第四話 口約束
「私が死んだら、食べてね」
美和が最初にそう言ったのは、まだ食卓まで自分で歩けたころだった。
その日の夕食はオムライスだった。卵をうまく巻けず、二人分とも黄色い布団を途中まで剥がしたような形になった。それでも美和は、味は同じだから大丈夫、と笑ってくれた。
半分ほど食べたところで、美和のスプーンが止まった。
「もう無理?」
「あと三口くらい」
「それなら食べればいいのに」
「三口って、今の私には結構多いんだよ」
美和は残りを僕の皿へ移した。卵とケチャップライスが少し崩れて、僕の食べかけと混ざる。
「直樹って、私の残したもの、何でも食べるよね」
「嫌いなものは残すけど」
「私の料理、残したことないでしょう」
「美和が見てないところでは、あるかもしれない」
「ないよ。分かるもん」
美和はスプーンを置き、口元に付いていたケチャップを指で拭った。
「だから、私が死んだら食べてね」
「何それ」
「残さず、全部」
「急に怖い話にしないでよ」
僕が笑うと、美和も笑った。
冗談だと思った。美和はときどき、僕を困らせることを言っては面白がった。あとで何度もからかうために、僕の反応を覚えておく。そういう冗談の一つだと思った。
「じゃあ僕が先に死んだら、美和が食べるの?」
「それは嫌」
「ずるくない?」
「私は少食だから」
美和はそう言って、僕の皿に増えたオムライスを指さした。
「ほら、冷めるよ」
僕は美和の三口分まで食べた。
二度目に聞いたのは、それから二週間ほどあとの夜だった。
美和はソファに座り、両手で白湯のカップを包んでいた。唇は乾いていて、飲むたびに顔をしかめる。薬を飲んだあとは、口の中に苦い味が残るらしい。
「この前の話、覚えてる?」
「どの話?」
「私が死んだらって話」
冗談を続けているのだと思い、僕はテレビを見たまま答えた。
「食べる話?」
「うん」
「覚えてるよ。忘れたいけど」
「あれ、本気だから」
テレビの中では、芸人が何かを失敗して、客席が笑っていた。
僕は音量を下げた。
「本気って、どういう意味?」
「そのままの意味」
「無理だよ」
「まだ何も説明してないよ」
「説明されても無理」
思ったより強い声が出た。
美和はカップへ視線を落とした。湯気はもうほとんど消えている。
「私ね、もっと一緒にいたかった」
「僕だってそうだよ」
「直樹の中にいれば、どこへ行くにも一緒でしょう」
「そんなの、一緒にいるとは言わない」
「私にとっては言うの」
「絶対にしない」
言い切ると、美和はしばらく黙っていた。
「そっか」
怒りもせず、泣きもせず、美和は小さく笑った。
「ごめん。忘れて」
「忘れられるわけないだろ」
「じゃあ、なるべく思い出さないで」
美和は白湯を一口飲んだ。その夜は、それ以上、僕に頼むことはなかった。
けれど、その言葉は残った。
食事をするたびに、美和が残したものが僕の皿へ移ってくる。最後の一口を飲み込むたび、あのお願いまで一緒に飲み込んだ気がした。
美和が亡くなった朝、空はよく晴れていた。
カーテンの隙間から入る光が、ベッドの端を細く照らしていた。夜から続いていた美和の呼吸は、明け方になるとさらに浅くなった。
唇がわずかに動いたので、僕は顔を近づけた。
「直樹」
「ここにいるよ」
「お願い」
声は細かったが、何のことかは分かった。
「その話は、もうしないって言っただろ」
「最後だから」
「嫌だよ」
「そっか」
二度目と同じ返事だった。
美和は目を閉じた。拒まれたことを責める様子はなかった。ただ、乾いた唇の端が、ほんの少し下がって見えた。
僕は美和の手を握った。
「分かった」
美和が目を開ける。
「約束する」
「ほんと?」
「うん」
嘘だった。
できるはずがない。するつもりもなかった。ただ、美和に安心してほしかった。最後まで嫌だと言い続けるより、一度だけ嘘をつく方が優しいと思った。
美和は笑った。
「ありがとう」
唇からこぼれた声は、それが最後だった。
僕はしばらく、美和の手を握っていた。
部屋の中には、時計の針が進む音だけが残った。
ベッドの脇には僕のスマートフォンがある。画面をつけ、病院の番号を表示した。あとは通話の印に触れるだけだった。
指が止まった。
一度、親指を通話の印へ近づけた。触れる寸前に、さっきの「ありがとう」を思い出し、また離した。
連絡すれば、誰かが来る。美和を連れていく。僕がついた嘘だけが、この部屋に残る。
美和は、僕の言葉を信じて笑った。
死んだ人との約束を破っても、怒られることはない。がっかりした顔をされることも、嘘つきと呼ばれることもない。
けれど、あの笑顔は、約束が本当だと信じた美和のものだった。
僕はスマートフォンを伏せた。
口から出ただけの嘘を、本当の約束にすることにした。
カーテンの外が暗くなり、また明るくなるまで、台所の灯りは消えなかった。
朝の光が差し込むころ、僕は食パンを二枚焼いた。
美和が死んで五日目の夕方、病院から電話がかかってきた。
仕事を終えたところだった。机の上でスマートフォンが震え、見慣れた病院名が表示されている。
僕は画面が暗くなるまで待った。
「夕食にしようか」
台所へ行き、冷凍庫を開ける。
ここには、美和と過ごせる時間がまだ残っている。急ぐ必要はない。一日一日、思い出しながら迎え入れていけばいい。
夕食は、オムライスにした。
最初にお願いを聞いた夜と同じように、卵はきれいに巻けなかった。二枚の皿へ載せ、ケチャップをかける。美和の方は少し小さめだ。
「前より上手になったと思わない?」
向かいの席から返事はない。
「味は同じだから、大丈夫だよね」
僕はスプーンを持った。
「いただきます」
自分の皿を食べ終え、美和の皿を手元へ寄せる。
卵は冷めて、少し硬くなっていた。ケチャップライスと一緒に崩し、最後の一口まで食べる。
「ごちそうさま」
今日も、きちんとふたりぶんだった。




