【第49話】花束と、二つの名前
両親の墓は、フォックス伯爵領の外れの、小高い丘の上にあった。
八年間、誰も手入れをしていなかったのだろう。石碑は苔むして、名前も読めないほどだった。
ランスロット・フォックス。シャーロット・フォックス。
私はマリーと一緒に、丸一日かけて墓を洗った。ドレスは泥だらけ、爪の間は真っ黒。学院の淑女教育を受けている令嬢がやることじゃない、とマリーは泣きそうな顔をしたけれど、私はこの八年分の苔を、誰かに任せる気にはなれなかった。
夕方、綺麗になった石碑の前に、両手いっぱいの花を置いた。
道端の花、市場で買った花、領民のおばあさんがくれた花。豪華な花束じゃない。でも、あの子が見たかったのは、たぶん、そういうものだと思ったから。
「エミリアさん」
丘の下から、領民の子供たちが走ってきた。学院の休みに領地へ通うようになった、この数週間で、私はもう、すっかり「変わったお嬢様」として顔を覚えられていた。魔力税を下げ、魔力灯を半分に減らし、その分を学校と井戸に回す——そう決めて、まだ動き出したばかり。見栄えは、これから悪くなる。暮らしは、これから良くなる。
「お墓、きれいになったね!」
「そうよ。ここに眠ってる人はね、とっても優しいご夫婦だったんですって」
私は、石碑に触れた。
八年間、この人たちの娘は、暗い地下で「私が、何をしましたか」と問い続けた。
答えは、彼女の中には最初からなかった。憎まれる理由は、彼女ではなく、あの男の側にあったのだから。父を憎み抜いた、父の双子の弟の側に。
「エミリア。……両親に、何か言うことはあるか」
いつのまにか、丘の上に王子が立っていた。銀髪が夕陽で赤く染まっている。相変わらず反則みたいな絵面ね。
「ええ、あります」
私は石碑に向かって、深く息を吸った。
「初めまして。あなたたちの娘の身体を借りて生きている、狐田えみりと申します」
王子が息を呑む気配がした。彼にも、まだ話していなかったから。
「私は、この世界の人間じゃありません。別の世界で、テレビ局で働く、平凡な二十三歳でした。ある日死んで、気がついたら、あなたたちの娘の中にいました」
風が吹いて、花が揺れた。
「あなたたちの本当の娘は、八年間、ひとりぼっちで戦って、最後にちゃんと笑って、逝きました。……とても、強い子でした。私は、その子が生きられなかった分の人生を、預かっています」
言葉が、途中で詰まった。
「だから、私は。この身体で笑うたびに、この身体でおいしいご飯を食べるたびに、あの子の分もちゃんと味わおうって、決めました。……勝手に居座ってごめんなさい。でも、大事にします。約束します」
丘の上に、しばらく風の音だけが流れた。
やがて、隣に立った王子が、静かに言った。
「……いつから、俺に言おうと思っていた」
「墓参りが済んだら、と決めていました。信じます?」
「森の夜に会った時から、お前は十二の令嬢の目をしていなかった。腑に落ちた」
「あら、化けの皮が剥がれてましたのね」
「いいや」
王子はこちらを向いた。
「二人分の人生を背負って、それでも毎日あんなに楽しそうに笑う人間を、俺は他に知らない。……エミリア。いや」
彼は、その名前を、そっと口にした。
「えみり、と言ったな。その名を呼ぶ人間は、この世界にもう一人もいないのか」
心臓が、止まりそうになった。
前世の名前。狐田えみり。もう誰にも呼ばれないと思っていた、平凡なADの名前。
死んだ日から、ずっと、心のどこかで寂しかったのだと、この時初めて気がついた。
「……ええ。誰も」
「では、俺が呼ぶ」
王子は、まるで宝物の名を扱うように、丁寧に言った。
「えみり。この世界へようこそ。よく来た」
私は、その場にしゃがみ込んで、両手で顔を覆った。
異世界に来て、初めて。
エミリアとしてではなく、えみりとして、泣いた。
日が完全に沈むまで、彼は何も言わずに隣にいた。
やっと涙が止まった頃、私は洟をすすりながら、精一杯憎まれ口を叩いた。
「……殿下。私、今すごくひどい顔ですわよ。天使が台無し」
「知っている。見ていた」
「見ないでくださいます?!」
「無理だな」
彼はしゃがんで、私と目線を合わせた。金色の目の中に、丘の下の街の灯りが揺れている。
「顔で選ばれ続けた俺が、初めて顔じゃない部分で人を好きになった。今さらお前の泣き顔ごときで、目を逸らせるものか」
——待って。
今、この人、なんて言った?
「で、殿下、それは、その、告白的な」
「十二の子供に告白などしない。品位を疑われる」
しれっと立ち上がる王子。私は口をぱくぱくさせた。
「では今のは何ですの!!」
「予告だ」
彼は肩越しに振り返って、あの、獲物を見つけた狼の顔で笑った。
「四年後、お前が十六になったら、正式に申し込む。それまでに俺を好きにさせるつもりでいるから、覚悟しておけ」
……この王子、絶対に、私のことを翻弄する側だと思ってるわね?
冗談じゃないわ。
こっちは前世で、我の強い演者を何人も転がしてきたベテランADなのよ。
「殿下。ひとつ訂正を」
私は立ち上がって、泥だらけのドレスの裾を優雅につまみ、完璧な淑女の礼をした。それから顔を上げて、とびきりの天使の微笑みを浮かべる。
「翻弄されるのは、あなたのほうですわ」




