(45)嫌悪
メア・キルナーが言葉を失い、ゆるゆると視線を下げ……場は沈痛に静まり返った。
カトリーヌは身体の芯に残る緊張を追い出すように深く長い溜息を吐くと、再び声を張り上げる。目の前のメア・キルナーにではなく、教室の外へ向けて。
「出番よ、ヒルデ!」
「はぁい」
実に嬉しそうに、うららかな花畑で遊びたわむれてでもいるような軽やかな足取りで、廊下で控えていたヒルデガルトが前側の扉から入ってくる。こちらはリリアとは異なり、万一の逃げ道を塞ぐための意図的な行動だろう。
場違いなまでに光り輝くような美少女の登場に、メア・キルナーがびくっと身体を震わせた。一方リリアは声も上げずに大急ぎで机の上から降りて、すんっと借りてきた猫になっている。条件反射が板についたものである。
教室内を見回し、少女たちの様子にしっかりと目を留めながら、ヒルデガルトはカトリーヌへと問いを投げる。
「もうよろしいの?」
「訊きたいことは訊いたわ。これ以上はお腹いっぱい。原因の究明はあんたの領分でしょ」
もはや公爵令嬢への遠慮もない。それがかえってヒルデガルトの機嫌を押し上げるという事実を、カトリーヌは理解している。
「ふふふ、嬉しいわ、カトリーヌさんに頼っていただけるなんて。──ではキルナー、参りましょうか」
反射的にメア・キルナーの瞳に灯った敵愾心を、ヒルデガルトはにこやかな圧で叩き潰した。
「え……」
「事情聴取ですわ。貴女の身柄は一旦ザルツェイロス預かりとなります。大丈夫、悪いようにはしませんから」
「……」
是非を論じる余地はない。
よろよろと立ち上がり、悄然とヒルデガルト率いる生徒会の面々に連行されていくメア・キルナー。
その姿を、カトリーヌは借りてきた猫になったままのリリアとともに見送った。去り際にちらりと寄越されたすがるような眼差しに、ただ平板な無関心だけを突きつけて。
公爵家が間に入る以上、メアとカトリーヌはつきまといの加害者と被害者ではなくなる。二度と繰り返すことは許されない。
「一件落着って感じ?」
「……そうね」
「あー……終わったのか?」
教室を出たところでかけられた声に振り返ると、デレク・ローヴァンが決まりの悪い顔でこちらに向けて軽く手を上げていた。
リリアが「げ」と小さくうめくのを無視して、カトリーヌはデレクに向き直る。
「ローヴァン。どうしたの?」
「いや、生徒会長から事情を聞いてな。……俺はまたやらかしたらしいな?」
「ああ……」
図書室での大喧嘩を仲裁しようと横槍を入れてきた件だ。
メア・キルナーの推察通り、あれはカトリーヌとリリアの自作自演である。真犯人を炙り出すための芝居だ。一切手を抜かず本気で不満をぶつけあったので、普段の二人を知る者が見たとしてもそれなりの説得力があっただろう。
リリアがカトリーヌに手を上げたのも段取り通り。本気で殴れと指示してあったし、リリアも加減する気などなかったはずだ。顔が腫れては父への言い訳が面倒ではあったが、口八丁で躱せる自信は十分にあった。
周囲に多少不審に思われても、長く腐れ縁をやっていれば喧嘩の一つ二つ当たり前。事が済めばしれっと元通りの関係に戻ればいいのである。これぞ幼馴染の特権だ。
この計画についてあらかじめ伝えてあったのは執行部の面々のみ。デレクもギリギリ関係者と言えなくもなかったが、明らかに嘘が上手くない性質だというのはわかっていたので、根回しする手間が惜しいとさっさと計画を実行したのだ。
結果、デレクの真っ当な正義感が発動し、あの横槍に繋がってしまったわけだが。
「別に謝ることじゃないわよ。あらかじめ連絡してなかったんだから仕方ないわ。計画に支障もなかったし、結果的に私は頬が腫れるのを回避できたし。むしろ臨場感も出たんじゃない?」
ちら、と傍らに目をやれば、リリアはブサイクな膨れっ面でぷいっとそっぽを向いた。
カトリーヌは肩をすくめて、口の端を浅く持ち上げた。
「そもそも私たちのために仲裁しようとしてくれたわけでしょう? 大したものじゃない、ああいう時に咄嗟に動けるのは」
「いやぁ……もう少し思慮深くなりたいもんだが」
「心がけはいいけれど、あんまり高望みはしないことね」
「おいどういう意味だ」
「人には向き不向きがあるってことよ」
リリア曰くの脳筋であるデレクにとってもっと心地よく響くであろう慰めの言葉にも、なんとなく察しはつく。だがやはり、それを与えるのはカトリーヌの役目ではない。
デレクをからかいながらもう一度リリアに視線を流そうとしたカトリーヌの頭が、中途半端な角度でぎしりと硬直する。一点を注視して瞬時に険しく変貌するその表情とは対照的に、リリアはみるみる顔を輝かせた。
「フェルっ──でんっ──ええっと、クルクク様っ!」
「やあ」
ひらり、と艶っぽく軟派な仕草で手を上げたのは、長身、白い銀髪、浅黒い肌の、フェルディナン第五王子──またの名をフェネロ・クルククである。デレクの大きな身体の陰に隠れて見えなかった廊下の角から、気配を消して唐突に現れたのだ。
どこか妖しい艶を帯びた微笑みでやってくるフェネロに、デレクは気安く手を上げつつ横に身を引いた。フェネロの正体は知らされていないはずだが、今回ここに彼が来ることは知っていたといった態度だ。
……おそらくは、第二王子あたりの差配だろう。デレクは前座で、こちらが本命ということか。
フェネロはカトリーヌの厳しい視線に苦笑しながら、色っぽい眉尻を下げた。
「僕も、カドレッドに謝りたいことがあって。文化祭の件なのだけれど……」
「えっ、何っ? カトちゃんフェ……クルクク様と何かあったのっ!? ──ぶふぇっ」
にわかに騒ぎ出したリリアの鼻っ面に久々のバッテンマークを力強く貼り付け黙らせると、カトリーヌは小さく呼吸を整え──
にっこり、と、邪気ひとつない笑みを浮かべた。
「なんのことでしょう?」
あまりにも透明すぎる微笑みに、男二人は見惚れる……わけもなく、むしろ後ずさらんばかりの勢いでドン引きしてくれた。失礼な話である。
フェネロは即座に顔を引き締め、態度を改めた。
「……すまなかった。捜査のためとはいえ、献身的な役員である君に嫌疑をかけたうえに、やり方が少々軽率すぎた。しかし弁解させてもらいたいのだが、決して彼女とは何も──」
「ええ、承知しておりますわ。副会長からの要請ですもの、我々役員に手心を加える必要はございません。わたくしが最有力の容疑者とされるのは自明の理。クルククは真剣に捜査に注力しただけ。……その上で、息抜きのために横道に逸れ、海の物とも山の物ともつかない年増女を引っ掛けて憂さを晴らされたのだとしてもわたくしから申し上げることは何もございませんわ」
「いや、だから僕は彼女とは別に何も──」
「いえいえ、左様に言い繕わずとも結構ですわ。個人の趣味に差し出口をするつもりはございませんもの。ええ、それが少し……ほんの少し、特殊な趣味であったとしても…………」
「いやいやいや! だから君の御母──っ、いや文化祭で出会った彼女とは本当に、なんでもなかったんだよっ!?」
「お、おう……どうしたクルクク。なんか浮気の言い訳みたいになってるぞ? 何があったんだ?」
デレクの純朴な問いかけに、フェネロはぐぅ、と唸って閉口してしまう。
その様子をじっと見定めたのち、カトリーヌは再び口元を笑みで彩った。
「……ええ、存じておりますとも。調査のために、致し方なしに、己が身を削って……同級生の母親をナンパして引っ掛けたのでしょう?」
無垢とは無縁の、心胆寒からしめる冷笑を。
目に見えない木枯らしに吹き付けられたかのように完全に凍りつく男性陣を捨て置き、カトリーヌはさっさと踵を返して早足で歩き去った。状況についていけていないリリアも、クエスチョンマークを頭の上でスキップさせながらも、フェネロにペコリと頭を下げてカトリーヌの後を追う。
理解度としてはリリアとどっこいどっこいなデレクは、木枯らしの巻き添えからいち早く立ち直り、カトリーヌの背中とフェネロとを忙しなく見比べた。
「……よ、よくわからんが、本当に大丈夫なのかあれは?」
「……いや……」
ゆるやかに硬直から立ち直ったフェネロは、美麗な顔立ちに、苦々しい後ろ暗さに満ちた翳を落とした。
「あれはたぶん、思った以上に駄目なやつだね……」




