握った拳、開いた手
隣国の聖女リシェルが王城へ招かれた日のことは、たぶん後々まで語られると思う。
なにしろ、城の空気が異様だった。
「……緊張しますね」
私がそう呟くと、団長が真顔で返した。
「貴女が言います?」
「なんですかその反応」
「城の警備兵たちが『今日は聖女同士が鉢合わせる日だ』って賭け始めてます」
「最低ですね」
「ちなみに貴女が先に殴る方に金が集まってます」
「私の信用どうなってるんです?」
「積み重ねですね」
納得できない。
私は廊下を歩きながら深いため息を吐いた。
窓の外では兵士たちが訓練をしている。
剣戟の音。掛け声。汗の匂い。
守るための力。
私はそれを否定したことはない。
だけど。
「暴力は悲しみしか生まないので」
昨日の言葉が、妙に耳に残っていた。
考えているうちに、会議室へ到着する。
扉を開けると、既にリシェルが座っていた。
相変わらず柔らかな雰囲気だった。
でも、ただ優しいだけじゃない。
部屋に入った瞬間、空気の中心が彼女になる。
そんな不思議な存在感があった。
「おはようございます」
リシェルが微笑む。
「……おはようございます」
私も席につく。
王の代理人が咳払いをした。
「では、本題に入りましょう」
机の上には地図。
城下町の一角に赤い印がつけられている。
「最近、この周辺で揉め事が増えています」
法務官が説明を始めた。
「食糧不足による窃盗、暴行、住民同士の衝突……小規模ですが件数が増加している」
「なるほど」
私は頷く。
「原因は?」
「難民の流入です」
空気が少し重くなる。
戦後、行き場を失った人々が街へ集まり始めていた。
仕事も家もない。
当然、治安は悪化する。
「取り締まりを強化しますか?」
団長が聞いた。
その時だった。
「待ってください」
リシェルが静かに口を開く。
「彼らを追い詰めれば、もっと状況は悪くなります」
「ですが放置もできません」
「ええ。だから必要なのは制圧ではなく支援です」
彼女は地図を指差した。
「炊き出しの場所を増やしてください」
「職を失った人へ仕事を斡旋する仕組みを」
「話を聞く場も必要です」
穏やかな声だった。
でも不思議と反論しづらい。
理想論に聞こえるのに、ちゃんと現実を見ている。
「……時間がかかりますね」
私は率直に言った。
「はい」
リシェルは頷く。
「ですが、必要な時間です」
「その間に暴れる人間は?」
「話します」
「話して止まる人ばかりなら苦労しません」
少しだけ空気が張る。
団長が胃痛を堪える顔をしていた。
ごめんなさい。
でも気になる。
私は聞かずにいられなかった。
「もし今、誰かが刃物を持って暴れてたら?」
「止めます」
「どうやって?」
リシェルは私を見る。
真っ直ぐに。
「傷つけずに」
「……綺麗事です」
思わず口から出た。
部屋が静まり返る。
でも、リシェルは怒らなかった。
「そうですね」
穏やかな返事。
「きっと私は、綺麗事を言っています」
否定しないんだ。
少し拍子抜けした。
「ですが」
彼女は続ける。
「綺麗事を諦めた瞬間、人は簡単に誰かを傷つけ始めます」
静かな言葉だった。
なのに重かった。
私は視線を逸らす。
会議はその後も続いたが、頭の中にはその言葉が残り続けていた。
昼過ぎ。
私は城下へ出た。
考え事をしたい時は歩くに限る。
「聖女様!」
市場の子どもたちが駆け寄ってくる。
「今日は誰殴った!?」
「だから挨拶みたいに聞くなって言ってるでしょ!」
大笑いされる。
完全にイメージが固定されている。
その時だった。
怒鳴り声。
「返せ!」
通りの奥で男たちが揉み合っている。
片方は痩せた難民風の男。
もう片方はパン屋の店主。
「盗んだな!?」
「ち、違う……!」
私は反射的に走った。
止めなきゃ。
拳を握る。
殴れば終わる。
そう思った瞬間。
「待ってください!」
後ろから声。
リシェルだった。
彼女は息を切らしながら二人の間へ入る。
「お話を聞かせてください」
「邪魔するな聖女様!」
店主が怒鳴る。
「こいつがパンを盗んだんだ!」
「盗んでない……!」
難民の男が叫ぶ。
「娘が腹を空かせて……俺は……!」
リシェルは静かに男を見る。
「本当ですか?」
「……っ」
男が泣きそうな顔で頷いた。
リシェルは少しだけ目を伏せる。
「では、まず確認しましょう」
彼女は店主へ向き直った。
「パンはいくつ無くなりましたか?」
「……二つだ」
「代金は?」
「払われてない」
「わかりました」
リシェルは懐から硬貨を出した。
「こちらでお支払いします」
「は?」
店主が固まる。
「それでは解決しない!」
思わず私は口を挟んだ。
「また同じことが起きます!」
「ええ」
リシェルは頷く。
「だから、次が起きないように話をします」
「今必要なのは罰じゃなくて、飢えない環境です」
難民の男が俯く。
悔しそうに。
情けなさそうに。
私は拳を握ったまま立ち尽くしていた。
殴れば、一瞬で終わった。
でも。
その後は?
その答えを、私は持っていただろうか。
リシェルが振り返る。
「あなたは優しいですね」
「……は?」
「だから、すぐ止めようとする」
予想外の言葉だった。
「でも私は、止めた後も見たいんです」
風が吹く。
彼女の白い髪が揺れる。
私は少しだけ、わからなくなっていた。
自分の拳が。
本当に正しいのか。




