(68)輝ける水辺を目指して
その後、リリアとジュルダンが制服を巡って揉み合っている気配を環境音に、まだ屋敷に留まっていた医師の問診を受けたところ、診察結果はおおむねヒルデガルトの見解と同じだった。精神的消耗に伴う過剰な不随意反応。……根底には、カトリーヌ自身の自覚なき恐怖心があるだろう、と。
無理は禁物。しかし克服する意欲があるのならば、まずは安静にして心を落ち着かせて様子を見つつ、条件反射の条件になっている対象が危険なものではないということを脳や身体に少しずつ教えて慣らしていくといい、との助言をもらえた。
が、診断が下った直後、ついに勝ち取ったらしいジュルダンの制服を着たリリアが乱入し、場は一気に混沌と化した。
今まさに地雷であると判明した制服に過剰反応する身体と、医師の診断をまるっと台無しにせんばかりに間の悪いリリアに対する習慣的な怒りが綺麗にシンクロし、気づけばカトリーヌは反射的に手近なクッションを投げつけていたのである。
善意百パーセントのリリアはまさかそんな無体を働かれるとは露ほども思っておらず、類まれな運動神経の出番もないまま顔面でクッションを受け止める羽目になり……当然、怒り心頭の反撃を返してきた。
「なにすっだこらーっ!?」
「うるさいっ、あんただけ平然としてんのがそもそも理不尽なのよッ!!」
そこから先はお察しのクッション投げ大会である。制服のせいで冷や汗や動悸の反応はあったものの、着ているのが若い男ではないおかげか症状は軽く、しかも相手がリリアだというのが最大の決め手となって、カトリーヌの身体はよく動いた。やはりなんといっても『悪役令嬢』の天敵は『ヒロイン』なのである。
好々爺の医師は「これだけ元気なら大丈夫そうですのぉ」とのんきに笑って放置。あまりの白熱っぷりに興が乗ってきたらしいヒルデガルトが「わたくしも混ぜてくださいな!」と参戦。
さらなる混迷を極めた戦場は、騒ぎを聞いて駆けつけた公爵に一喝されて終戦と相成ったが、振り返ってみればその後いくつか試した全ての訓練の中でも、この荒療治が一番効果があったと断言できる。
おかげで男子制服への苦手意識はかなり早い段階でうやむやになり、その後順調に克服していった。もともと大したことのなかった若い男への緊張も、人の出入りの多い公爵邸で過ごす日々の中で自然と薄れていった。
だがその間、新たな問題も浮上した。
「夕焼けに染まる廊下」というシチュエーションが、制服を優に超える最悪の地雷であることが判明したのだ。
学園とは似ても似つかぬ公爵邸の廊下であっても、一歩も踏み出せない立ち往生は当たり前、ひどい時にはめまいや過呼吸に近い症状が現れたのだ。これで実際に学園の廊下に立ちでもしたら昏倒しかねないと危ぶまれ、学園復帰がいっそう遠のいてしまった。
それでもカトリーヌは前のめりに復学を目指した。時間帯が限定されるうえに天候にも左右されるためかなり手こずったものの、制服克服の傍ら夕焼けの日は逃さず廊下に出て、過去の恐怖と向き合い続けた。
訓練の主戦場は、学園の廊下に比較的雰囲気が似ている公爵邸北側の廊下。なんとか付き添いが不要になるところまで改善してなお、足が勝手に逃げ出しそうになるのを防ぐために廊下の隅にちょこんと座り込んで、橙色の薄闇と対峙する。
……夕焼けの独特な雰囲気に染め上げられた、薄暗く長大な空間。どこかに何かが潜んでいそうな、今にもどこかから何かが現れそうなそら恐ろしさ。人類が古来より抱える逢魔が時への原初的恐怖は侮れず、向き合えば向き合うほどに無害なものだと思い込むのが難しくなる、かなりの強敵だ。
そこにぽんと一石を投じたのは、意外な人物のちょっと過激なアドバイスであった。
「私なら、元凶になった人間を頭の中で徹底的に痛めつけますね」
最近ますますメイド業が忙しそうな、メア・キルナー子爵令嬢の言である。
通りがかりの辻斬り的アドバイスを一方的に零して颯爽と歩き去るメアの背中を、カトリーヌは廊下の隅に座り込んだまま呆然と見送ってしまった。そして彼女が最奥の倉庫に清掃用具をしまって戻ってくるまでしっかり視線で追って、すれ違いざまのメイド服のスカートの裾をガッチリ掴み取った。つんのめり気味に足を止めたメアが不思議そうにカトリーヌを見下ろしてくる。
「……具体的にはどうやって?」
「どう、とは……?」
「いや出来て当たり前って顔しないでくれる?」
何をわかりきったことを訊くのか、とばかりに心底不思議そうに首を傾げるメアである。まともな生活にすっかり馴染んではいるものの、相変わらず人格の根っこの歪みっぷりがひどい。
「ええとそうですね、私の場合は……肺に入り込んだ大量の酒に溺れて永遠に苦しみ続けている姿とか、大量の火の付いたままの葉巻の吸い殻の海で溺れて絶叫している姿とか、聞くに堪えない暴言と鞭を絶え間なく浴びせられながらボロ雑巾のように働き己が生まれてきたことを心底悔いている姿などを思い浮かべて溜飲を下げています」
「………………。思った以上に具体的かつ突拍子もないわね……」
というかとんでもなく暴力的な妄想である。メアが思い描いている相手が誰かは火を見るよりも明らかだが……「など」ってなんだ。どれだけバリエーションがあるのやら。
「そうですか? まあ効力としては一時的にスカッとする程度で、現実は何も変わらないので、あんまり耽溺しても虚しいだけですけどね。適量なら気持ちが沈んでいる時に立て直すのには効果的です。ですので、夢想と現実の区別がつかないタイプや依存傾向のある人にはお勧めできません。コツは想像の中には自分を出演させずに、顔の見えない第三者や超常的な力の仕業にすることですね。自分が加害者になってしまうと妄想の中にも妙な責任が生じる感じがして、私は好みません」
「いや板につきすぎなのよ……」
「ですが、相手を妄想の中で貶めることで、相手の脅威を必要以上に恐れずに済むという効果も期待できるかと。お嬢様の場合ですと……」
メアはカトリーヌの正面を優雅に翻した手で示してみせた。廊下を染める橙色がいよいよ赤みが増し、男に追われたあの時間帯が徐々に近づいてきているのを否応なく突きつけてくる。……じんわりと、背筋に汗が滲む。
「……逢魔が時、夕照の織りなす昏い影の内に、潜むあやかしのものたち。罪なき乙女を己が欲望の餌食にせんとする男の邪な心を嗅ぎつけ、ぞろりぞろりと影より這い出し、恐怖に慄く男の足より這い上がり、男の全身を煤の如き穢れで侵し尽くしていく……」
やけに詩的なメアの弁舌に合わせて、カトリーヌの眼前に粘着く黒い影に呑まれるマクシム・テクスタの幻が展開していく。ごくり……とカトリーヌの喉が鳴った。
「……といった感じで、いかがです?」
一転したメアの口調に、苦しみのたうつ幻影が消え、カトリーヌははっと肩を揺らして我に返った。
「いや余計怖くなったんだけど!?」
「え、そうですか? 嫌いな人間の無様な姿って胸がすくと思うんですけど……嫌いな相手でも感情移入しちゃうタイプかぁ」
絶好調の猛毒を吐きながら、メアはううーんと頭をひねる。そしてふと思いついたようにカトリーヌを覗き込んできた。
「そもそもお嬢様、なぜそう急がれるのでしょうか」
「急ぐ?」
「ええ。確かにいずれは克服しておかなければ日常生活にも支障をきたしかねない問題であることはわかります。けれど、時間が解決することも多々あるかと。お嬢様ならば復学せずとも少しの補習と残りの中間期末考査の参加程度で卒業は可能でしょう。今は学園のことは考えずに、ゆっくり静養されるのも一つの選択ではないかと思うのです」
「それは……まあ」
カトリーヌは波風立てずに三年間、学園生活をいなしてきた。その結果として、成績不良な教科はないし、不足単位もほとんどないはず。他の生徒に遭遇しない別室などで補講や試験を受ければ、今後授業に出ずとも卒業はできるはずだ。やろうと思えば卒業まで公爵邸で引きこもり生活も可能である。
そうして捻出できた余暇をカドレッド侯爵家を探る時間に当てればいい。晴れの日の夕方は活動せず、学生がたむろしているエリアを避ければ、多少の外出も可能だろう。できることは相変わらず限られているが、棚上げになってしまった商人たちの噂を聞いて回ることくらいは、可能かもしれない。
可能……なのだろうけども。
(なぜ……)
なぜ。カトリーヌはこんなにも、学園に戻りたいと思っているのか。
──ざ……と、彼方から風が吹き込んだ気がした。
見据える廊下の先に、光が見える。夕日を乱反射する数多のきらめき。黒々とした木々の狭間に垣間見える、光の水面──
……ふらり、とカトリーヌの身体が揺らいだ。廊下に根を張るように座り込んでいた足がほどけて、ふわふわとした足取りで立ち上がる。何かに誘われるように、導かれるように。
昏い廊下へ、一歩を、踏み出す。
その先にある、池畔へと。
……黄昏に染まる廊下を、彼女は歩く。
ゆったりとした足取り。夢遊病のような危うさ。わずかな戸惑いと恐れを滲ませながら。それらを凌駕する何かの予感に突き動かされて。一歩、一歩。踏みしめるように。
夕日が落ちきる寸前のまばゆい逆光の中に、彼女の姿が霞む。
まるで、きらめく水辺に佇んでいるかのよう。
彼女が十分な時間をかけて廊下の突端へと至るまでの全てを、わずかな驚きとともに息を詰めて見守っていたメアは小さく破顔し、かつての憧れの人へ、見送りの挨拶に代えて深々と頭を下げた。
少女の新たな門出を、寿ぐように。




