第90話
まさにそのときだった。
後ろの屋根の闇の中から、短く鋭い音が裂けた。
ひゅっ。
矢。
マヤだった。
黒服の一人が悲鳴を上げて転がった。
「そこまで丁寧に説明してくれてありがとね!」
赤毛の狐獣人が、向かいの屋根の欄干の上に立っていた。
夜風が尻尾の先を鋭く揺らしていた。
目は笑っていなかった。
弓弦はすでに二本目の矢をくわえていた。
よし。
来た。
思ったより早く来た。
しかしそれを待っていたかのように、マルセラはむしろ低く言った。
「だから御しやすい女から来るのですね。」
「何?」
マヤの眉がぴくりと動いた。
その短い感情の隙。
まさにその瞬間、反対側の屋根下に隠れていた石弓持ち二人が跳ね上がった。
ひゅっ、ひゅっ。
マヤは矢の一本をねじって打ち落としたが、もう一本は彼女の肩をかすめていった。
血が跳ねた。
それほど深くはなかったが、確かに当たった。
「マヤさん!」
レオンが叫んだ。
よし。
これはとても悪い。
レオンはその瞬間、本気で腹が立った。
自分に刃を突きつけるのは、まあそういうものだと思えた。
連れて行かれるのも、正直かなり嫌だが理解はできる。
だが自分のせいで真っ先に追ってきた人を狙う?
それはかなり苛立った。
とても。
そして苛立ちは、たいていこのスキルと相性がよかった。
彼の視界の片隅で、文言がもう一度浮かんだ。
【味方危機確認】
【補正上昇】
【使用者感情:苛立ち、恐怖、それでも笑い反応維持中】
はい。
少し笑えます。
状況があまりにも汚いので。
レオンはわざと体の力を抜いた。
引きずっていた奴らが一瞬、バランスを取り直そうとして腕に力を入れた。
その刹那。
レオンは自分の体を下へ一気に折った。
どうせ半ば拘束された体だ。
格好よく戦うことはできない。
なら一番不格好なやり方でいけばいい。
彼はそのまま屋根の上にへたり込むように崩れた。
当然、引っ張っていた二人も一緒に揺れた。
レオンは転ぶついでに、自分の青銅プレートを抜き取って手に握った。
そしてかかとで一人の足の甲を踏み、反対に体をひねりながら、その金属の角をもう一人の手の甲へ思いきり叩きつけた。
かつん。
悲鳴。
「ぎゃああっ!」
レオンが息を荒げて叫んだ。
「いいですね!」
「初めて昇級記念品らしい使い道が出ました!」
マヤが血を流しながらも笑い出した。
「本当にいかれた人間ね!」
その隙に二本目の矢が飛んだ。
今度は正確だった。
レオンをつかんでいた奴の一人の太ももに刺さった。
奴が膝をついた。
しかしマルセラはそこで退かなかった。
彼女は一瞬のためらいもなく、レオンの首筋にもう一度あの暗い術式を叩き込んだ。
今度はさらに深かった。
世界がもう一度揺れた。
レオンの手からプレートが落ちた。
ちん。
青銅の光が屋根の上を短く転がった。
マルセラが冷たくささやいた。
「今度こそ本当に静かにしてください。」
彼女が指を弾くと、準備しておいた縄の輪がレオンの腰と腕をもう一度巻いた。
次の瞬間、屋根の下の闇に隠しておいた小さな貨物引き上げ装置が回り始めた。
木の滑車と鉄鎖が低く鳴った。
あ。
よし。
本当に準備が徹底しているな。
レオンは最後の力で顔を上げた。
マヤが再び弓を構える姿が見えた。
しかし反対側の屋根の上に新たに現れた黒い影三つが、彼女の前に立ちはだかった。
下の路地の端からはリナの声も聞こえた。
「レオオオン!」
そしてさらに遠く、とても短く冷たい一言。
「どけ。」
セラだった。
来た。
みんな来た。
だからこそ、さらに悪かった。
これでこれは、自分を救いに来る戦いになる。
マルセラの狙いどおりに。
レオンは霞んでいく視界の中で歯を食いしばって思った。
駄目だ。
連れて行かれるとしても、痕跡は残さなければならない。
誘い出されるとしても、少なくとも方向はずらしておかなければならない。
彼は指をかろうじて動かした。
屋根の上を転がっていく青銅プレート。
それを最後までつかめない代わりに、腰元の小さな折り畳みナイフだけは指先で押し出した。
マヤが前に握らせてくれた、あのナイフだった。
小さなもの。
道で縄を切ったり、釘を抜いたりするときに使えと言っていたもの。
彼はそのナイフを屋根の隙間へ落とした。
とてもわざと。
路地のほうへ。
セラやマヤなら見る。
エリンならもっと見る。
だからこれは目印だ。
あまりに小さく、あまりにみすぼらしく、あまりにレオンらしい目印。
そう思った瞬間、滑車が完全に引かれた。
レオンの体が屋根裏の闇の中へ引き下ろされた。
夜が一気に閉じた。
都市の屋根たちは黒い波のように互いにもたれ合い、路地はその間を流れる深い傷のように口を閉ざしていた。
誰かは上を走り、誰かは下を探り、誰かは歯を食いしばって剣の柄を握っているだろう。
そしてレオンは、そのすべての中心にぶら下げられたまま、闇の中へ消えていこうとしていた。
意識が完全に途切れる直前、彼の目の前に最後の文言が浮かんだ。
【状況判定】
【使用者、現在きわめて定石どおりに拉致されている最中】
【ただし目印を一つ残した】
【味方追跡開始確率:非常に高い】
【個人的感想:よくありませんね。ですが、まだ終わりではありません】
レオンは口元をほんの少し上げた。
そうだ。
まだではない。
まだ。
そして彼の視界が完全に暗くなった。
レオンが消えたあとも、都市の夜はすぐには静かにならなかった。




