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ふたりぶん  作者: Dar_3026
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第一話 手のひらの温度

 朝食は、いつもふたりぶん作る。


 食パンを二枚焼いて、目玉焼きも二つ。コーヒーは僕がブラックで、美和は牛乳を少し入れる。砂糖はいらない。甘いものは好きなくせに、コーヒーに砂糖を入れるのだけは邪道らしい。


「今日は焦がしてないよ」


 言ってから、トーストの角が黒くなっているのに気づいた。これくらいは焦げに入らない。ジャムを塗れば見えなくなるし、苺なら美和も文句はないだろう。


 テーブルの向かい側に、美和の皿を置いた。コーヒーもいつもの場所だ。カップの取っ手を右へ向けておく。美和は左利きなのに、なぜか取っ手だけは右を向いていないと落ち着かない。


「八枚切り、薄すぎるって言ってたけどさ。朝はこっちの方が食べやすいと思うんだよね」


 僕は自分のトーストをかじった。


 さくりと軽い音がした。うん。今日はちゃんと焼けている。角のところ以外は。


 美和の皿にはラップをかけておいた。昼までこのままにしておく。冷めた目玉焼きも、僕はそれほど嫌いではない。


 八時五十分に仕事部屋へ入った。


 仕事部屋と呼んではいるけれど、もともとは物置にする予定だった四畳半だ。机と椅子を入れたら、それだけで立派な仕事部屋になった。背景に余計なものが映らないので、オンライン会議にも都合がいい。


 九時の朝会には、僕を含めて六人がそろった。


『直樹さん、昨日の障害対応、ありがとうございました』


「ううん。結局、設定を一つ戻しただけだから」


『でも、夜までかかったでしょう』


「まあね」


 本当は、仕事にかかった時間なんて大したことはなかった。昨日はほかにもやることが多かったのだ。


 担当案件を確認し、引き継ぎ事項を読み上げる。僕の声はいつもと変わらなかったと思う。画面の隅に映る自分の顔も、少し寝不足に見える程度だった。


 朝会が終わる直前、同僚の森が残った。


『奥さん、どう?』


「今は落ち着いてるよ」


『そう。何かあったら、遠慮しないで休んでね』


「ありがとう」


 森はそれ以上聞かなかった。気を遣ってくれているのだろう。美和が病気になってから、みんな話を切り上げるのが上手になった。


 通話を閉じ、キーボードに手を戻した。


 左手の薬指に、指輪が小さく光った。


 美和と初めて手をつないだのは、付き合い始めて三度目のデートだった。


 十二月の駅前は、やたらと電飾が多かった。青い木、白い噴水、金色のトナカイ。何を見てもきれいだねと言えば済むので、会話に困らないという点では便利だった。


 信号待ちをしていると、美和が急に右手を差し出した。


「貸して」


 何を、と聞く前に手を取られ、そのまま美和のコートのポケットへ入れられた。


「冷たい」


「直樹の手が熱いんだよ」


「じゃあ返して」


「もう少し貸して」


 信号が青になっても、美和は手を離さなかった。


 あれを手をつないだ日に数えていいのかは、結婚してからも意見が分かれた。僕は数える派で、美和は暖房器具として借りただけだと言い張った。


 結婚指輪を選んだときも、美和は自分の手ばかり見ていた。


「指輪じゃなくて、手を見てない?」


「だって、指輪だけで歩くわけじゃないでしょう」


 もっともらしいような、そうでもないような返事だった。


 考えごとをすると指輪をくるくる回すのは、そのころからの癖だった。僕は逆に、つけたことを忘れる方だった。だから何かに触れるたび、硬い輪が当たって、美和と結婚したことを一日に何度も思い出した。


 病気になってから、美和の指は少し細くなった。


 一度、洗面台で指輪が抜けかけたことがある。サイズを直そうと言ったら、美和は首を横に振った。


「また戻るから、今のままでいい」


 それならなくさないように外しておけばいいのに、出かけるときは必ずつけた。病院へ行くだけの日も、診察が終わればすぐ帰る日も同じだった。


「だって、既婚者だって分からないと、声をかけられちゃうかもしれないでしょう」


「病院で?」


「待合室には人がいっぱいいるよ」


 僕が笑うと、美和は細くなった薬指で、僕の額を弾いた。力が落ちていたので、まったく痛くなかった。


 十時半に、監視画面の表示が一つだけ黄色になった。


 取引先の処理が普段より遅れている。連絡を入れ、記録をさかのぼり、前日の変更点を洗い出した。原因は古い設定が一か所だけ残っていたことだった。


『見つかりました?』


 森から個別の通話が入った。


「たぶん。今、直してる」


『手伝いましょうか』


「大丈夫。すぐ終わるよ」


 キーをいくつか打ち、設定を保存する。黄色だった表示が、十秒ほどして緑に戻った。


『早いですね』


「昨日も見たところだったから」


『それ、自分で言います?』


 森が笑ったので、僕も笑った。


 キーボードから手を離すと、指輪が机の縁に当たって小さく鳴った。


 午前中は小さな問い合わせが二件あっただけで、仕事は平和だった。


 十二時になると、美和の皿からラップを外した。冷めた目玉焼きは黄身が固くなっていた。これはこれで悪くない。トーストも少ししんなりしていたが、苺ジャムのおかげで十分食べられた。


「ほら、残さなかった」


 美和は昔から少食だった。外食をすると、最後の二口か三口が僕のところへ回ってくる。僕が太ったのは結婚のせいだと言うと、幸せ太りならいいじゃない、と笑っていた。


 二人分の皿を洗い、食器棚へ戻した。朝の分がなくなると、流し台はいつものようにすっきりした。


 午後六時、作業記録を保存して仕事を終えた。


 夕食はカレーにした。


 冷蔵庫から玉ねぎと人参を出した。美和は具が大きい方が好きなので、いつもより少し大きめに切る。


 僕は、具の小さいカレーの方が好きだ。どこをすくっても同じ味がするからだ。美和はそれではつまらないと言った。人参を食べたときは人参の味がして、玉ねぎを食べたときは玉ねぎの味がする方が、得をした気分になるらしい。


「じゃがいもは?」


 戸棚を開ける。奥に二つ残っていた。


「あるね。芽も出てない」


 美和は、じゃがいもの入っていないカレーを信用しない。煮崩れるから入れない店もあるのだと説明したことがあるが、煮崩れたら溶けておいしくなる、と譲らなかった。


 じゃがいもを大きく四つに切った。


 鍋がことこと鳴り始めると、家の中が急に温かくなった。カレーの匂いは偉い。どんな日でも、きちんと夕方にしてくれる。


「辛口にすればよかったかな」


 返事はない。


「でも、今は甘口の方がいいよね」


 二枚の皿にカレーをよそった。美和の方は、ご飯を少なめにしておく。


 僕は先に食べ始めた。少し煮込みすぎて、人参が柔らかくなっていた。美和なら、これはこれで好きだと言うだろう。


 向かいの皿からは、細い湯気が上がっていた。


 食後、美和の分にはラップをかけた。明日の朝には味がなじんで、今日よりおいしくなっているはずだ。


 皿を洗い、戸締まりを確かめ、仕事部屋の電源を落とした。


「おやすみ、美和」


 家の中は静かだった。


 美和が死んだのは、昨日の朝だった。


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