第二話 肩の高さ
美和が死んで三日目の朝、昨日のカレーはちゃんとおいしくなっていた。
美和の皿にかけておいたラップを外し、鍋に戻して温める。少しだけ水を足すと、とろみがちょうどよくなった。じゃがいもは半分くらい溶けている。それを見たら、美和はきっと勝ち誇っただろう。
「だから入れた方がおいしいって、言うんだろうな」
「はいはい。美和さんの言うとおりでした」
僕は美和の分まで言って、カレーを皿によそった。
一晩置いたカレーは角が取れている。辛さも酸味も丸くなって、昨日より食べやすい。美和の分はもともと少なめだったので、朝食にしても重くなかった。
食べ終わるころ、テーブルの端でスマートフォンが震えた。
僕のものではない。美和が使っていた、白いケースのスマートフォンだ。充電が切れないように、昨夜つないでおいた。
画面に佐伯さんの名前が出ていた。
美和が働いていたころ、同じ部署にいた人だ。退職してからも、ときどきメッセージを送ってくる。毎月連絡を取り合うほどではないけれど、誕生日には猫の絵が動くカードをくれた。美和は、猫が好きなのは私じゃなくて佐伯さんなんだけどね、と笑っていた。
通知には、文章の前半だけが表示されていた。
『体調どう? 返事は気にしなくていいからね。駅前の喫茶店が――』
ロックは解除しなかった。
「佐伯さんからだよ」
スマートフォンを、美和の席の前へ置く。画面はしばらく光っていたが、やがて暗くなった。
返事はいらないと書いてあるなら、急いで返す必要もないだろう。僕が代わりに返事をするのも、何か違う気がした。
皿を洗って仕事部屋へ入り、九時からの朝会に参加した。
昨夜はよく眠ったつもりだったが、肩が重かった。腕を上げ、首を傾ける。筋が伸びて気持ちいい。画面の向こうで森が何かを説明していたので、カメラを切ってからもう一度伸ばした。
美和は、人の肩を勝手に枕にする人だった。
初めてやられたのは、二人で映画を観た帰りの電車だったと思う。
映画は、美和が選んだ恋愛ものだった。画面の二人は二時間かけて出会い、すれ違い、別れ、もう一度出会った。僕は途中で二回ほど時計を見たが、美和は最後まで泣いていた。
帰りの電車で隣に座ると、美和は五分もしないうちに僕の肩へ頭を載せた。
泣き疲れたのかと思って顔をのぞいたら、普通に眠っていた。
起こさないようにしていたら、降りる駅を一つ過ぎた。
「どうして起こしてくれなかったの」
反対側のホームへ向かいながら、美和は僕を責めた。
「よく寝てたから」
「起こしていいよ。乗り過ごすよりましでしょう」
「次からそうする」
そう答えたけれど、次も起こさなかった。美和の頭は見た目より重かったし、髪が頬に当たってくすぐったかった。それでも、肩を貸している時間は嫌いではなかった。
結婚してからは、電車だけでなく、居間のソファでも同じことをした。
「僕の肩じゃなくて、クッションを使えばいいのに」
「こっちの方が高さがちょうどいい」
「動けないんだけど」
「動かなければいいよ」
ずいぶん勝手な話だ。
病気になってからは、僕が美和の肩を支えることの方が増えた。
ベッドから起き上がるとき、風呂場まで歩くとき、上着の袖へ腕を通すとき。肩へ手を添えるたび、以前より小さくなった気がした。
昔から着ていたカーディガンの肩が落ちるようになった日、美和は鏡を見ながら首をかしげた。
「服が大きくなった」
「洗って伸びたのかな」
「直樹、雑に干したでしょう」
「そうかも」
本当は、服の大きさは変わっていなかった。
袖を通し終えると、美和は疲れたのか、そのまま額を僕の肩へ預けた。以前のように眠ったわけではない。ほんの一分ほど、呼吸を整えていただけだ。
僕は、電車を乗り過ごしたときと同じように動かなかった。
今度はどこまで行っても、降りる駅などなければいいと思った。
昼休みになり、仕事部屋を出た。
美和のスマートフォンは、朝と同じ場所にあった。画面をつけると、通知の続きが少しだけ読めた。
『駅前の喫茶店が今月で閉まるんだって。体調が落ち着いたら、もう一度一緒に――』
佐伯さんは、あの店の固いプリンが好きだった。美和は生クリームの方が好きで、二人で行くと互いの皿から少しずつ交換するらしい。
「残念だね」
僕は画面を消した。
午後の仕事は忙しかった。更新作業が三件続き、予定していた確認項目も増えた。美和のスマートフォンがもう一度震えた気がしたけれど、手が離せなかった。
六時半に仕事を終え、台所へ行った。
夕食はマカロニグラタンにする。
冷凍庫を開けた。中には、美和が残してくれたものが入っている。
「今日は、どれにしようか」
しばらく考えて、今夜使う分を取り出した。
玉ねぎを炒め、牛乳を加え、ゆでたマカロニと合わせる。耐熱皿を二枚並べ、上からチーズをかけた。美和の方には、チーズだけ少し多めにする。焦げたところは、美和の好物だった。
オーブンに入れると、台所が静かになった。
待っている間、美和のスマートフォンを充電器から外した。佐伯さんのメッセージには、まだ返事をしていない。
「心配してくれてるよ」
通知を消さないまま、スマートフォンを伏せた。
やがてチーズの焼ける匂いがしてきた。
タイマーが鳴り、二枚の耐熱皿を取り出す。表面はきれいなきつね色になっていた。美和の方は、端のチーズだけ少し濃く焦げている。
「当たりだね」
テーブルの向かいへ置き、僕も席についた。
焼きたてのグラタンは熱い。最初の一口で舌をやけどしそうになり、しばらく息を吹きかけた。美和なら待ちきれずに食べて、毎回同じところをやけどする。
「急いで食べない方がいいよ」
美和の皿からは、湯気がゆっくり上がっていた。
僕は自分の分を食べ終え、美和の分にはラップをかけた。明日の朝に温め直せば、焦げたチーズもまだおいしいだろう。
食器を片づけている間に、白いスマートフォンがもう一度震えた。手を拭いて画面を見ると、佐伯さんが猫の絵を一つ送っていた。両手で大きな丸を作り、「お大事に」と書かれている。
「美和の好きな猫だって」
美和なら、猫が好きなのは佐伯さんの方だと言っただろう。
僕は少し笑って、画面を伏せた。
「明日は何にしようか」
白いスマートフォンは、もう震えなかった。




