殴らない聖女
朝の市場は騒がしい。
パンを焼く匂い。
野菜を並べる声。
値切り交渉で怒鳴り合う商人。
戦後の街は、以前より少しだけ活気を取り戻していた。
私は露店通りを歩きながら、小さく息を吐く。
「平和ですねえ」
隣を歩く団長が苦笑した。
「その台詞、聖女殿が言うと妙に不安になります」
「失礼ですね」
「実際、貴女が『平和ですね』と言った日の八割で騒動が起きています」
「統計取ってたんですか?」
「ええ」
「暇なんですか?」
「貴女のせいで忙しいんですよ」
ひどい言い草だった。
私は露店のリンゴを一つ手に取り、商人に代金を払う。
「聖女様!」
近くで子どもたちが手を振っていた。
最近は街を歩くたびに囲まれる。
以前は怖がられていた拳も、今では半分くらいマスコット扱いだ。
「今日は誰を殴るのー?」
「挨拶みたいに聞かないでくれます?」
子どもたちは大笑いした。
団長まで笑っている。
「いや、でも実際、今日は静かですよ」
「その台詞、死亡フラグですよ」
「誰に教わったんですかそんな言葉」
「作者の気配を感じました」
「怖いこと言わないでください」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
市場の奥で悲鳴が上がる。
「盗っ人だー!」
私は反射的に走った。
人混みをかき分ける。
逃げる男。
追いかける店主。
男は幼い少女を突き飛ばし、そのまま路地へ駆け込んだ。
考えるより先に拳を握る。
「待ちなさい!」
路地へ飛び込む。
あと数歩。
殴れば止まる。
そう判断した瞬間だった。
「動かないでください」
静かな声。
次の瞬間、逃げていた男がぴたりと止まった。
まるで時間が凍ったみたいだった。
路地の先。
一人の女性が立っていた。
白い修道服。
柔らかな金髪。
祈るように組まれた両手。
そして、不思議なほど穏やかな目。
「大丈夫です」
彼女は優しく微笑む。
「誰も、あなたを傷つけません」
盗人の男が震えていた。
「お、俺は……」
「苦しかったんですね」
責める声ではない。
抱きしめるみたいな声音だった。
「でも、奪われた人も苦しいんです」
男の手から財布が落ちる。
「……っ」
泣いていた。
盗人が、その場に膝をついて泣き始めた。
私は呆然と立ち尽くす。
殴ってない。
なのに止まった。
店主も目を丸くしていた。
「え……?」
女性はゆっくり男へ近づく。
「返しましょう」
男は震えながら頷いた。
私はまだ拳を握ったままだった。
でも、その拳の行き場がなくなっていた。
「あなたは……?」
思わず聞く。
彼女は私を見る。
まるで春の日差しみたいな笑顔だった。
「初めまして」
静かな礼。
「リシェルと申します」
その名前を聞いた瞬間、団長が目を見開いた。
「まさか……隣国の聖女……!」
市場がざわつく。
「えっ」
「あの“殴らない聖女”!?」
「本物!?」
私は思わず聞き返した。
「殴らない聖女?」
「はい」
リシェルは微笑む。
「暴力は、悲しみしか生まないので」
ぐさっときた。
なんか今、心に刺さった。
団長がものすごく気まずそうな顔をしている。
やめてくださいその目。
私は悪いことしてません。
「……殴った方が早い時もありますよ」
つい口から出た。
リシェルは驚かなかった。
怒りもしない。
ただ静かに答える。
「そうかもしれません」
「ですが、“早い”ことと、“正しい”ことは違います」
空気が静まる。
市場の人たちが、私と彼女を交互に見ていた。
私は拳を握る。
彼女は、手を開いている。
真逆だった。
その時。
「聖女様ー!」
子どもが走ってきた。
勢い余って転ぶ。
「あっ」
私は咄嗟に動こうとした。
でも、その前にリシェルがしゃがみ込み、子どもを優しく抱き起こしていた。
「大丈夫ですか?」
「う、うん……」
「痛かったですね」
子どもは泣きそうな顔で頷く。
リシェルは頭を撫でた。
「でも、ちゃんと立てました。偉いですよ」
その笑顔を見て、子どもも笑う。
周囲から、ほっとした空気が漏れた。
私は黙って見ていた。
……なんだろう。
すごく、綺麗だ。
でも。
綺麗すぎる。
「聖女殿?」
団長が小声で聞く。
「どうしました」
「……いえ」
私は視線を逸らす。
市場の喧騒が戻っていく。
人々は笑い、安堵し、彼女を称賛していた。
誰も傷つけない解決。
理想的だ。
きっと、正しい。
でも。
私は知っている。
間に合わない瞬間があることを。
話している間に、壊れる命があることを。
だから私は、拳を握ってきた。
リシェルがこちらを見る。
「あなたが、“見過ごさない聖女”ですね」
「……そう呼ばれてます」
「素敵な名前です」
「そちらこそ」
少しだけ視線がぶつかる。
柔らかな笑顔。
でも、その奥に強い意志が見えた。
この人も、本気だ。
本気で、“殴らずに守れる”と信じている。
そして多分――。
私のことを、危ういと思っている。
市場に風が吹く。
私はゆっくり拳を開いた。
その日。
もう一人の聖女が、街にやって来た。




