのだとわかる。
大人の、男性になろうとしているのだ。
にわかに気恥ずかしい気分がせり上がって、思わず身を引きかけるカトリーヌ。しかしその動きはソキウスによって素早く引き止められ、顔を覗き込まれてしまう。否応なく、頬に朱が昇るのを感じる。
「嬉しいな」
「な、なによ」
「だって、カドレッドは僕の背が高くなったから踊ってくれるわけじゃないってことだろ?」
「は? そんなの当然でしょう」
背が高い男子はやたらにモテがち、という女子の習性は理解しているが、なぜ世間一般にモテる要件を一つ満たしたことがソキウスと踊る動機になるのか。面の皮一枚の造形でときめくような素直な心臓を持たないカトリーヌには本気でわからない。
「……私があんたと踊るのに、理由なんて、必要ないでしょ」
言ってる間に目が泳ぎ、語尾がちょっと決まり悪くすぼんでしまった。それでも相手の反応が気になってちらと上目遣いで見上げれば。
ふわり……空気に柔らかに溶け込む陽の光のような、暖かなソキウスの笑顔。
「カドレッドのそういうところ、大好きだ」
「──」
カトリーヌが息を呑んだその瞬間を待ち受けていたかのように、楽団の演奏が曲調を変えた。若々しさを全面に打ち出した賑やかな音の波から、しっとりと美しい旋律へ。
学園の生徒なら誰でも知る初級の練習曲。皆が皆、ほとんど条件反射で踊りだす。ゆるやかだが基本を抑えたステップは身に染みついている。ここから中級曲、上級曲へと、学園での学びを振り返るようにメドレーを繋げていくのだ。
カトリーヌとソキウスもダンスホールの一花となって踊る。
直前の会話に気を取られていたカトリーヌは出足を少しとちってしまったが、ソキウスのリードに助けられながらすぐに立て直した。ニッキーから学んだのは水も漏らさぬ完璧さではない。多少ミスをしても、いかに何事もなかったかのように立て直すか。大劇団のトップスター仕込みの舞台度胸と開き直りである。
ステップを踏むたび、ターンするたびに、カトリーヌの白い翼が翻る。細かな動きでは水際で戯れる小鳥のように。大きくターンをすれば空へと飛び立たんとする大鳥の如く。
……最初は、ソキウスから贈られた布に自分で柄を入れてみたいという、単純な思いつきから始まった手芸。初心からはずいぶんと様変わりしてしまったけれど、何も成し遂げられなかった学園生活で唯一完成させられたショールが今、カトリーヌをこの会場の誰よりも美しく彩っている。
公爵家に世話になってほどなく、ミセス・マトローネが生地をそよがせて見せてくれた時、カトリーヌの脳裏にひらめいたのが翼を模したデザインだった。
重たい刺繍は生地の持ち味を殺してしまう。絵を描くような染め付けも、素人には難しい。そもそも素材の性質上、カトリーヌの思い描く柄は合わないような気がしたのだ。
だから、発想を転換させた。
ショールの本体は、翼模様の陰影を編み込んだレースのほう。透ける生地はレースに重ねてところどころを縫い付け、遊ばせた部分は風にそよぐに任せる。翼の紋様を思わせる軽やかな波を実現するのに苦労したが、幾度とない試行錯誤の末に納得のいくものが完成した。
言うなればカトリーヌは、生地に柄を描いたのではなく、生地そのものをショールの柄にしたのだ。
カトリーヌとソキウスの一挙一動に周囲の視線が集中する。ショールが見事にひらめくたびに上がる歓声やため息に、カトリーヌは気づかない。
(大好きだ)
その言葉が、耳の奥で幾重にもリフレインしている。あらゆる雑音が消えて、今目の前にいる人だけが、その暖かな熱を帯びた微笑みだけが、世界の全て。
顔が熱い。心臓が知らない鼓動をかき鳴らす。握りあった手がくすぐったくて、熱くて、溶けてしまいそうに心地よい。ステップを一歩一歩踏み出すたびに、足元に花が咲き乱れていくような夢心地。
本当に、翼を生やして、どこへなりとも飛び立ててしまいそう。
「ショール、仕上がったんだね」
ソキウスのやわらかな笑みが降ってくる。
「すごく素敵だ。似合ってる」
シンプルだけれど、誰の称賛よりも価値のある言葉。
跳ねる鼓動に胸をつまらせながら、カトリーヌは声を絞り出す。
「あり、がと……でも、ごめんなさい。本当はあの赤い布で作りたかったんだけど……なくしちゃって」
「うん、知ってる。けど大丈夫」
大きなスピンターンでメドレーを締めくくり、いっそう大きく広がったカトリーヌのドレスの裾と翼が、ふわりと空気を孕みながらゆっくりとあるべき形に落ちていく。まるで時間の流れが遅くなったかのような感覚。
ソキウスの微笑みが、いつもよりずっと、カトリーヌの心臓に入り込んでくる。
「ちゃんと、綺麗な薔薇になったから」
「──」
ソキウスの視線が注がれているのは、カトリーヌの左胸の赤薔薇。
……本当に。
本当に、夢のような夜だ。
でも、だからこそ、カトリーヌは知っている。
夢は、長くは続かないことを。
「──カトリーヌ」
夢見心地のままソキウスにエスコートされて戻りぎわ、世界で一番、聞きたくなかった声を聞いた。
冷水を浴びせられたように、カトリーヌはぎくりと足を止めた。
中層階への大階段の前。はらわたが縮み上がる感触に否応なく現実に引き戻されながら、カトリーヌは暗く沈む眼差しで背後を振り返る。感情を読み取られるのは得策ではないのに、どうしても気分が落ちていくのを取り繕えない。
「……お父様」
振り向いた視線の先には、父──ハリスン・カドレッドの冷ややかな微笑。
どこか勝ち誇ったような色が隠しきれずに滲むその顔に、なぜか、似ても似つかぬマクシム・テクスタの面影が重なった。




