(62)正体不明のマクシム・テクスタ
犯人の名は、マクシム・テクスタ。
テクスタ伯爵家の第三子。
一年前、カトリーヌを殴ろうとした、例の『髪引き男』本人だ。
犯行の手口は至極単純。学園祭準備でてんてこまいのリリアをどさくさに紛れて呼び止め、荷運びを頼む形で手芸室におびき出し、手芸室の卓の上に寄せ餌の如くこれ見よがしに仕込んでおいた睡眠薬入りのクッキーで昏倒させて手足を縛り上げたそうだ。……誰のものかもわからないクッキーに簡単に手を付けてしまうリリアの生態をよく理解している。
この手の事件においてもっぱら心配されがちな貴族令嬢の貞操については、ぴかぴかの完全無欠に無事だったらしい。まあ確かに、カトリーヌが現場を発見した時点でそんな雰囲気ではなかったが。
「動機は不明です。尋問にもだんまり。まあ……あのような手合いの場合は、動機などあってないようなものかもしれませんけれど」
昼頃、二度寝から目覚め、今度こそ清拭とヒルデガルト監修による念入りな整髪を経て、医師から「異常なし」とのお墨付きをもらったカトリーヌに、ヒルデガルトはなぜか珍しく不貞腐れたような顔をしながら説明してくれた。
テクスタ伯爵家はとりたてて特筆すべきところのない、地味な家柄だ。胸を張るほどの旧家でもなければ、それでも短くはない歴史の中で、傑出した才能を輩出したこともない。領地には大した名産もなく、収入はなんとなく黒字を維持する低いラインで延々横ばい。現当主である伯爵も夫人も子供たちも親類も、才も知能も人格も、どこをどう眺めても平均で平凡。一見して特に問題などなさそうな凡夫ばかりである。
それに比例して、家庭環境にもとりたてて大きな問題は見受けられなかったようだ。平均的かつ常識的な思想、環境、教育。子供たちは過剰に甘やかされることも、兄弟間で差をつけられることも、暴言を吐かれることもなく育った。至って「普通」な、理想的というほどではないが必要十分に見える家庭、らしい。
「昨日の今日で、よくそこまでわかったわね?」
「……以前から別件で彼のことを調べていた者がおりまして」
目線をそらして答えるヒルデガルトはなんだか不服そう。……これは深くつっこまないほうがよさそうだ。
閑話休題。かようにして平凡を地で行くテクスタ伯爵家だが、末子であるマクシムだけは少々毛色が違ったらしい。
と言っても、突出した才能があるというわけではない。逆にひどい劣等生というわけでもない。容姿も同じく優れているわけでも醜いわけでもない。中肉中背、何事も平均点かつ中央値。
凡庸を詰め込んだテクスタ伯爵家に相応しい少年のように見えるのに、マクシムだけがどこか少しずつズレている。周囲の環境に、世間の流れに、人に、なんとなく馴染めていない。誰かから声をかけられてもなんとなく反応が薄くて、なんとなく周囲の話題についていけなくて、なんとなく根暗そうで、常になんとなくつまらなそう。
そんな「なんとなく」を詰め込んだ果てに、なぜかリリアに執着し、前回と今回の事件に繋がった……ということらしい。
「なんかすっきりしないっていうか……ほとんど何もわかってないのと同じじゃない」
「真相究明はこれからですわ。本人が本当は何を考えているかまでは、表面的な調査ではわかりませんから。……と言っても、これ以上何かが出てくるとは期待できないのが正味なところなのですけれど」
こういう子供は難しい、とヒルデガルトは吐息を零す。
子供の問題行動の源流には、多かれ少なかれ親の影響がある。そのため親が行いや家庭環境を改めるか、子供を親元から引き離して健全な環境に移してやることで、問題行動が改まることが多い……というのが実体験を基にしたヒルデガルトの持論である。
しかしマクシムのような子供の場合は、世間的に容認される範疇にある普通の親、健全な環境こそが問題行動に走らせる毒となっていると思われる。何がどう作用して問題行動の原因になっているかが把握しづらく、すなわち何をどう是正すれば問題行動が収束するのかの究明が極めて困難であるという。
「問題の根がまったく見えていないわけではないのですけれどね……彼を社会に適応させるのは至難の業となるでしょう。親という因果に託けて子の人生を立て直す方法も、今回ばかりは使えませんし。親が凡愚──凡庸であることに一切の責がないとは思えないのでその点はしっかり報わせたいところなのですけれども」
「……凡愚って聞こえたけど」
「ですが事実として、今回のような案件に限っては親に明確な失態があるとは言い難いのですよね。確率的にああした難しい子供が生まれる可能性は誰にでもありうるのだから、覚悟と知恵をつけてから親になるのが理想なのでしょうけれど。「平凡な人生」というお題目を礼賛する現在の社会構造においては、凡愚たることを免罪符として親の至らなさが許されてしまうのでしょうねぇ」
「……言い直さなくなったわね」
つくづくとこの女は見た目に反して本性が鋭利すぎる。この、存在そのものひっくるめて全方位に喧嘩を売っているような性分でありながら、すでに公爵家の社交をこなしているというのだから恐ろしい。内実の伴わぬ虚飾ばかりの凡愚代表とも言える井戸端会議構成員も少なくない社交界で、どのように整合性を保って問題を起こさずにいられているのか、若干の怖いもの見たさがないことも……いややめておこう、触らぬ神に祟りなしだ。
まあいい、どんなに異常性を抱えていても恵まれた環境と才能でなんとでもなってしまうヒルデガルトは、どこまでも自力で己の道を切り拓いていくのだろうから。心配してやる時間が無駄だ。
彼女のようには恵まれていない人間のほうが圧倒的に多いからこそ、こうやって大きな事件に発展しているのだ。深堀りするべきは、マクシム・テクスタのような平凡な子供のほうだ。
(自由がこわいの?)
そう、カトリーヌが言ったのだ。……言ってしまったのだ。挑発するためとは言え。
逢魔が時のあの追いかけっこは、本当に恐ろしかった。死すら覚悟した。それ以上の屈辱的な事態に陥る可能性のほうが高かったことを思えば、今でも背筋に嫌な汗が滑る。マクシム・テクスタの存在など細胞一片と残さず焼却してしまいたいという防衛本能からくる切実な暴力衝動は、心臓の奥底に燻り続けている。
それでも、恐怖は切り捨てた。後頭部が軽くなったおかげか今は感情が飽和していて、ぼんやりとどこか他人事。だから少しだけ客観的に俯瞰することができる。
だから、わかる。あれは、本当に言ってはいけない言葉だったのだと。
マクシムがどれだけの傷を抱えているのかは知らない。そんなものを慮ってやる義理は、被害者であるカトリーヌにはない。そもそもあの凶行を許すつもりなど毛頭ない。たぶん謝られても許さない。
それでも、カトリーヌのひどい暴言が彼に新たな傷を作ったのは事実だ。
傷つけあったからと言って、互いの罪が相殺されるとは思わない。マクシムの罪は罪、カトリーヌの罪は罪だ。
「……私は私で、彼に謝るべきなんでしょうね」
明日になれば気が変わっていそうな結論だが、今この瞬間確かに、カトリーヌは心からそう思った。




