(66)差し伸べてほしい手は
ヒルデガルトは即答せず、笑顔のまま。ただ少しだけ、寂寥感のようなものを滲ませた。
「……謝罪がまだでしたわね。このたびの事件を未然に防げなかったのは、わたくしの手落ちです。怖い思いをさせて、本当に申し訳ございませんでした」
「また律儀に……」
「いいえ、大事なことですわ。未だ「髪引き男」の正体も掴めていないにも関わらず、お二人への警護の手を緩めるべきではなかったのです」
深々と下げられたヒルデガルトの頭を、カトリーヌはいっそ呆れ含みに見下ろした。
「そういうのいらないって言ってるでしょうが。あんたが『学園祭イベント』を回避するためにうっきうきで差配してたのは見てたわよ。いくら公爵家だって、学園内で一度に動かせる人員は限られるんだから、私とリリアの護衛に割り振るよりよっぽど妥当な判断でしょ」
『乙女ゲーム』における最終学年は、『悪役令嬢』の攻勢がいよいよ激化する年だ。
三年目となれば大概は『ヒロイン』と『攻略対象』の仲が深まっている上に、卒業までの残り時間を否応なく意識せずにはいられない時期。『悪役令嬢』は薄ら笑みのその向こうで確実に焦り、徐々に手段を選ばなくなっていく。
とりわけ問題なのは三年目の学園祭と卒業パーティー。確か学園祭では小規模ながら爆発物が使用されるはずだ。
カトリーヌが『悪役令嬢』を降りている現状でも、メアのように『悪役令嬢』の所業を模倣する動きがあってもおかしくない。実際、昨年の学園祭からここまでの主だったイベントに網を張ってみたところ、類似のトラブルが幾度か起きている。まさに物語の慣性。今回の学園祭に、ヒルデガルトが準備期間から最大限の警戒を払うのは、極めて合理的なのだ。
一方でリリアとカトリーヌに対するたちの悪いちょっかいは、このところすっかり鳴りを潜めていた。護衛を解除されるに足る状況だったのだ。結果的にはその隙をついた形で『髪引き男』が再来してしまったわけだが、それで誰かに責任を取らせるような話でもない。
「……それでも、お二人をお守りしながら学園祭に備えることは、不可能ではありませんでしたわ。これは明らかにわたくしの失策。ですから……というのもおかしなものですが……これだけは信じて頂きたいのです」
少し拙いようにも聞こえる言葉運びで、ヒルデガルトは困ったように笑う。
「マクシム・テクスタをみすみす野放しにしてしまったのはあくまでもわたくしが至らぬがゆえであり、決してカトリーヌさんを追い詰める目的などなかったこと、我がザルツェイロスの名に誓って断言いたします」
「……ああ、それが言いたかったわけ。まあそこは最初から疑ってないけど」
ヒルデガルトはまったくもって善人ではないが、少なくとも因果応報に心血を注ぐ癖がある。よって、およそ相対的に、正義の側だ。カトリーヌから助けを乞う言葉を引き出すなどという些事のために、あえてマクシム・テクスタの暴走を故意に見逃すようなことはしまい。それに、優秀な策略家でもポカミスくらいはするのは、生徒会に所属した初期からわかりきっていることだ。
そもそも例の「髪引き男」とマクシム・テクスタが結びつけられなかったのは、カトリーヌの証言した犯人像が「茶髪、目つきが悪い、特徴のない顔、制服は同学年、たぶん貴族」というぼんやりとしたものだったため。そのうち最もわかりやすい特徴である髪色が夕方の限られた時間帯の光の加減で変化していた上に、普段は眼鏡着用が基本だったとなれば、数いる生徒の中から客観的にマクシムにたどり着くのは相当な高難度だったはずだ。
そのうえ、実を言えばカトリーヌ自身、生徒会の出動で一度だけマクシム・テクスタと顔を合わせている。だから名前だけは覚えていたのだ。
しかし昼間は黒髪で分厚い眼鏡の上に、視力矯正された状況では目つきも悪くなかったため、印象ががらりと変わって見えてしまったのだ。だから「犯人はこの男ではない」と思い込み、名簿にバツをつけてしまった。
蓋を開けてみれば今どき探偵小説でも使われないような稚拙なトリックだ。だが、身元を隠すということが(国外からのお忍び留学生を除いて)原則としてありえない学園内では効果覿面、カトリーヌはころりと騙され、あのヒルデガルトでさえ先入観に勝てず、真相にたどり着けなかったのだ。
そして、時を経るにつれて動きを見せない『髪引き男』の脅威度は下がっていき、優先順位度を落としていった結果として、卒業間近の暴走を許してしまった。
見通しの甘い対応だったと言えなくもないが、生徒会としては現実的な対応だっただろう。そもそもからして、本当なら公爵家の力に守ってもらう義理もないのだ、恨みに思うのは筋違いである。
まあ、「凡愚」がお嫌いなヒルデガルトにとしては、己の小さなミスも許しがたいのかもしれないが。
「ご理解頂けて嬉しく存じます。……その上で申し上げますと、仰るとおり、わたくしはきっと、カトリーヌさんから助けを求めて頂きたかったのだと、思います」
微笑みは控えめに、どことなく神妙にたどたどしく、ヒルデガルトは自身の執着を認めた。
「お気づきでしょうけれど、わたくしは人間としては欠陥品です。世界の見え方が常人の基準から著しく逸脱しており、多くの感情を他者と共有できません。そしてそれが、寂しくもやるせなくも感じないのです」
多くの人間が「一人では生きていけない」と知っている。人は孤独には耐えられない、そのようにできているのだという、共通認識を持っている。
その常識の外側に、ヒルデガルトの天稟は存在する。自らが常人からかけ離れた異端であること、そして孤独に生きることにさえ疑問も苦痛も不自由も感じない、なんなら今すぐにあらゆる権力財力後ろ盾を失ったとしてもあっという間に自力で身を立て一人で生きていくであろう彼女は、紛れもない異常者であり、常人から見れば「壊れた」人間にほかならない。
だが、そう生まれついてしまったこと自体を罰することは、本来すべきではない。多くの場合は社会からの排斥……もっと言えば世界そのものから退場させられることになりがちだが、少なくとも彼女の周囲の人間はそれを選ばなかった。人間らしいまともな弱さを持っていた公爵夫人ではなく、元凶であるヒルデガルトを優先するほどに。
「お父様や陛下や殿下はわたくしに、「普通ではない」、「異常である」からこその可能性を見て期待してくださっていますけれど、どうしても社会性という基礎の部分が身につかなくて……有り体に言いますと、真っ当な人間関係というものを築くのが苦手ですの。貴族的な社交は得意なのですけれど……」
「ああ……うん。わかる」
完全無欠の策略家に見える女帝の最大の弱点は、その優秀さと先鋭すぎる気質ゆえに共感されにくいこと。翻せば、家名や財力、人脈といった付属物を取っ払った一個人としては周囲の信用を得にくく、土壇場で微妙に信じてもらえない……
……ぶっちゃけ、「友達がいない」のである。
「ですから、『悪役令嬢』とはきっと学園を舞台にした対局によって勝敗を争う関係性となることは簡単に想像できるのですけれど、『悪役令嬢』ではないカトリーヌさんとどのような関係を築くべきなのかは……実はかなり、とっても、手探り、だったり、いたしまして……」
かの女帝が、ついには人差し指の先と先をちょんちょんつつき合わせながらもじもじし始めたのを、カトリーヌは遠い目をしてやり過ごした。まともに視覚に焼き付けては精神が持たない。
「ですので、ええと……わたくしの得意分野は子供たちの更生ですから……親元から子供を引き離し、環境を整えて新たな人生へと送り出すという、その一点においては必ずお役に立てると確信しております。けれどわたくしが親子関係に介入するとっかかりには、それなりの名分が必要となりますから……」
「メアのような問題を起こすか、直接助けを求めにくるか……か」
こくり、と深く頷くヒルデガルトは所在ない迷子のようで、目が滑る。
……なるほど、あの一銭にもならない、親子離間から始まる問題児更生活動は、異端児なりの社会との接点──他者とのコミュニケーションの一環だったわけだ。彼女にとって同年代の子供は正常な環境に置いて管理すべき対象であり、真っ当な人間関係を前提とした交流などそもそも必要としていなかったのだろう。
だが、そこで例外が生じた。家庭に問題を持つ救うべき子供の一人──すなわちカトリーヌが、ヒルデガルトの目の前で何もかもを呑み込んで、すっかり人生を諦めきっていたのだ。
子供のうちからそこまでの達観に及ぶ者は、今どき珍しいという。学園では経済的に豊かな育ちの多くの子供たちが、まだ人生の辛苦もろくに知らずに、将来への希望や夢を懐いて気楽な人生を謳歌している。その流れに乗れず鬱屈としている子供たちもまた少なくはないが、その中でも家庭や人間関係などに深刻な問題を抱えている子供は、大概が在学中に大小なんらかの問題行動を表出させるもの。『悪役令嬢』はその最たる例であろう。
けれど『悪役令嬢』から降りてしまったカトリーヌは、スイッチを切り替えたかのように一切の問題行動を見せなくなっていた。勉学への取り組みも生活態度もまあまあ真面目、優等生ではないが劣等生でもない。社交界には寄り付かず、貞淑……というほど殊勝ではないが、地味に静かに息を潜めて、日々を受け流すように淡々と生きている、そんな少女だった。
問題を先送りにしているような学園生活。このまま行けば、カトリーヌの行く末は破滅というほど大げさなものにはならずとも、『ハッピーエンド』とは程遠い、冷たく乾いた人生へ一直線であることは目に見えていた。
……だが、それはそれで一つの人生。カトリーヌが全てを呑み込んで、己の幸福の追求を諦めてしまえば、大きな波風を立てることなく貴族社会は丸く収まってしまう。カトリーヌが諦めたパイを、他の誰かが美味しく頂いて人生を謳歌するかもしれない。それでもそれは彼女自身の「選択しない」という選択の先にある結末であり、明確な破滅ですらないのだから、手を差し伸べるのも難しい。
自由や幸福の追求に伴うリスクよりも、不満や不幸を呑み込んででも安定を選ぶ……それは貴族の女性には決して珍しくない、とりわけ祖父母の世代までは非常にありふれていた選択だ。当時の女性の立場では他に選択肢などなかったとも言える。
こうなってしまうと、カドレッド侯爵家に客観的に潜在していることが明らかな問題も、表に出なければないも同じ。言わば侯爵家の膿を出す突破口となりうる『悪役令嬢』が機能せず、むしろ侯爵家の歪みをカトリーヌ一人が一身に背負って呑み込んで、女としての不幸と引き換えの平穏がもたらされる。……古き悪しき貴族社会の慣習が繰り返されようとしているのだ。
女の犠牲の上に貪られる平穏な社会。それはヒルデガルトの最も嫌う、怠惰な無能者の楽園。女性のために創られた『乙女ゲーム』の存在意義を裏切る醜悪な結末。
それを否定するためにも、ヒルデガルトはなんとしてもカトリーヌを救いたい。けれど貴族的でない真っ当なコミュニケーションのやり方が根本的にわかっていないヒルデガルトには、問題行動を起こさない、助けを求めてさえこない相手にどうやってアプローチすれば良いのかわからない。……驚いたことに、『悪役令嬢』ではないカトリーヌの存在に戸惑い、実はまごついていたということらしい。あれで。
「ですからどうにかカトリーヌさんに頼って頂きたかったのですが……結局わたくしはカトリーヌさんから弱音すら引き出すことができませんでした」
「いや、今だって十分世話になってるわよ。……まあ、ちゃんと口に出して頼みはしなかったかもだけど」
「いいえまだまだです! 現状はまだ、公爵家の威光の傘に一時的にカトリーヌさんを匿っているに過ぎません。この程度であれば、適当な名分をくくりつけてしまうだけで正式な手続きは不要ですが、それだけに拘束力は弱く、持って卒業まで。この先に踏み込むためにはやはり当事者の方々が問題を起こすなり、家庭の内情を内部告発するなりで自ずから弱みを晒してくださるのが一番手っ取り早いのですが……」
「言い方よ……」
「……ですがカトリーヌさんはマクシム・テクスタに謝罪をしたいと仰った……己に降りかかった事件を、ご自身の問題として向き合い、自ら事件そのものを昇華する解法を導かれたのです。きっとこの先もわたくしの助けなどお呼びではありませんわ。……それに」
心を覗き込むような瞳が、カトリーヌを見つめる。
「カトリーヌさんが本当に助けを求めたかったのは、わたくしにでは、ないでしょう?」
「──……」
……侯爵家の内情を、話した相手は。
追い詰められて助けを叫んだ、その先に見ていたのは、誰……?
混じり気のない漆黒の面影が、今は遠い。
「ですから、わたくし、負けてしまったのですわ。完敗です」
寂しげなものを含みつつも祝福するようなヒルデガルトの微笑み。
……の向こうからドタドタとやかましい足音が近づいてきて、半泣きで駆け込んできたリリアに文字通り突撃をかまされたため、議論の是非は有耶無耶にごまかされてしまったのだった。




