(59)非日常的日常の向こうの、異常
(59)非日常的日常の向こうの、異常
「ぬぐぐぐぐぎぐ──っふぐぅっ……」
情けない唸り声、時折思い出したように上がる奇声、姿勢悪く丸められた背、抱き込むように忙しなく肘をさする両手、生ける屍の如き胡乱な足運び……
普段の生彩の見る影もない、ヘロヘロでカトリーヌの隣を並んで歩く男子生徒こそ、誰あろうソキウス・ベルモーである。
「……ちょっと。なんで会うなり瀕死になってるのよ」
意図して呆れの色を強めた声の語尾が揺れるほどには心配して、カトリーヌはほとんど無意識に背中をさすってやろうと手を伸ばした。
が、かすかに指先が触れただけで、ソキウスは「びぎゃぁっ!」とリリアみたいな悲鳴を上げて小さく退いた。──と思ったらどうやら身を捻った衝撃で新たな痛みが走ったらしく、声もなく悶絶している。
「ちょ、ちょっと、本当に大丈夫なのっ?」
「……ぅん、あの、ごめん、今さわんないでくれるとぉ……ッ」
軽く喋っただけでも、たまにひきつけを起こす始末である。よく見れば頬が少しこけているような気もする。
「わ、わかったわ。でも、保健室に行くなら付き合うわよ」
「あはは……だいじょぶだいじょぶ、怪我とか病気じゃなくて、なんていうか……強烈な全身筋肉痛みたいなもんだから」
「ああ、それはつらいわね……」
ニッキーの初回レッスンの翌日を思い出して遠い目になるカトリーヌ。普段ろくに運動をしない貴族令嬢が、まだ加減というものがよくわかっていない頃の新米ダンス講師(週六日昼夜公演出ずっぱり当たり前のトップダンサー)のレッスンを時間めいっぱい受ければ、必然として翌日は大惨事である。お触り厳禁。
なんとか収まりの良い猫背に姿勢を安定させつつ、ソキウスはいつもと変わらぬ高さの目線でカトリーヌに微笑んだ。
「そんなことより、久しぶり。手紙ありがとう。ろくに連絡取れなくてごめんね」
「……そうね、ちょっと薄情だったわね」
「ごめんってば。それで、相談したいことって?」
「あら性急だこと。ずいぶんお忙しいのねぇ」
「……うん、実はこのあと約束があって。あんまり時間が取れそうにないんだ。せっかく久しぶりに会えたのに、本当にごめんね」
少しばかり意地の悪い揶揄で返してしまったら思いのほか誠実な謝罪が重ねて返ってきて、カトリーヌは眉尻を下げて自分の中の天邪鬼を追い払った。心配して伸ばした手を拒絶されたのがちょっとショックだったからその意趣返しだった……という子供っぽい本音は墓まで持っていこう。
「冗談よ。……その件なんだけど、ちょっと込み入った話になるのよ。私もこの時期は余裕がないから、学園祭が終わった頃くらいにまとまった時間を作ってもらえるとありがたいんだけど」
「わかった、絶対作るよ。──あっ、とごめん、もう行かなきゃ。また明日ね」
「ええ、また」
ソキウスは廊下を行き交う生徒たちの誰かに軽く手を振ると、口早にカトリーヌに別れを告げて去っていった。
笑顔で送り出したカトリーヌは、その方向に見覚えのある白に近い銀髪がちらついたのを見つけて、さっさと表情を消して踵を返した。忙しいのは確かだが、不快なものを目に入れないためのちょっとした遠回り程度、惜しむ余裕がないわけではない。
生徒会役員を増員した影響だ。優秀な次期生徒会長候補の采配のもと、有能な新人たちは準備期間を立派に乗り切ろうとしている。もちろんカトリーヌ含む先輩メンバーもしっかりフォローしているため、去年の殺人的な忙しさに比べればずいぶんゆとりがあり、安定的かつより細やかな活動が可能になっている。やはり数は力だ。
こうも違うのならば去年から増員しておけばよかったのに、と恨めしく思わぬでもない。しかし卒業を控えた上級生は慣例的に誘えず、同級生のめぼしい人物にはフラれ、入学したての下級生は一年間様子を見て候補を絞らなければならない……という建前のもとに特に勧誘には動かなかったとのこと。カトリーヌとリリアの加入はやはりイレギュラーだったらしい。
おかげで後輩には花を持たせて自信づけられるし、現生徒会長は実力を実態の下方に偽装できるというわけだ。昼行灯が徹底している。巻き込まれたほうはたまったものではないが、まあ喉元はとっくに過ぎているし、いい経験だったと呑み込んでおいてやろう。
「……あ。そういえばこれ持ち歩いたままだったわ」
あれこれと生徒たちの頼みを聞いたりアドバイスしたりしつつ廊下を進みながら、ふと手元を見下ろせばおなじみの紙袋。中身は例の透ける布だ。
ミセス・マトローネに手伝ってもらっている新たなデザインの試みについて、製造者であるソキウスからも意見をもらいたかったのだ。今日なら会えると手紙で知らせを受けていたので咄嗟に持ち出したのだが、今回は不発に終わってしまった。
このまま持ち歩くのは据わりが悪い。一時的にでもどこかに退避させておきたいが……
「……手芸室なら、学園祭で使わないわよね」
またいつソキウスに会う機会ができるかわからない。しばらくはサロンにも行けないし、公爵邸に持ち帰るのも面倒だ。学園内で置きっぱなしに保存しておくのが望ましい。その点、繁忙期まっただ中で出入りも多い生徒会室に置いておくよりは、誰も使わないであろう手芸室にひっそり潜ませておくほうが安全だろう。
カトリーヌは特別教室棟へと足を向けた。忙しなく行き交う生徒たちの賑わいが徐々に後方へ流れていく。
ほどなくたどり着いた特別棟の廊下には、人っ子一人いなかった。火気や薬品の揃った特別棟は、学園祭では開放しないのが原則だ。準備期間中に出入りする生徒はほとんどいない。
気づけば時刻も夕方だ。学園祭までまだ三日……実際のところ「あと三日しかない」のだが、生徒たちの大半は「まだ三日ある」と考え、前日になって大焦りに焦りまくるのが黄金パターンだ。なので、今日のところはぼちぼち下校準備に入っている生徒も少なくない。人の気配がどんどん遠ざかっていくのを感じる。
夕照を帯びた長大な廊下を進む。手芸室があるのは特別棟のさらに奥、渡り廊下の先にある静謐な別棟だ。
父をどうやってやり込めてやろうか、などとつらつら物思いながら、慣れた道を慣れた足取りで別棟へ。
……メアが借りてきてくれた資料をよくよく読み込んでみると、何年か前から収益や経営に翳りが見え始めた時期があり、長い間じりじり低迷したあと、最近はまた盛り返してきてるらしいのがわかった。
低迷とは言っても全期間において赤字は数えるほどしか現れず、数字上は些細な差にも思える。が、メアは低迷前後で書面の手癖が微妙に違うのではないかと看破した。筆跡が変わったわけではなく、重要視している部分や優先している方向性がわずかに変化しているように見える、と。
提出用の書類を清書したのは雇われの役人だろう。とすれば、おそらく書類を作らせた経営責任者になんらかの転機が生じ、方針を転換したかあるいは責任者自体が交代になったかで、その影響が書類に微細な変化を及ぼしたのではないか。
なんら確信のある話ではない。本丸はやはり商人の情報網だ。ソキウスとしっかり交渉して、情報を突き合わせてみなければ……
『悪役令嬢』が悪巧みをするように澱みなく思考を回しながら、開け放たれたままの別棟の入り口をくぐり、引き戸になっている内扉を何気なく開け放つ。全ての動作をほとんど無意識に。……室内に何があるのかなど、露ほども考えもせずに。
「──は?」
ガラガラと教室の扉を開いた瞬間、カトリーヌの目に入ってきたのは、床に横たわる女性の白い足。
それが誰のものかは一瞬理解できなかった。床に転がる人体の手前に膝をついている男子生徒の身体が邪魔でよく見えない。
しかしすぐさま弾かれたように振り返った男子生徒の大げさな身動きで、見えていなかったものが現れ、状況の全体像が判明する。
夕暮れ色に染まる手芸室の壁際。夕日がぎりぎり届かない物陰に、手足を拘束されて横たわっている女子生徒。
その手前で、床に膝をつき女子生徒を見下ろしていた黒髪の男子生徒。
……振り返った男子生徒の手元には、小さな短刀。
硬直するカトリーヌの存在を認識した男子生徒が、驚愕も露わに、よろけるように身体を揺らす。
その動きで、床に転がっている女子生徒の瞳がカトリーヌの姿を捉えて、驚愕に見開かれていくのがわかった。
……彼女を、カトリーヌは知っている。中背のしなやかな細身。好奇心旺盛な大きな瞳。女の子らしいふわふわとしたミルクティーブロンドの……
「……リリア」
無意識に自分の口から零れ落ちていく幼馴染の名前を、カトリーヌは呆然と、どこか他人事のように聞いていた。




