第61話
レオンは反射的に前へ飛び出した。
飛び出そうとした。
ところが、絨毯の下にあった割れたティーカップの欠片を踏んだ。
滑った。
「あ。」
体が前へねじれた。
完璧だった。
本当に一寸もずれず、見事にみっともなかった。
【転倒判定】
【次の行動成功率上昇】
レオンは倒れ込みながら、横のテーブルクロスをつかんだ。
それが一気に引っ張られた。
カチャリ。
ガシャーン。
銀の盆、ティーカップ、果物ナイフ、ワイン瓶がまとめて、マルセラのそばについていた警備兵のほうへ降り注いだ。
警備兵は本能的に眉をひそめ、顔をかばった。
その半拍。
それが必要だった。
リリアが前へ出た。
今度はためらわなかった。
彼女は壁際の装飾用の火鉢台を両手で持ち上げ、その警備兵の手首へそのまま振り下ろした。
ドン。
「くっ!」
手首が折れ曲がった。
刀の切っ先が向きを失った。
リリアも驚いた。
本人が一番驚いていた。
「え……?」
レオンが床から叫んだ。
「いいです!」
「とてもいいです!」
「続けてください!」
「わ、私、今、殴りましたよね!?」
「はい!」
「完璧に!」
警備兵が歯を食いしばった。
「この取るに足らない奴らが……」
【『取るに足らない』判定を感知】
【補正上昇】
レオンは笑った。
「ありがとうございます。」
「今日も燃料は十分ですね。」
そして床から転がるように起き上がり、まだ手首を押さえているその警備兵の膝裏を蹴った。
本当に技と呼ぶのが気まずい角度だった。
でも、よく効いた。
警備兵が前に崩れた。
その刹那、セラの剣が横からかすめていった。
警備兵はどうにか体をひねり、急所だけは避けた。
その代わり、肩が長く裂けた。
血が跳ねた。
マルセラのドレスの裾に赤い点がひとつついた。
マルセラの眼差しが初めて変わった。
ほんの少し。
本当にほんの少しだけ。
彼女は倒れた警備兵を見下ろし、それからまたセラを見た。
失敗した駒にはもう視線を向ける価値もない、という顔だった。
問題はその時だった。
応接室の奥にある秘密金庫の扉のほうから、低く奇妙な震動が響いた。
ドン。
一度。
ドン。
二度。
エリンの顔がこわばった。
「待って。」
全員の視線がそちらに向いた。
金庫扉の隙間から、黒い霧のようなものが漏れ出していた。
夜を刻む棺と同じ質ではなかった。
もっと濁っていて、もっと粘ついていて、人の心を長く眠らせたあと腐らせたような臭い。
エドモンド辺境伯が歯を食いしばった。
「金庫の中にまで手を出したか。」
マルセラが冷たく答えた。
「念のためです。」
「人を殺すだけでは、文書は言うことを聞きませんから。」
その言葉を聞いたのはリリアだった。
彼女の顔が白く冷えた。
「家門の印章……」
「系譜文書……!」
セラが短く言った。
「レオン。」
「リリア。」
「金庫。」
レオンが目を見開いた。
「はい?」
「私がですか?」
「お前が一番よく転がる。」
その通りだった。
当たっているから余計に嫌だった。
だが今は反論している暇がなかった。
秘密金庫の扉のほうには短剣兵がもうひとり張りつき、内側の隙間では黒い手のような形がうごめいていた。
奴らが文書を燃やすにせよ、汚染するにせよ、盗むにせよ、今止めなければならない。
レオンは息をつく間もなく走った。
リリアも一緒に走った。
どちらも正面突破には似合わない組み合わせだった。
片方はまだ傷だらけで、片方はもともと戦闘員ではなかった。
だからこそなのか、むしろ見ていられないほど本気だった。
短剣兵がふたりを見て笑った。
「ガキふたりで何を……」
【『取るに足らない』判定を感知】
【補正上昇】
レオンは内心つぶやいた。
いいぞ。
続けろ。
彼は正面から走り、最後の一歩でわざと体をひねった。
もう半ば慣れた動きだった。
転んだあとのことを先に考える動きだった。
足が絨毯の端に引っかかった。
べしゃっ。
レオンは前へ滑った。
相手の短剣は本来なら首をかすめる角度で入ってきていたが、レオンが急に下へ消えたせいで空を切った。
そのままレオンは相手の脛を抱え込むように押し払った。
男がバランスを崩した。
リリアはその隙に、応接室の壁に立てかけられていた細長い装飾用の槍をつかんだ。
槍というより、槍をまねた装飾品だった。
それでも先端は尖っていた。
彼女は息をこくりと飲み、ぎゅっと目を閉じてから開いた。
そしてそのまま男の手の甲を突いた。
「ぎゃあっ!」
短剣が落ちた。
レオンが床から拾い、遠くへ蹴り飛ばした。
「いいです!」
「次は金庫!」
「はい!」
ふたりはほとんど同時に金庫扉へ飛びついた。
扉は半ば開いていた。
そして隙間から、黒い墨のようにどろついた何かがうごめいていた。
人の形にも見え、燃え残った帳にも見えた。
誰かが文書と印章に呪術をかけ、金庫そのものを汚染している最中だったのだ。
エリンが遠くから叫んだ。
「リリア!」
「右の蝶番の上の紋様!」
「それが核よ!」
リリアはすぐに理解した。
封印庫の管理補助をしていた目だった。
「あそこ!」
レオンは蝶番の上を見た。
黒い紋様がひとつ、血のように広がっていた。
高い。
微妙に。
手では届きにくい。
彼はほんの短く考えた。
そして言った。
「いいです。」
「では今回も人間扱いを捨てていきましょう。」
「はい?」
「リリアさん、私の背中を踏んでください。」
「ええっ!?」
言っている間に、彼はもう金庫扉の前で膝をついていた。
本当に踏み台だった。
リリアが真っ青になった。
「そ、そんなことは……」
レオンが切羽詰まって叫んだ。
「ためらっている時間はありません! どうせ私はもう何度も踏まれています!」




