(61)決別と、少しだけ残った傷
夢を見た。
幼い頃の夢だ。王都のカドレッド邸の庭。父がいた。母がいた。兄もいた。
皆笑っていた。カトリーヌも笑っていた。
「おとうさま! わたしね、■■■■■になりたいの!」
朗らかに宣言して、カトリーヌは庭を走り出す。自分の選んだ道に、わずかの疑問も懐かず、ただ未来への希望に胸をときめかせて。
けれど、ぐい、と後ろ頭を引っ張られて、それ以上は進めない。
振り返れば、おさげ髪を掴んで引っ張りカトリーヌを睨んでいる少年がそこにいた。ありがちなブラウンに透ける髪と瞳。神経質で、憎々しげな表情。その奥に確かに見え隠れする、怯え、空虚、痛み、すがるような……
瞬きをひとつ。少年の姿は父のそれにすり替わっていた。ありがちなブラウンの髪と瞳の。
父は言う。子煩悩の皮をかぶった猿芝居の笑顔で。芝居がかった声色で。
家に戻れ、と。
「お前は何にもなれないよ。私のために生きて、私のために死ぬ以外に、お前の生きる道などどこにもない。なぜならお前は私の一部なのだから。……さあ、家にお戻り」
父の後方、遠くにカドレッド邸が見える。庭で楽しそうに手を振る母と幼い頃の兄の顔は、判然としない。
……そんなものが幻であることなど、初めからわかっている。
だって、最初から無かったのだから。
カトリーヌが物心ついた頃にはもう、暖かな家庭なんてものは、侯爵家には存在していなかったのだから。
だからこれは、夢だ。
……ひょっとしたらカトリーヌの中に秘めた願望のひと欠片だったのかもしれないけれど。
──結局は、自分がどうするか、どうしたいか。
「いやよ」
きっぱりと拒絶するカトリーヌの声は、もう幼児のそれではない。
「絶対にいや」
それでも隠しきれない不安と心細さに、右手が何かを求めて宙を泳いでしまう。
彷徨うその手を、暖かな誰かの体温が包み込んだ。
皮膚に染み込み、骨の髄まで蕩かすような。心の芯を揺さぶり、暖かな何かで満たしてくれるような。
このぬくもりさえあれば、カトリーヌはまた走り出せる。
「あの家には、二度と戻らないわ」
きっぱりと父を切り捨てて、傍らに微笑みを向ける。
同じ目線で、澄んだ黒い瞳が、やさしく笑っている。
***
カトリーヌが目覚めたのは、公爵邸に宛てがわれたいつもの寝室だった。明るい陽の光が窓辺から注ぎ、爽やかな風がレースカーテンを揺らしている。
「あら……目が覚めまして?」
いつもと変わらないヒルデガルトの笑顔が横合いから覗き込んで、カトリーヌは目を瞬いた。
確か、壮絶な追いかけっこの果てに髪を引かれて、痛みと酸欠で倒れて……
「……リリアは?」
「あら、第一声がそれですの?」
ヒルデガルトがころころと笑う。それで大体の状況は伝わって、カトリーヌは両手で目を覆って肩から大きく息を抜いた。
「無事なのね」
「ええそれはもう、たいへんお元気でしたわぁ」
「そう……」
「件の無法者もしかと確保しております。学園は大過なく、学園祭の準備も順調そのもの。何も心配することはございませんわ」
きわどい判断ではあった。が、男を挑発して引き離した甲斐はあったようだ。
このあと無謀な行為に対するお決まりのお説教があるだろうが、あの状況を二人とも無事に切り抜けられた代償と思えば大したことはない。
危機に直面した際に取るべき行動に、実のところ正解はないのだろう。対人トラブルならばなおのこと。今回のカトリーヌの行動はたまたま上手く嵌っただけだと見做される。
だから一般的にはもっと慎重に──それが結果的に悪手になろうとも──なるべく無難な行動を取ることが推奨される。カトリーヌだって、他の人間には無難にやり過ごしてもらったほうが精神衛生的にありがたい。
だが……カトリーヌには見えてしまう。人の、深いところが。心のねじれが。昏い澱みが。
たぶんこれは、『ヒロイン』や『攻略対象』たちが各々に傑出した才能を与えられているのと同じ──『悪役令嬢』としての天稟なのだ。この力を手がかりに、『悪役令嬢』は社交界の毒花として咲き誇り、学園の裏側を牛耳り、数々の陰謀を張り巡らせることができたのだろう。……なんとも嬉しくない才能である。
いずれまた同じような事態に陥った時、人の澱みが見えてしまう限り、きっとカトリーヌは何度でも、無謀と言われる行動を選び続けてしまうだろう。
「……私、どれくらい寝てた?」
「半日といったところですわね。今はまだ翌日の朝……ああ、無理をなさらないで。お医者様に診て頂かなくては」
寝台から起き上がろうとするカトリーヌをやわらかく押し留めたヒルデガルトは、当の医師が訪れたという報せを受けて出迎えに向かった。
入れ替わるようにやってきた侍女たちが清拭や整髪を申し出てくれたが、カトリーヌは気分じゃないからと言って断り、少しの間一人にしてもらった。
……どうも、何か、しっくりこない。何かが足りない……いや、逆だ。何かが余計で、妙に不快な感じが……
「……あ」
所在なく彷徨わせた視線の先、すっかり使い慣れてしまった裁縫机の上に、籠の中に簡単にまとめただけの愛用の裁縫道具が──
「カトリーヌさん、少しよろしいかしら……あら?」
ほどなくして寝室を覗き込んだヒルデガルトは、目を瞬いた。深刻な症状でないことはわかっていたので、カトリーヌの身だしなみが整うまでは医師の相手をするつもりでいたのだが、当のカトリーヌが清拭を拒んだという報せを受けて中座し、様子を見に来たのだ。
健やかな寝息。カトリーヌは寝台の上で、入り口に背を向ける形で二度寝を決め込んでいた。
……その後頭部に、あるべきものがない。
寝台から点々と落ちる暗い深紅を目で追って、ヒルデガルトはあらあらと肩を下げた。発見者が使用人の誰かだったなら、おそらく悲鳴が上がっていただろう。
寝台脇の床に、いかにもぞんざいに転がっているのは、裁縫用の裁ちばさみ。
その刃を深紅に染めている……ように見せているのは、雑に切り落とされた、長い赤毛のおさげとその残骸だ。
「……お医者様には出直して頂かないといけませんわねぇ」
困ったようにぼやきつつも、ヒルデガルトはなんてことないように寝室の扉を閉ざして踵を返した。
刃が向けられた先が髪ならば、きっと大丈夫。
お姫様には休息を。あと少し怠惰な生活を味わったら、彼女はまた自らの足で歩き出すだろう。




