第三話 ふたりの歩幅
美和が死んで四日目の朝、風が家の周りを何度も走った。
窓の隙間が笛のように細く鳴っている。庭では、物干し竿が金具に当たるたび、乾いた音を立てていた。空は明るいのに、灰色の雲ばかりが急いで流れていく。天気予報では、午後から雨になるらしい。
朝食は、昨夜のグラタンにした。
美和の分を電子レンジで温める。焦げたチーズは少し柔らかくなっていたが、味は悪くない。むしろ、一晩置いたおかげでホワイトソースがマカロニになじんでいる。
「カレーもグラタンも、次の日の方がおいしいね」
昨日と同じことを言っている気がした。
冷蔵庫を開けると、牛乳がほとんど残っていなかった。玉ねぎも昨日で使い切った。仕事が始まる前に買い物へ行くことにした。
玄関を開けた途端、冷たい風が上着の中へ入り込んだ。家の中で聞いていたより、ずっとせっかちな風だった。
近所のスーパーまでは歩いて十分ほどだ。車を出すほどではない。牛乳と玉ねぎ、人参、それから舞茸を籠へ入れた。レジの横に小さな丸パンが並んでいたので、それも一袋買った。
店を出ると、風にあおられたレシートが足元を転がっていった。その向こうを、黄色いヘルメットの子供が自転車で横切る。
母親らしい人が、ゆっくり、と後ろから声をかけていた。子供は聞こえていないのか、細い脚で懸命にペダルを回す。曲がり角で前輪が少し揺れた。倒れる、と思ったところで持ち直し、そのまま見えなくなった。
美和の膝には、薄い傷があった。
小学生のころ、自転車で坂道を下っていて転んだのだという。
「すごい怪我だったんだから」
初めて聞いたとき、美和は得意そうに言った。
「どれくらい?」
「保健室の先生がびっくりするくらい」
「病院には?」
「行ってない」
「じゃあ、それほどでもないんじゃない?」
「子供にとっては大怪我だったの」
傷は、白い糸を短く置いたような細い線だった。注意して見なければ気づかない。夏に短いズボンをはいたときだけ、美和が自分から指さして見せてきた。
「まだ残ってるでしょう」
「去年より薄くなってない?」
「直樹がちゃんと見てないだけだよ」
毎年同じ会話をした。
結婚して二年目の秋、二人で湖の周りを歩いたことがある。
一周三十分ほどだと聞いていたのに、途中の道は工事用の柵でふさがれていた。青い矢印に従って曲がるたび、水面が木立に隠れ、やがて湖そのものが見えなくなった。濡れた落ち葉だけが、歩道の端に重なっている。引き返した方が早いと僕は言ったが、美和はここまで来たのだから最後まで行くと言った。
「一周するために来たんでしょう」
「湖、もう見えないけど」
「そのうち戻るよ」
「本当に?」
「道はつながってるんだから」
根拠になっているようで、なっていない。
最初、美和の靴は僕の半歩先で落ち葉を踏んでいた。一時間を過ぎるころには、その音が少しずつ後ろへずれていく。僕が速度を落とすと、美和も気づいてさらに遅くなった。
「合わせなくていいよ」
「置いていけってこと?」
「先に行って、道を確認してきて」
「戻ってきたら、余計に歩くことになるんだけど」
美和は少し考えて、それもそうだね、と笑った。
それからは、どちらが合わせているとも言わずに歩いた。僕が少し歩幅を狭くして、美和が少しだけ急ぐ。落ち葉を踏む二つの音が、同じ間隔で続く。腕が触れそうで触れないくらいの距離だった。
湖が再び見えたとき、美和は両手を上げて喜んだ。その場にしゃがみ込み、例の膝をさすりながら、やっぱり道はつながっていたでしょう、と言った。
帰りは二人とも無口だった。
駅前の食堂で食べた蕎麦が、驚くほどおいしかったのを覚えている。
病気になってから、美和と歩く距離は少しずつ短くなった。
最初はスーパーまで。次は角の郵便受けまで。その次は家の前を往復するだけ。地図にすれば消えてしまいそうな距離でも、美和は出発前に水を飲み、玄関で一度深呼吸をした。
「今日は、あの電柱まで」
美和は毎回、自分で行き先を決めた。
たどり着いたら少し休み、同じ道を戻る。僕は隣を歩いた。手を引くと嫌がるので、転びそうになったときだけ支えた。
最後のころは、玄関で靴を履くだけで時間がかかった。
外へ出た日は、家へ戻ってからも美和の頬に少しだけ色があった。夕食のときまで、見つけた花や通り過ぎた犬の話をしていた。
十二月の初め、朝から小さな雪が降った日も、美和は散歩へ行くと言った。
「今日はやめておこう。滑ったら危ないよ」
「積もってないから大丈夫」
「寒いし」
「五分だけ」
五分で戻るという約束で外へ出た。美和は毛糸の帽子をかぶり、僕の腕につかまった。道路の端にうっすら残った雪が、靴の下で砂糖のように小さく鳴った。
家から二本目の電柱まで行くのに、五分以上かかった。
「そろそろ戻ろう」
「もう一本」
「約束が違う」
「帰りは下り坂だから早いよ」
ほとんど平らな道だった。
結局、三本目の電柱まで行った。美和はその柱へ手を置き、頂上に着いた人のように笑った。
帰宅するころには、帽子に白い粒がいくつも付いていた。玄関で払うと、雪はたちまち溶け、たたきに小さな黒い染みを作った。
「思ったより遠かったね」
美和は満足そうだった。
家へ戻り、買ってきたものを冷蔵庫へしまった。雨が降り出す前に帰れてよかった。
九時の朝会には、いつもどおり参加した。
午後二時を過ぎたころ、照明が一度だけ暗くなった。
画面の表示が揺れ、次の瞬間、照明も通信機器もまとめて沈黙した。予備電源へ切り替わったパソコンだけが、薄暗い部屋に青白く浮かんでいる。窓の外では、朝より重い色の雲が低く動いていた。
僕は椅子を立った。
仕事部屋を出て、台所へ行く。
冷凍庫の扉に手を当てる。表面の冷たさが、手のひらへゆっくり移ってきた。いつも台所の隅で続いている低い唸りは、どこにもない。停電なのだから当たり前なのに、耳を近づけて確かめた。
「大丈夫」
自分に言い聞かせるような声になった。
時計を見る。停電してから、まだ一分も経っていない。これくらいで中の温度が変わるはずはない。それでも手のひらを扉から離すと、中の冷たさまで失われるような気がした。
雨が窓を強く打ち、どこかで金属の転がる音がした。
「すぐ戻るから」
扉に触れたまま待った。
数分後、天井の照明が白く瞬いた。少し遅れて、冷凍庫の低い音も戻ってきた。
僕は息を吐き、扉から手を離した。
仕事部屋へ戻ると、社内の連絡画面に森からメッセージが届いていた。
『停電ですか? 大丈夫です?』
『もう戻った。問題ないよ』
返信してから、止まっていた作業を再開した。
夕食は、クリームシチューにした。
買ってきた玉ねぎと人参、舞茸を切る。冷凍庫を開け、今夜使う分を取り出した。鍋を火にかけると、バターと玉ねぎの甘い匂いが、雨の音を押し返すように広がっていく。
鍋が温まるまで、丸パンを二つずつ皿に載せた。美和の方は、シチューを少なめにする。昔から、最後の二口くらいを残す人だった。
「少なくしたから、今日は食べ切れるよ」
向かいの席から返事はない。
シチューができると、二枚の深皿によそった。
僕は自分の分を食べた。少し薄味だったので、途中で胡椒を足した。丸パンで皿の底を拭い、最後まできれいにする。
向かいのシチューから、湯気が細く上がっていた。途中で形を失い、空の椅子の前へほどけていく。
「冷めちゃうよ」
しばらく待ってから、美和の皿を自分の前へ寄せた。
少し冷めたシチューは、舞茸の香りがさっきより強くなっていた。丸パンは一つ残っている。小さくちぎり、皿の縁に付いた白いソースを拭う。パンの白い断面に、ソースがゆっくり染み込んだ。
「これなら洗うのも楽だね」
美和が残したものを僕が食べるのは、今に始まったことではない。
二枚とも、きれいに空になった。




