(63)ヒルデガルトの原体験
「……はあぁぁぁぁぁ~~~」
「!?」
傍らから聞き慣れた声のありえない大きな溜息が聞こえて、カトリーヌはぎょっと瞠目して振り返った。
見ればそこには、肺の空気を吐ききって心持ちうつむいているように見えるヒルデガルトの姿があった。聞き間違いじゃなかった。一体何事だ。鬼の霍乱か。
ヒルデガルトはいたずらを見破られたかのようなばつの悪い仕草で、どことなく悔しさも滲ませつつ、正体不明の喜びらしきものにかすかに頬を染め……まあなんだかよくわからない膨大な感情が入り混じった表情で、カトリーヌに微笑みかけた。
「わたくし、負けてしまいましたわ」
少しだけ、感傷めいたものに瞳が潤んでさえいる。
カトリーヌは信じられないものを見る目つきのままでしばし硬直し。
──瞬時に顔色を変えて、強烈な貫手を繰り出した。回避の意思さえ見せないヒルデガルトの顔面に指先が衝突する寸前、ぐわりと限界まで手を広げてその小さな顔を鷲掴みにした。
反射神経に関しては令嬢平均点である、まあようするに相当低レベルなヒルデガルトは、一拍遅れて悠長な声を上げる。
「あら?」
「……誰と何を賭けたの、言いなさい」
「いえいえ賭け事などではなく……」
「嘘おっしゃい、どうせ生徒会長あたりと何か企んでるんでしょうが……!」
「あっいたい、痛いですわカトリーヌさんっ、正直にお話しますからどうかご容赦なさってッ!」
本気で焦るヒルデガルトなど一生に何度も見れるものではないだろう。カトリーヌはそこそこに溜飲を下げて、手の力を抜いて解放してやった。
ここまでくれば公爵令嬢への不敬などどうということはない。というか、むしろ普通の学生っぽいフランクなスキンシップをしてやるとヒルデガルト本人が密かに喜んでいるらしいことに、カトリーヌは気づいている。
高位貴族だからって一分一秒も気を抜かず完璧に振る舞う必要なんてない。どこで誰が何を見ているかを把握できている状況ならば、人目を盗んでちょっとくらい悪友ぶってみせてもいいのだ。
顔面を解放されたヒルデガルトは少し乱れた髪をちょいちょいと直しながら、照れ混じりの楽しそうな笑みを浮かべる。
「いつだったか、「その話はまた今度」と申し上げたこと、覚えていらっしゃる?」
「……あんたの親の話? それがなんなのよ」
また唐突に話が飛んだ。確かそれは、ニッキーの最後の公演の観劇中に聞いたセリフだったはずだ。
ヒルデガルトの笑みが深まる。
「キルナーさんは父親、アンハイムさんは両親、シーニスさんは両親と祖父母世代の親類縁者。──わたくしの場合は、母親でした」
思いもよらぬ告白が始まった。
ザルツェイロス公爵夫妻は典型的な政略結婚。互いに愛情はないが大きな軋轢もなく、義務として淡々と世継ぎを作ることに励み、とりたてて問題らしい問題も起こらず、ほどなくしてヒルデガルトが誕生した。
この長女、まずいことに赤子の頃から明らかに異常だったらしい。
笑わない赤ん坊。ただし感情表現が乏しいわけではない。なんと対面する相手によって明確に態度を変えていたのだという。
血縁関係の有無も貴賤も美醜も老若男女も問わず、気に入った相手にはにこにこいい子な笑顔。
そうでない人間がどんなににこやかに笑いかけても話しかけても、なだめすかして機嫌をとろうとしても、高い高いやおもちゃで釣ろうとしても、気に入らない相手には頑として笑おうとしないどころか泣きもしない。完全な「無」の眼差しでじっと相手を見つめるのみ。
まあ赤子が相手によって態度を変えること自体はよくあることだろうが、この長女の場合、あまりにも露骨に態度が変わるので大人が引いてしまうのだという。
で、もっとまずいことに、無の眼差しを向ける対象に実の母親が含まれていたという……
「……ここまでの文脈だと母親に問題があったって流れに持ってくつもりなんでしょうけど明らかに原因赤ん坊じゃない!?」
「否定できませんわぁ」
赤ん坊なのに人を見て、コミュニケーションを試みるに足る相手を選り好みし、その対象から血を分けた実の母親をはじく乳飲み子。母親が心を病んだとしても致し方あるまい。
事実、愛情のない政略結婚を大前提に嫁いできた夫人も、これには見事に滅入ってしまった。
夫である公爵は感情全般が希薄かつ平板なたちではあるものの責任感はある男だったため、夫人は公爵家では下にも置かれぬ扱いで尊重され、社交界でも尊敬の目を集め、人生順風満帆そのもの。にもかかわらず自分自身の胎から産み落とした我が子こそが最大の人生の陥穽として現れてしまったものだから、余計に母娘関係は拗れてしまった……というか母親が一方的に怯えて娘を遠ざけてしまったようだ。娘のほうは母親など最初から存在していないかのようにケロッとしたものだったというのだから、どこまでも浮かばれない。
母親いらずですくすく育つ長女の誕生より三年後、長男ジュルダンが生まれた。
公爵家としては待望かつ必然の男児誕生だが、夫人にしてみれば己の惨めさを払拭してくれる大天使の降誕である。なにせジュルダンは奇跡のように愛らしくも、母親に対する反応は実に普通な、(精神的に)健全な赤子そのものだったのだから。
さらに夫人にとっては都合の良いことに、大天使は虚弱体質だった。
夫人はたびたび病を得て寝込む長男を献身的に看病し、健康状態の時でも片時も手元から離さず、溺愛……というか愛玩の限りを尽くした。その甲斐あって、乳児期のジュルダンは実にまるまるとしていながらも常にどこかしらに体調不良を抱えたアンバランスな赤子だったそうな。
……さて、この流れでカトリーヌははたと気づく。現在のジュルダンは、小柄ながらシュッとした美少年だ。そしてカトリーヌは公爵邸で夫人らしい人物と遭遇したことは愚か目撃した覚えすらない。かと言ってザルツェイロス公爵家の夫人が亡くなっているなんて話は、屋敷の中でも外でも聞いたこともない……
「……あんた、母親をどうしたわけ……!?」
「あらいやだ、そんなにお顔を青くなさらないで。ちょっと表舞台から退場して頂いただけですわ。おかげで心身の生育に支障をきたし始めていたジュルダンを、可及的速やかにまともな養育環境に戻すことができましたのよ」
自分の親と弟で実証済みだった。聞けばヒルデガルト六歳の頃だという。あらためてこの女とんでもない……。
これを産み落としたことが夫人の人生最大の不幸であったことに疑う余地はない。さらに異常性を持つ我が子に親として向き合えるだけの強さを持てなかったことが、日陰者への特急券になってしまったわけだ。
やらかした娘曰く、
「親が子を選別することなど珍しくもありませんもの、子が親を選んだって良いではありませんか」
……なんという骨肉の争い。
ともあれ公爵家の状況が好転したのは間違いない。明らかに娘が天然の加害者であり、被害者たる夫人は哀れではあるが、それを理由に息子を巻き込んだ時点で夫人自身も加害者に転向してしまったのだ。ヒルデガルトが動かずとも、おそらくあの公爵なら大事になる前になんらかの処断を下していたに違いない。
口ではさらりと済ませているが、当時のジュルダンの状態はかなり悪かったのだろう。だからこそ夫人は公爵の公認を得て表舞台から排除されたのだ。傍から見ただけでもわかる良好な関係性から見るに、公爵父娘の方針は概ね一致していると見ていいはず。
我が子が思い通りに生まれてこなかったことで精神を失調したというのならば、それは普通に医者にかかって静養するべき案件だ。そうでないのならば被害者は被害者なりに、公爵夫人として、親として、大人としての態度というものをとる必要があったのだろう。それが立場のある人間の義務というものだ。
きっと表舞台から退場させるということは、夫人には重すぎる肩の荷を下ろさせる意味もあったのだろう。事実、保養地に送られ長期静養中という夫人は、今では子らへの妄執もすっかり鳴りを潜め、心穏やかに暮らしているという話だ。ヒルデガルトという異常から引き離すことで、夫人のほうが救済されたようでさえある。
ともあれ、ヒルデガルトはこの件を曲がりなりにも解決したことで、親の責任を厳格に追求し、物理的経済的に親子を引き離すことが、子供が抱える問題の改善に大いに有効であると学習してしまったわけである。そして、親が時にたやすく我が子を害する存在であるという現実もしっかりと刷り込まれたのだ。
まさに原体験。劇場でカトリーヌがヒルデガルトに感じた、親という存在に対する問答無用の強い攻撃性のようなものは、こうして幼少期から培われてしまったわけだ。




