(30)怪鳥の舞い
衝立の向こう側で、たくさんの人がひしめいている気配がする。
舞台袖に立ってなお、カトリーヌは呆然としていた。
ヒルデガルトに嵌められる形でなし崩しに代理ダンサーをやらされる羽目になり、ニッキーの指導で大雑把な演目の構成を叩き込まれ、吹奏楽部の演奏に合わせてほんの数度ばかりの通し稽古を経て、瞬く間に開演の時間となった。
「こんな付け焼き刃で舞台に立つなんてどうかしてる……!」
と一瞬正気に戻って頭を抱えても、
「大丈夫ですよ、お嬢様はもともと気分で踊る方なんですから。その時の感情に素直に身体を動かして、音楽のノリにいい感じに乗っちゃえばそれっぽくなりますって!」
と、要約すると「アドリブで乗り切れ」という嬉しくもなんともない大雑把な太鼓判を頂いて、しかし逃げ道だけは物理的に丁寧に塞がれた。
わかっている。プロの演技ではないのだ。父兄を含む来客は、学生が拙くとも懸命に場を盛り上げようと必死になる姿を求めているのであって、水も漏らさぬ完璧なパフォーマンスである必要はない。その上カトリーヌは緊急の助っ人だ、それなりに時間を潰せればそれでよし、多少情けない演技をしても文句は言われまい。面布で顔は念入りに隠すので、カトリーヌ自身の恥としては残らない……はず。
だが、それはそれとして。
人を人とも思わない変わり者でも、緊張しないわけでは、ないのである。
カトリーヌは傍らを通りかかった男子生徒の、制服の裾を反射的にガッと引っ掴んでいた。「うわっ!?」とよくよく聞き覚えのある声を上げてのけぞった男子生徒を、カトリーヌは目を合わせることなく、地を這うような低い声で脅しつける。
「ちゃんと、傍にいなさいよ……!」
一拍の沈黙ののち、悪意のない、嬉しそうな失笑が返ってきた。
「大丈夫。ずっと、ちゃんと見てるよ」
***
学園祭二日目、開幕。
ぼちぼち人の集まり始めた野外ステージに、ブラスバンドの演奏が響く。互いの音を探り合う調律のような試演で少しずつ人を呼び込み、徐々に舞台を温めていく。助走のような低調な音階から、徐々に音数を増やし、速度を増し、高音へとシフトしていく。
やがて折り重なった音の盛り上がりが頂点に達しようとした、その時。
旋律が気持ちの良い場所に到達するかと思われた寸前、ブラスバンドは一斉に、ぴたりと、演奏を静止した。
音楽につられて集まった観客も、たまたま通りかかった人々も、惹きつけられるように舞台上に注目する。
前日ステージを観劇した者ならば気づくだろう。明るく舞台全体を照らし出していたシャンデリアが排され、代わりにいくつもの吊り下げランタンやオイルランプがほの暗く舞台上を浮かび上がらせている。
その中央に、誰かがいる。うずくまるように片膝を折り、じっと顔を伏せている真紅の衣装の女。
ひゅるり、と軽快な高音を響かせて、横笛がゆったりとした旋律を紡ぎ出し、特別講義クラスのステージはなんの説明もなく始まった。
横笛の節回しに合わせて、女が動き出す。我が身を隠すように胸の前で交差していた嫋やかな手が伸びる。身にまとうローブに似た大判の飾り布が滑らかに広がる。まるで、大きな鳥が美麗な翼を広げるように。
聴衆が息を呑み、その美しさを目で追う。
鳥はどこか悄然として見えた。痛めた翼をいたわるような仕草で、幾度か翼を遠慮がちに開いては畳み、畳んではおそるおそる広げる。哀愁をまとう萎れた鳥の心情を、女の所作と横笛の音が巧みに表現していく。
……だが、しかし。
見る目のある者は気づいたかもしれない。舞手の仕草が、横笛の旋律を置き去りにして、次第に苛立ちを帯び始めたことに。
(……なんでこんな目に)
ことここに至ってなお、舞手──すなわちカトリーヌは未だ往生際悪く心の底で愚痴っていたのである。むしろ身体を動かすごとに硬直ぎみだった思考が冴えて、燻っていた不満は理不尽な現状への具体的な怒りとして膨れ上がり……
(……人がこんだけぐちゃぐちゃな気分になってるっていうのに暢気な顔並べて……っ)
なぜか、観客への八つ当たりに昇華した。
(人を見世物にして楽しんでんじゃねぇぇぇぇ──ッ!!)
わなわなと震えだしたかと思えば、客席に向けて威嚇の如く勢いよく翼を広げる鳥。それはまるで燃える不死鳥……否、怒りの怪鳥である。
舞手の不穏な動きに気づいていたブラスバンドが徐々に横笛に合流して備えていたため、爆発の瞬間にはアドリブながら曲の最高潮を持ってくることに成功した。さらに黒子が暗躍してランプや燭台を徐々に追加して舞台上を明るくし始めていたところに、鳥の激怒に合わせて松明まで登場したものだから、炎の明かりに浮かび上がる鳥の迫力たるや見事なもの。どよめきが客席を駆け抜ける。
鳥はなおも荒ぶる。カトリーヌの怒りの全てが踊りの所作の端々に現れる。美しくも苛烈に、そして居丈高に。
(ああああもう腹立つっ、腹立つ! どいつもこいつも雁首揃えて間抜けヅラ晒して……っ。この程度の素人ダンスに釘付けになれるなんてどんだけ目が腐ってるのかしら! こんなことで気晴らしや暇つぶしができるなんてお気楽で幸福な人生ですこと! ……人がどんな気持ちで……どんなみじめな気分で……っ)
急速に機嫌が切り替わる。躁から鬱へ。
(……こんな、これっぽっちの舞台で、私が踊ったからって、あなたの何が変わるっていうのよ、ニッキー……あなたはもっと……あなたこそがもっと、踊っていたいはずなのに……)
感情任せに凶暴だった動きが明らかに鈍り、羽根を撒き散らさんばかりに荒ぶっていた翼が萎れていく。
その動きが疲労によるものだと思う観客はいない。
彼女の仕草には指先にまで心が通っている。人々の抱く普遍的な感覚に、深く響く何かがある。
胸を衝くような悲しみと憂いを、鳥はその全身に抱え込んでいる。
鳥は今、何かを諦めた。
……いや、最初からずっと諦め続けていた。
きっと、空へと飛び立つことを。
***
ざわめくことも忘れて息を呑む客席。その後方で立ち見をしていたニッキーは、胸を抑えて微笑んだ。
「やっぱりお嬢様は天才ね」
カトリーヌの技術はプロには及ばない。おそらくこの先みっちり技術を仕込み身体を作っていったとしても、ダンサーとして大成させるのは難しいだろう。
本人にも告げたとおり、根本的な体質が向いていないのもある。だがそれ以上に、型通りのダンスという、基本中の基本そのものが向いていないのだ。
他者が考え出した振り付けや、音楽や物語に沿った表現というものにいっかな馴染まない。身体だけはそつなく動いても、振り付けの意図する感情表現に乗り切れず、どこか淡白で白々しい。
それでいて、本人の好きなように踊らせると、たちまち輝くのだ。
普段蓋をしていた感情が花開くように、爆発するように。生来の激しさも、美しさも、憂いも。何もかもが人の目を否応なく惹きつける。
どう踊るか、全ては本人の気分次第。これでは決められた演目を最高のパフォーマンスで提供する演者にはなれまい。
彼女の本質は、生み出す者──芸術家なのだ。
まともなステージでは箸にも棒にもかからないであろう一番弟子の晴れ舞台。自分でも気づかぬうちにその細い身体に悲しみも憂いも諦めもたくさん溜め込んできた少女が、誰からの理解も同情も拒んでいたその膨大な感情でもって人々の目を惹きつけて、今この瞬間誰よりも輝いている。
それが、再び舞台に立つことを本当は恐れているニッキーをどれほど勇気づけてくれる光景か。まだ本当の意味での挫折を知らない学生たちにはわからないだろう。
ダンスの講師を始めてわずか二年足らず。それでも可愛い一番弟子を、愛さずにはいられない。願わずにはいられない。
どうか彼女に幸せがあるように。
「お嬢様のこと、頼みますよ、坊っちゃん」
傍らに視線を流して、余計なお世話だったか、とニッキーは小さく笑う。
舞台上に注がれる少年の眼差しは、誇らしさと少しばかりの悔しさを滲ませて、それ以上に熱いものを宿して、カトリーヌだけを見つめている。
「うん……頑張るよ」
壇上の鳥は深い諦観を乗せた翼を静かに畳み、深甚たる余韻の中で、舞台は幕を下ろした。




