第一話 手のひらの温度
朝食は、いつもふたりぶん作る。
食パンを二枚焼いて、目玉焼きも二つ。コーヒーは僕がブラックで、美和は牛乳を少し入れる。砂糖はいらない。甘いものは好きなくせに、コーヒーに砂糖を入れるのだけは邪道らしい。
「今日は焦がしてないよ」
言ってから、トーストの角が黒くなっているのに気づいた。これくらいは焦げに入らない。ジャムを塗れば見えなくなるし、苺なら美和も文句はないだろう。
テーブルの向かい側に、美和の皿を置いた。コーヒーもいつもの場所だ。カップの取っ手を右へ向けておく。美和は左利きなのに、なぜか取っ手だけは右を向いていないと落ち着かない。
「八枚切り、薄すぎるって言ってたけどさ。朝はこっちの方が食べやすいと思うんだよね」
僕は自分のトーストをかじった。
さくりと軽い音がした。うん。今日はちゃんと焼けている。角のところ以外は。
美和の皿にはラップをかけておいた。昼までこのままにしておく。冷めた目玉焼きも、僕はそれほど嫌いではない。
八時五十分に仕事部屋へ入った。
仕事部屋と呼んではいるけれど、もともとは物置にする予定だった四畳半だ。机と椅子を入れたら、それだけで立派な仕事部屋になった。背景に余計なものが映らないので、オンライン会議にも都合がいい。
九時の朝会には、僕を含めて六人がそろった。
『直樹さん、昨日の障害対応、ありがとうございました』
「ううん。結局、設定を一つ戻しただけだから」
『でも、夜までかかったでしょう』
「まあね」
本当は、仕事にかかった時間なんて大したことはなかった。昨日はほかにもやることが多かったのだ。
担当案件を確認し、引き継ぎ事項を読み上げる。僕の声はいつもと変わらなかったと思う。画面の隅に映る自分の顔も、少し寝不足に見える程度だった。
朝会が終わる直前、同僚の森が残った。
『奥さん、どう?』
「今は落ち着いてるよ」
『そう。何かあったら、遠慮しないで休んでね』
「ありがとう」
森はそれ以上聞かなかった。気を遣ってくれているのだろう。美和が病気になってから、みんな話を切り上げるのが上手になった。
通話を閉じ、キーボードに手を戻した。
左手の薬指に、指輪が小さく光った。
美和と初めて手をつないだのは、付き合い始めて三度目のデートだった。
十二月の駅前は、やたらと電飾が多かった。青い木、白い噴水、金色のトナカイ。何を見てもきれいだねと言えば済むので、会話に困らないという点では便利だった。
信号待ちをしていると、美和が急に右手を差し出した。
「貸して」
何を、と聞く前に手を取られ、そのまま美和のコートのポケットへ入れられた。
「冷たい」
「直樹の手が熱いんだよ」
「じゃあ返して」
「もう少し貸して」
信号が青になっても、美和は手を離さなかった。
あれを手をつないだ日に数えていいのかは、結婚してからも意見が分かれた。僕は数える派で、美和は暖房器具として借りただけだと言い張った。
結婚指輪を選んだときも、美和は自分の手ばかり見ていた。
「指輪じゃなくて、手を見てない?」
「だって、指輪だけで歩くわけじゃないでしょう」
もっともらしいような、そうでもないような返事だった。
考えごとをすると指輪をくるくる回すのは、そのころからの癖だった。僕は逆に、つけたことを忘れる方だった。だから何かに触れるたび、硬い輪が当たって、美和と結婚したことを一日に何度も思い出した。
病気になってから、美和の指は少し細くなった。
一度、洗面台で指輪が抜けかけたことがある。サイズを直そうと言ったら、美和は首を横に振った。
「また戻るから、今のままでいい」
それならなくさないように外しておけばいいのに、出かけるときは必ずつけた。病院へ行くだけの日も、診察が終わればすぐ帰る日も同じだった。
「だって、既婚者だって分からないと、声をかけられちゃうかもしれないでしょう」
「病院で?」
「待合室には人がいっぱいいるよ」
僕が笑うと、美和は細くなった薬指で、僕の額を弾いた。力が落ちていたので、まったく痛くなかった。
十時半に、監視画面の表示が一つだけ黄色になった。
取引先の処理が普段より遅れている。連絡を入れ、記録をさかのぼり、前日の変更点を洗い出した。原因は古い設定が一か所だけ残っていたことだった。
『見つかりました?』
森から個別の通話が入った。
「たぶん。今、直してる」
『手伝いましょうか』
「大丈夫。すぐ終わるよ」
キーをいくつか打ち、設定を保存する。黄色だった表示が、十秒ほどして緑に戻った。
『早いですね』
「昨日も見たところだったから」
『それ、自分で言います?』
森が笑ったので、僕も笑った。
キーボードから手を離すと、指輪が机の縁に当たって小さく鳴った。
午前中は小さな問い合わせが二件あっただけで、仕事は平和だった。
十二時になると、美和の皿からラップを外した。冷めた目玉焼きは黄身が固くなっていた。これはこれで悪くない。トーストも少ししんなりしていたが、苺ジャムのおかげで十分食べられた。
「ほら、残さなかった」
美和は昔から少食だった。外食をすると、最後の二口か三口が僕のところへ回ってくる。僕が太ったのは結婚のせいだと言うと、幸せ太りならいいじゃない、と笑っていた。
二人分の皿を洗い、食器棚へ戻した。朝の分がなくなると、流し台はいつものようにすっきりした。
午後六時、作業記録を保存して仕事を終えた。
夕食はカレーにした。
冷蔵庫から玉ねぎと人参を出した。美和は具が大きい方が好きなので、いつもより少し大きめに切る。
僕は、具の小さいカレーの方が好きだ。どこをすくっても同じ味がするからだ。美和はそれではつまらないと言った。人参を食べたときは人参の味がして、玉ねぎを食べたときは玉ねぎの味がする方が、得をした気分になるらしい。
「じゃがいもは?」
戸棚を開ける。奥に二つ残っていた。
「あるね。芽も出てない」
美和は、じゃがいもの入っていないカレーを信用しない。煮崩れるから入れない店もあるのだと説明したことがあるが、煮崩れたら溶けておいしくなる、と譲らなかった。
じゃがいもを大きく四つに切った。
鍋がことこと鳴り始めると、家の中が急に温かくなった。カレーの匂いは偉い。どんな日でも、きちんと夕方にしてくれる。
「辛口にすればよかったかな」
返事はない。
「でも、今は甘口の方がいいよね」
二枚の皿にカレーをよそった。美和の方は、ご飯を少なめにしておく。
僕は先に食べ始めた。少し煮込みすぎて、人参が柔らかくなっていた。美和なら、これはこれで好きだと言うだろう。
向かいの皿からは、細い湯気が上がっていた。
食後、美和の分にはラップをかけた。明日の朝には味がなじんで、今日よりおいしくなっているはずだ。
皿を洗い、戸締まりを確かめ、仕事部屋の電源を落とした。
「おやすみ、美和」
家の中は静かだった。
美和が死んだのは、昨日の朝だった。




