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ふたりぶん  作者: Dar_3026
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第四話 口約束

「私が死んだら、食べてね」


 美和が最初にそう言ったのは、まだ食卓まで自分で歩けたころだった。


 その日の夕食はオムライスだった。卵をうまく巻けず、二人分とも黄色い布団を途中まで剥がしたような形になった。それでも美和は、味は同じだから大丈夫、と笑ってくれた。


 半分ほど食べたところで、美和のスプーンが止まった。


「もう無理?」


「あと三口くらい」


「それなら食べればいいのに」


「三口って、今の私には結構多いんだよ」


 美和は残りを僕の皿へ移した。卵とケチャップライスが少し崩れて、僕の食べかけと混ざる。


「直樹って、私の残したもの、何でも食べるよね」


「嫌いなものは残すけど」


「私の料理、残したことないでしょう」


「美和が見てないところでは、あるかもしれない」


「ないよ。分かるもん」


 美和はスプーンを置き、口元に付いていたケチャップを指で拭った。


「だから、私が死んだら食べてね」


「何それ」


「残さず、全部」


「急に怖い話にしないでよ」


 僕が笑うと、美和も笑った。


 冗談だと思った。美和はときどき、僕を困らせることを言っては面白がった。あとで何度もからかうために、僕の反応を覚えておく。そういう冗談の一つだと思った。


「じゃあ僕が先に死んだら、美和が食べるの?」


「それは嫌」


「ずるくない?」


「私は少食だから」


 美和はそう言って、僕の皿に増えたオムライスを指さした。


「ほら、冷めるよ」


 僕は美和の三口分まで食べた。


 二度目に聞いたのは、それから二週間ほどあとの夜だった。


 美和はソファに座り、両手で白湯のカップを包んでいた。唇は乾いていて、飲むたびに顔をしかめる。薬を飲んだあとは、口の中に苦い味が残るらしい。


「この前の話、覚えてる?」


「どの話?」


「私が死んだらって話」


 冗談を続けているのだと思い、僕はテレビを見たまま答えた。


「食べる話?」


「うん」


「覚えてるよ。忘れたいけど」


「あれ、本気だから」


 テレビの中では、芸人が何かを失敗して、客席が笑っていた。


 僕は音量を下げた。


「本気って、どういう意味?」


「そのままの意味」


「無理だよ」


「まだ何も説明してないよ」


「説明されても無理」


 思ったより強い声が出た。


 美和はカップへ視線を落とした。湯気はもうほとんど消えている。


「私ね、もっと一緒にいたかった」


「僕だってそうだよ」


「直樹の中にいれば、どこへ行くにも一緒でしょう」


「そんなの、一緒にいるとは言わない」


「私にとっては言うの」


「絶対にしない」


 言い切ると、美和はしばらく黙っていた。


「そっか」


 怒りもせず、泣きもせず、美和は小さく笑った。


「ごめん。忘れて」


「忘れられるわけないだろ」


「じゃあ、なるべく思い出さないで」


 美和は白湯を一口飲んだ。その夜は、それ以上、僕に頼むことはなかった。


 けれど、その言葉は残った。


 食事をするたびに、美和が残したものが僕の皿へ移ってくる。最後の一口を飲み込むたび、あのお願いまで一緒に飲み込んだ気がした。


 美和が亡くなった朝、空はよく晴れていた。


 カーテンの隙間から入る光が、ベッドの端を細く照らしていた。夜から続いていた美和の呼吸は、明け方になるとさらに浅くなった。


 唇がわずかに動いたので、僕は顔を近づけた。


「直樹」


「ここにいるよ」


「お願い」


 声は細かったが、何のことかは分かった。


「その話は、もうしないって言っただろ」


「最後だから」


「嫌だよ」


「そっか」


 二度目と同じ返事だった。


 美和は目を閉じた。拒まれたことを責める様子はなかった。ただ、乾いた唇の端が、ほんの少し下がって見えた。


 僕は美和の手を握った。


「分かった」


 美和が目を開ける。


「約束する」


「ほんと?」


「うん」


 嘘だった。


 できるはずがない。するつもりもなかった。ただ、美和に安心してほしかった。最後まで嫌だと言い続けるより、一度だけ嘘をつく方が優しいと思った。


 美和は笑った。


「ありがとう」


 唇からこぼれた声は、それが最後だった。


 僕はしばらく、美和の手を握っていた。


 部屋の中には、時計の針が進む音だけが残った。


 ベッドの脇には僕のスマートフォンがある。画面をつけ、病院の番号を表示した。あとは通話の印に触れるだけだった。


 指が止まった。


 一度、親指を通話の印へ近づけた。触れる寸前に、さっきの「ありがとう」を思い出し、また離した。


 連絡すれば、誰かが来る。美和を連れていく。僕がついた嘘だけが、この部屋に残る。


 美和は、僕の言葉を信じて笑った。


 死んだ人との約束を破っても、怒られることはない。がっかりした顔をされることも、嘘つきと呼ばれることもない。


 けれど、あの笑顔は、約束が本当だと信じた美和のものだった。


 僕はスマートフォンを伏せた。


 口から出ただけの嘘を、本当の約束にすることにした。


 カーテンの外が暗くなり、また明るくなるまで、台所の灯りは消えなかった。


 朝の光が差し込むころ、僕は食パンを二枚焼いた。


 美和が死んで五日目の夕方、病院から電話がかかってきた。


 仕事を終えたところだった。机の上でスマートフォンが震え、見慣れた病院名が表示されている。


 僕は画面が暗くなるまで待った。


「夕食にしようか」


 台所へ行き、冷凍庫を開ける。


 ここには、美和と過ごせる時間がまだ残っている。急ぐ必要はない。一日一日、思い出しながら迎え入れていけばいい。


 夕食は、オムライスにした。


 最初にお願いを聞いた夜と同じように、卵はきれいに巻けなかった。二枚の皿へ載せ、ケチャップをかける。美和の方は少し小さめだ。


「前より上手になったと思わない?」


 向かいの席から返事はない。


「味は同じだから、大丈夫だよね」


 僕はスプーンを持った。


「いただきます」


 自分の皿を食べ終え、美和の皿を手元へ寄せる。


 卵は冷めて、少し硬くなっていた。ケチャップライスと一緒に崩し、最後の一口まで食べる。


「ごちそうさま」


 今日も、きちんとふたりぶんだった。


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