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悪役令嬢カトゥラ・カドゥレは憂鬱げ  作者: ミナソコミナモ


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(60)たすけて

 手芸室には、基本的に鍵などかかっていない。

 火気や薬品などの危険物があるわけでもないし、針や鋏などどこででも手に入るものは危険物に勘定されない。盗まれて困る高級品の類は隣の準備室に鍵付きで厳重に保管されている。

 展示されている他人の作品にいたずらをしようとする馬鹿はいつの時代もなくならないが、貴族と平民が机を並べるセンシティブな環境のこの学園において秩序を保つため、その手の事件の犯人探しと糾弾はかなり厳格なものになる。そこをきちんとわきまえていれば、まず馬鹿な気は起こさない。そのボーダーラインを踏み込んでしまうような輩など、今後貴族社会や富裕層のコミュニティで後ろ指さされることは必至。たとえ真相を伏せることになったとしても、王家のブラックリストにまんまと載ってしまうだろう。ヒルデガルトもにっこりだ。


 そんなわけで、講義中と手芸部の活動中を除いて、手芸室は誰でも使用できるフリースペースのような空間になっている。多くは女子生徒が、手芸やおしゃべりに勤しむために利用している。男子生徒も出入りがないわけではないが、女の園という印象が強いためになかなか心情的なハードルが高そうだ。

 去年は上級生の一部令嬢が徒党を組んで姦しいおしゃべりに励んでいる状態がしばしば見られ、カトリーヌを始めとして手芸に集中できる環境を求めていた生徒からは忌避されがちだった。が、今年は幸いそういった、ルールを破っているわけではないが微妙に迷惑な厄介者には目をつけられていないようで、誰もが自由に利用できる本来の機能を取り戻していた。

 それは学園祭期間も同じ。ここは学園祭の中心である校舎から少し離れているから、手芸部の展示などには使われず、学園祭本番では休憩スペースとして開放される予定だ。そのため準備期間中でも特定の団体が腰を据えて利用することもなく、生徒の誰もが自由に使えるように開かれている。

 と言っても、学園全体が忙しくしているこの状況での需要は薄く、利用者はいてもまばら、無人の状態がほとんど。下校時刻は言うに及ばず。


 ……だから、まずかったのか。

 誰でも自由に使えるけれど、高い確率で誰もいない。

 それは、隠れて後ろ暗い行為をするのに、うってつけの環境だ。


 床に横たわる女子生徒と、その傍らに膝をついて彼女を見下ろす男子生徒。それだけならば学園生活において確率的に発生しうる光景だっただろう。発見者になってしまったカトリーヌは、女子生徒の容態を心配して駆けつけるなり、他の人手を呼びに行くなりすれば済んだ話だ。

 女子生徒の手足が拘束されていなければ。猿轡を噛まされていなければ。男子生徒の手に物騒なものさえ握られていなければ。

 さらには拘束されている女子生徒が、よりにもよってリリアだというのが、事態をより混沌とさせていた。


 リリアと目があった瞬間、カトリーヌの脳は急回転を開始する。


 体力オバケかつ運動神経の塊であるリリアが、体調を崩したり何かにぶつかったりといった、不慮の原因で倒れたり他人に抵抗できない状態に陥ったことなんて、長い付き合いで一度もなかった。この忙しい時期、リリアの脳が何かの不具合を起こしてこの男子生徒の特殊性癖に付き合ってやっている……などという斜め上をやらかしていない限り、結論はひとつだ。


 この男子生徒は明らかに、なんらかの企みのもとに、なんらかの強引な手段を用いて、リリアを無理矢理拘束したのだ。


 企みの内容が何か、動機が何かなんてことはどうでもいい。

 今重要なのは、この男が、確然たる危険人物であるということ。


(ナイフ)

(これ以上近寄れない)

(リリアが敵わなかった相手に私が対抗できるわけがない)

(誰かが見つけてくれるまで話を引き伸ばす?)

(こんな人気(ひとけ)のない場所で助けなんか期待できない)

(時間が経てば経つほど生徒は下校してしまう)

(叫ぶ?)

(私の声量で教室棟まで届かせるのは無理)

(私だけで逃げて助けを呼びに行く)

(でもその間リリアが危険)

(相手がこちらを追いかけてきてくれれば)

(追いかけてくるかは賭け)

(確率を上げればいい)

(この男を釣り出すための一番効果的な言葉は──)


 永遠にも思えた膠着状態は、実際はきっとほんの数瞬のこと。

 ゆるり、と。男の表情が驚愕から警戒へ移行する。連動して頭が前傾ぎみになり、陰から抜け出した頭部が、窓から差し込む西日を浴びた。


「────!」


 彼を、知っている。

 神経質そうにしかめられた、整ってはいるものの印象に残るような特徴もない顔立ち。

 平民のような印象を受けなくもないが、貴族であろうと思われる身だしなみ。

 夕映えに浮かび上がる、ありがちな()()()()()髪に瞳。


 ……こんな単純な。あまりにもチープな。探偵小説のトリックにもならないようなカラクリだったなんて。


 直前まで、男は間違いなく黒髪だった。けれど、斜陽の橙色の光に曝された直後から、色素を透かすように黒から茶へと変貌を遂げたのだ。


 近頃は貴族にも黒髪が増えた。優性遺伝である黒髪は一般的な金髪茶髪赤髪などより表出しやすい。

 目の前の男も黒髪だ。だがおそらく、色素の薄かった時代から伝統的に多くの貴族がそうであったように、髪質自体は細くやわいものなのだろう。

 だから、簡単に光に透けてしまう。彼の場合、とりわけ夕焼け特有の光の波長や角度に弱いらしく、あからさまに色素が抜け落ちて見えてしまう。顔の印象すら様変わりして見えるほど、劇的に。


 タネがわかってしまえば、迷う必要はない。

 カトリーヌはこの男を知っているのだから。


「──マクシム・テクスタ」


 提示された一つの名前に、前傾姿勢のまま男子生徒が身体を揺らした。その表情に浮かぶ驚愕が、明確に一段上のものへと進化したのがわかる。


 カトリーヌの唇が歪む。口の端が醜く吊り上がる。

 目の前の男を、嘲笑うために。


 ──この男の、逆鱗の在り処がわかる。

 どこをつつき、どこを踏めば、傷を刻めるのか、手にとるように──



「自由がこわいの?」



 男は、完全に静止した。呼吸も忘れて、全細胞を凍りつかせたかのように。


 カトリーヌは、蠱惑的な笑みにあからさまな嘲弄を滲ませて。

 『悪役令嬢』の如く、男を見(くだ)す。


「私はこわくないわよ」


 くすくすと身を翻し、いたずらに成功して逃げ出す童女のような足取りで、カトリーヌは手芸室の前から姿を消した。


 ──直後、背後で獣の咆哮の如き男の絶叫が轟いたのを合図に、カトリーヌはギアを全速力に切り替えて渡り廊下を駆け抜けた。駆ける、駆ける、駆ける。渡り廊下から特別棟に飛び込み、後方から猛然と追いかけてくる足音に脅かされながらひたすらに走り続ける。滅多にすることのない全力疾走と、追いつかれる恐怖に、心臓がちぎれそうなほど激しく鼓動している。逢魔が時、長大な廊下が往路よりひどく暗く長く感じる。瞬く間に男の気配が距離を詰めてくる。怖い、怖い、怖い。


(声を上げて助けを)

(だめ、息ができない)

(ここからじゃ届かない)

(できるだけ、一歩でも教室棟に近づかないと……!)


 男の荒い呼吸と足音が近い。カトリーヌは恐怖に突き飛ばされるままに手元の紙袋を後方へ放り捨てた。背後でぱさりと布が開く軽い音がして、男の大げさなうめき声が連鎖する。

 振り返って状況を確かめる余裕はない。わずかでも足止めができたのだと信じて、カトリーヌはひたすら前へと終着を目指す。

 足止めは男の怒りに火を注いだらしい。一瞬止まっていた足音が暴力的な奇声と共に復活した。荒々しさを上乗せした殺気が怒涛の如く迫りくる。まだ教室棟の廊下がやっと視界の先に見えてきたところなのに。


 ──猶予はない。


「……っれか……っ」


 恐怖心のまま、準備の整わない肺と喉から発された言葉は、あえぐような呼気にしかならない。このままでは駄目だ。

 腹をくくり、カトリーヌは足の動きを止めた。半ばつんのめりながら瞬発的に、乱暴に、一気に吸い込んだ空気で肺を満たし──



「誰かっ……()()()()ぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!」



 その言葉を生まれて初めて発したことに、カトリーヌは気づかない。

 ただこの切実な悲鳴が誰かの耳に届いたことを、信じるしかない。


「────ッ!」


 後頭部の頭皮に鋭い痛み。視界が後方に引っ張られる。ぶちぶちと後ろ髪が乱雑に抜ける音。肺の空気を吐ききったカトリーヌは悲鳴を上げることもできない。

 ()()髪を引っ張られたのだ。今度は容赦なく後ろに引き寄せられて身体が傾ぐ。男の怒声が頭上から降り注ぐ。脅しつけるように振り上げられたナイフの閃き。しかしどちらもカトリーヌには遠い。急激な運動と極度の緊張、そして酸欠。急速に五感が狭まり、意識が閉じていく感覚。


 ……分厚い綿を埋め込まれたような聴覚の向こう側から、誰かの足音が聞こえる。

 それは瞬く間に近づいたかと思えば、鈍い殴打音と小さな衝撃をもたらした。男がえずくような情けない呻きを上げ、引っ張られていたおさげが解放される。カトリーヌの身体は廊下に落ちる。


「──カトリーヌ……!」


 今いちばん聞きたかった声が、自分の名前を呼んでいる……これは夢だろうか?

 暖かな体温が背中から伝わり、ふわりと身体が浮き上がる感覚。

 ぼやける視界に、いちばん会いたかった黒い瞳が映り込む。

 自然と唇がほころぶのを感じながら、カトリーヌはかすれた声で囁く。


「手芸室……リ、リア……」


 最も信頼できる人物に託すべきを託せた安堵と共に、カトリーヌの意識は闇に落ちた。

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【完結済・コミカライズ】
身辺を清めてから出直してくださいませ

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