(43)腐れ縁
「ヒェッ!?」
絶叫じみた声で名を叫び、鬼の形相で迫りくるメア・キルナーに、リリアは情けない悲鳴を上げて逃げ出した。相手を視界に捉えたまま机の間をちょこまかと動き回り、伸びてくる手を素早く躱していく。
それがまた癇に障るのだろう、メア・キルナーはいっそういきり立ってリリアに掴みかかろうとする。が、平均的な貴族令嬢程度の運動能力しかない彼女では、体力おばけのリリアの相手にならない。
「なになになにっ!? なんで襲ってくんのっ!?」
「うるさいっ! あんたなんか……あんたごときがカトリーヌ様の隣にいること自体が間違いなのよっ!!」
「はぁっ!? なんっだソレっ!? キモッ!!」
「あんたねぇぇぇぇぇっ!!」
いっそう苛烈さを増す攻防。教室中を縦横無尽に追いかけっこし、終いには教室の隅に追い込まれかけたリリアが机の上に跳び上がり、机から机へと軽業よろしく次々に跳び移り始める始末。貴族令嬢でも持ち運びできる程度の重量の学習机の上をよくもまあ、膝丈スカートの制服で跳び回れるものである。
「かっ、仮にも伯爵令嬢がなんてことを……あんたサルなの!?」
「突然襲いかかって来といてなんだその言い草はーっ!?」
「いや……それより何よこの状況……」
早くも息が上がっているメア・キルナー、不安定な足場で平然と仁王立ちしてお怒りのリリア、教室隅にちゃっかり退避しつつこめかみを抑えるカトリーヌ。なかなかのカオスである。
……もうカオスならカオスで仕方ない、毒を食らわば皿までだ。
カトリーヌは大きなため息で思考を整えて、机の海の向こうにいるメア・キルナーを見据えた。
「貴女は一度リリアへの嫌がらせは見送った。でも、今回はリリアを陥れようとリリア預かりの書類を漁りにきたわね? それも誰かを利用するわけでもなく、自分自身の手で。なぜ?」
「この女がカトリーヌ様に手を上げようとしたからです……!」
ギラギラと目を輝かせながら、いっそ悲痛なまでに真剣な声で訴えるメア・キルナー。
「いつだってカトリーヌ様のお傍に侍ることを許されながら、いつもいつも口答えばかり……! あまつさえ行く先々でトラブルを起こしてはカトリーヌ様を巻き込んで……それを当たり前に享受していながらろくな感謝も謝罪の一つもない……自分がどれほど恵まれた立場なのか理解しようともせず……!」
「うっわマジモンのカトちゃん信者じゃん、マジキモい」
げろーとぼやいたリリアに再び襲いかかるメア・キルナー、机から机へ逃げてあっさり躱すリリア。
「あんたはちょっと黙ってなさいリリア。……動機はわかったわ。問題はやり方よ。リリアを目障りだと思っている人間もそれなりにいるでしょうに、どうして今回は誰かを手駒にせずに自分の手でやろうとしたの?」
「っ……それは──ああああっ!?」
「何? ……んっ」
相変わらず追いかけっこをしながら言葉に詰まったメア・キルナーがカトリーヌを見てこの世の終わりのような悲鳴を上げ、カトリーヌは振り返る暇もなく背後から覆いかぶさった影によって首に巻き付かれた。
振り返って見るまでもなく、カトリーヌにかぶさっているのは、いつの間にやら背後に回り込んで高笑いを上げるリリアである。
「はぁっはっはーっ! カトちゃん大好きっ娘にならこれが効くだろう! 人質だぞ、手も足も出まいッ!!」
「悪役か」
カトリーヌは抵抗せずされるがままに、呆れ声でツッコんだ。
ちなみに長身のカトリーヌと平均ど真ん中のリリアの身長差ではなかなか難しい姿勢だが、リリアは机の上からカトリーヌをホールドすることで完全にマウントを取っている。
リリアのことだ、机の上でもすぐにでも動き出せるような姿勢を維持していることだろう。……たぶん、スカートの中であられもなく大股を開いている体勢になっているに違いない。メア・キルナーがこれを「サル」と呼ぶのも無理からぬ惨状である。
一方のメア・キルナーは愕然と、絶望的な表情をしていた顔を伏せ、不穏に肩を震わせ始めた。
「それが……そういうところが気に食わないのよッ!!」
叩きつけるような叫び。キッと顔を上げてリリアを睨みつける気勢はいいが、いまいち迫力に欠ける。目元を赤く染めた様は怒り狂っているというよりはいかにも悔しげで、羨ましげでさえある。
「あんたはいつもいつもそうやって好き勝手なことばかりしてカトリーヌ様を困らせて……っ、馬鹿やってうざ絡みして、ものすごく迷惑ばっかりかけてるくせして……それでも絶対に、カトリーヌ様はあんたを見捨てないのよ……!」
「えっ。……そうかぁ?」
「時と場合によるわよ」
リリアが怪しげに腕の中を見れば、カトリーヌはすげなく肩をすくめた。今のところ本気で見捨てるだけのトラブルが起きていないだけである。
「でもそれはっ! 裏を返せば見捨てざるをえない状況に陥るまでは見捨てないということでしょう!?」
「……」
「……」
「どうなん?」
「答えさせようとすんじゃないわよ」
……確かに。
カトリーヌは決して情の深い人間ではない。義理は立てるほうだと思うが、人情には冷めている。やろうと思えばいくらでも薄情になれる自覚もある。
ただ、リリアを見捨てるという選択肢は、どうしてか、カトリーヌの中にないのは事実でもある。
「……先程の図書室でのいさかいもそうですっ。この女はカトリーヌ様に手を上げようとさえした! なのに、なのに、カトリーヌ様はそれをすでに容認されていらっしゃる……いえ、むしろ、最初から……?」
メア・キルナーが徐々に色を失っていく。
思い出したのだろう。これが、罠だったということを。そしてそれが意味する現実を。
肯定を示す沈黙に怯えたように唇を震わせながら、それでもメア・キルナーは必死に噛みついてくる。
「だっ、だって! ……だってあんなに、本気でぶつかりあって、全力で打とうとして……ローヴァンが止めなていなかったら絶対にカトリーヌ様の頬を張っていたはずなのに……っ」
「うん。だって全力で当てるつもりだったしね」
リリアはさらっと真顔で頷いた。
「でもあの脳筋の横槍はびっくりしたよねー。ま、生徒会の外には通達してなかったからしょうがないし、あれのおかげでわりと迫真な感じ出たけど。だからって空気読めなすぎー」
「……あんたローヴァンに対しての態度、昔と変わってない?」
「ええー、ナンノコトカナー」
「──そんな!」
暢気なリリアに対して、メア・キルナーの悲痛さは増すばかり。
「だってあんな……あんなに真剣に睨み合って……あれがお芝居だったなんて……っ」
敗北感にまみれた呟きに、リリアとカトリーヌは視線を交わす。
「あんなもの、いくらでもできるわよね? 言ってやりたいことなんていくらでもあるもの」
「うん。カトちゃんと口喧嘩なんて四時間余裕っ!」
「おばか、そんなに付き合いきれないわよ。三十分でトドメを刺すわ」
「物騒っ!?」
平然と交わされる眼前の会話を、メア・キルナーは絶望的な表情を浮かべて見つめている。
「……どうして……そんなにも不満のある相手を、どうしてそんなふうに受け入れられるのですか……?」
「ええ? どうしてって……」
「言われてもなぁ」
心底理解できないという顔をされて、カトリーヌこそ戸惑い、リリアも首を傾げてしまう。
『ゲーム』の『悪役令嬢』が『ヒロイン』に抱いていたであろう強烈な対抗心や依存心は、今のカトリーヌにはない。
たとえばリリアが本気の恋をして誰か一人の男のものになったとしても、カトリーヌがそれを妨害することもリリアに泣いてすがり引き止めるようなことも絶対にないと言い切れる。むしろ面倒事から解放されると、快く送り出すだろう。……まあ、少しは寂しい気分にはなるかもしれないが。
リリアも似たようなものだろう。散々周囲に迷惑かけ通しのリリアだが、本質は非情にしぶとい。カトリーヌの助力が得られない状況なら、それはそれでそれなりに生きていけるはずだ。
「なんだろーね、不満はたっぷりあるけどね」
「それはこっちのセリフよね」
「めんどくせーなって思うことのほうが多いけどね」
「それもこっちのセリフよ」
「でもまあめんどくさくても友達はやれるじゃんね?」
「一般的な友達ってのもなんか違う気がするけど?」
「じゃ、幼馴染?」
「むしろ腐れ縁よね」
ぽんぽんと小気味の良い言葉の応酬。
こういったことは、たぶん理屈ではないのだ。
人間なのだから、好き嫌いはどうしても出てくる。積極的に仲良くなりたい相手もいれば、その逆もいる。全ての人間と仲良くするのは現実的には不可能で、実際その必要もない。意識的にせよ無意識にせよ、人間関係はどこかしらで選り好みされている。
ただ、まあ。そういうことを考えなくて済む相手というのも、中にはいるものだ。
多くの者にとってそれは家族で、選り好みできない対象だからこそ、共に暮らしていくためには互いの許容や妥協が必要になる。
……カトリーヌにとって、それは家族ではない。たぶん、だから、リリアにそれを求めているのかもしれない。何があっても変わることのない、「腐れ縁」という緩やかな関係性を。




