(67)思わぬ後遺症
かくしてカトリーヌの日常は速やかに戻……ってこなかった。
「なんだってこんなことに……」
ぐったりと公爵家の長椅子に沈み嘆けども、現実は無慈悲である。肌着を湿らせた冷や汗に背筋が寒い。
カトリーヌが疲労困憊の体で滅入っているのは、リリアのタックルのせいではない。いや全くの無関係ではないと思うが、少なくとも主原因ではない。
ちら……と思わず部屋の入り口を見やってしまい、すぐさま全身から噴き出し始めた冷や汗とともに後悔する。
「──ジュルダン、気を利かせなさい」
ヒルデガルトが柔らかな声音を珍しく尖らせて叱りつけると、開け放たれたままの扉の陰で、毛足の長い絨毯を凹ませていた人影らしきものがびくりと揺れて、誰かの気配が足早に遠ざかっていった。姿は見えなかったものの、侯爵令息がそこで立ち往生していたのだろう。
ようやくほっと全身の緊張を解いたカトリーヌを、珍獣を見る目でリリアが凝視してくる。
「ふえぇ……イケメンに近寄られたら冷や汗、不整脈? それマジ?」
「顔の良し悪しは関係ないわよ、たぶん……」
「ですわねぇ。お父様が少しだけご挨拶に顔を出された時はなんともありませんでしたものね?」
……つまり公爵はイケメンだと言いたいらしい。まあそこそこに整った顔だとは思うが……ついついリリアと二人、「あっこいつ結構ファザコンだ」という目でヒルデガルトを見てしまう。そして女帝の太い神経はその辺りの機微をさらりとなかったことにしてくれる。
「ってことは、男だから駄目ってわけでもないんだ」
「……お医者先生と公爵はなんともなかったわ。ただ侍従が出入りした時にちょっと変な緊張感があったけど……」
「んん~……ここのお屋敷の侍従って若いの揃ってたよね?」
「こんなとこでも男ばっか見てんじゃないわよ……確かに若かったけど」
ようやく汗も引いてきて、なんとかリリアにツッコミを入れる余裕も戻ってきた。
迷惑きわまる突撃をかましてからちゃっかり居座るリリアを迎えて、カトリーヌの怠惰な楽園だったはずの寝室は、なし崩しに女三人の茶会会場となっていた。見舞いと称してまるでその体を成していないが、別に体調が悪いわけではないカトリーヌはブツブツ文句を言いながらリリアの相手をしてやった。ヒルデガルトの報告どおり、一番の被害者であるはずのこの幼馴染ときたら元気も元気、心配するだけ損である。
その間、侍女に身なりを整えてもらったり、公爵が軽く顔見世と挨拶だけ済ませて颯爽と去っていったり、使用人がまめまめしく行き来したりはありつつも、概ね和やかな時間をひとしきり過ごしたのち。
生徒会業務を終えて学園から帰宅したジュルダンが、カトリーヌの見舞いにと茶会に顔を見せたその瞬間、カトリーヌの体調が急変したのだ。一瞬にして顔から血の気が引き、心臓がおかしな鼓動を乱打し、全身から冷や汗が噴き出す。ヒルデガルトがすぐさまジュルダンを退出させたおかげでほどなく持ち直したが、あのままジュルダンと対面し続けていたら引き付けも起こしていたかもしれない。
「若い殿方に緊張を感じたと……ですがジュルダンに対してのほどのものではありませんでしたわよね?」
「そうね、気にするほどじゃなかったわ」
「……これってやっぱ、あのマクシムのせいでしょ? チィッ! もっといっぱい蹴っ倒して完膚なきまでに再起不能にしてやればよかった……っ!」
「蹴ったのね……」
「若い男というのが条件の一つとして。先ほどのジュルダンとマクシム・テクスタの共通点と言えば……」
脳裏に思い描いた男どもの姿にまた冷や汗の気配を感じながら、カトリーヌはヒルデガルトと同じ結論にたどり着く。
「「制服」」
「おーなるほどー……って、あれ、えーっと…………学校、どうすんの?」
「冗談じゃないわね……」
果てしない虚脱感にカトリーヌは天を仰いだ。制服姿の男子にいちいちこの過剰反応では、生徒の半分が男である学園に通うことなど絶望的である。
「お医者様に診て頂くまではっきりとしたことは申せませんが、ご自分ではすっかり克服したつもりでも、当時の恐怖や危機感を脳や身体が鮮烈に覚えていて、当時の状況を想起させる象徴的な物品や情景に条件反射的に反応してしまう……といったところでしょうか」
「あー『心的外傷後ストレス障害』的なやつかぁ」
「あら、また新しいワードが出ましたわね」
「あんたはなんでそう前世の情報に限って無駄に流暢なのよ……」
「えーだって知ってるとなんかカッコいいじゃん! でもこういうのってめちゃくちゃ引きずるって言うよね……治んない?」
「それこそお医者様に訊かなくては。けれど、克服するための訓練の方法は必ずあるはずです」
「おおーっリハビリ! よっしゃ、わたし男装するっ! さっそく制服剥いてくるーっ!」
「弟の貞操まで剥かないでくださいねー」
「……荒療治一択なわけ?」
風のように部屋から飛び出していったリリアのやかましい足音の向こうで、案の定ジュルダンの素っ頓狂な悲鳴が響き渡った。カトリーヌは呆れた溜息、ヒルデガルトはころころ笑う。
「それで、克服する方向で手配してよろしいのですよね?」
「当然でしょ」
にこにこ尋ねるヒルデガルトに一刀両断の即答を返し、カトリーヌはいっそ開き直って優雅に紅茶を口に運んだ。
わけのわからない男に追いかけられた程度のことで、一生消えない傷が残るなんて馬鹿馬鹿しい。治るものなら傷一つ残さず治す。当然だ。




