【第48話】人形の最後の願い
呪契約の解除は、王宮の魔術師長が屋敷の地下室で執り行った。
八年間、私が——本物のエミリアが、繰り返し引きずり込まれた部屋。
想像していたよりも、ずっと、何もない部屋だった。
血の跡はない。折れた鞭も、焼けた鉄もない。呪契約は外傷を残さない。この部屋で流れた血は、たぶん、一滴もないのだ。
あるのは、壁に据えられた台座の窪みと——その正面の壁に、爪の先で刻まれた、数えきれないほどの短い線だけだった。
五本ずつ、束にして。
日を、数えていたのだ。窓のない部屋で、外に出られる日を待つためでもなく、ただ、自分がまだ自分であることを確かめるために。
マリーがその壁に触れて、声を上げて泣いた。
私は、泣かなかった。まだ、泣くわけにはいかなかった。
「エミリア嬢。……ひとつ、申し上げにくいことが。契約の解除には、契約者の血が必要になります。ミラー伯爵は……ご覧のとおりですので」
魔術師長が言葉を濁す。
答えたのは、壁際に立っていた銀髪の王子だった。
「叔父上が手配済みだ。塔に収監する際、王弟府の医師に一滴だけ採らせてある。罪人の血は、証拠品と同じ扱いになる。——本人の同意は、要らん」
「……用意がよろしいこと」
「お前の企画書に、そう書いてあった。『解除には契約者の血が要る可能性あり。要・事前確保』とな」
書いたわ。書いたけれども。
企画書を最後まで読んで、勝手に段取りまで済ませておく人が、この世界にいるとは思わなかったのよ。
伯爵は今、王都の塔に収監されている。八年分の"返還"を受けた彼は、もう自力では立てない。奪った魔力はすべて流れ出し、与えた痛みはすべて彼のものになった。裁判の日まで生きられるかは、王宮の医師にもわからないという。
夫人は生家に返され、爵位と領地は王家の管理下に入った。クリスは、学院を自ら去った。停学も、奉仕百時間も、公開謝罪も、秋のうちにすべて終えている。それでも彼女は退学願を出し、修道院付属の学校へ移ることを選んだ。
出発の朝、クリスは私に一度だけ頭を下げた。
「……ずっと、あなたが妬ましかったのです」
顔を上げた彼女は、もう泣いていなかった。ただ、言いにくいことを言うために、唇が白くなるほど力を入れていた。
「地下の声を聞かなかったことにして、扉を閉めて、それから、わたくしはあなたを憎むことに決めました。憎むための理由が、いくらでも欲しかった。だから、あなたの顔を妬みました。あなたが階段から落ちればいいと思いました。あなたの悪い噂を、社交界にばらまきました」
「クリス」
「わたくしは、あなたが可哀想な人だと知っていて、それでも妬ましかったのです。地下へ引きずられていく人を妬むなんて、どうかしているでしょう。……でも、そうしないと、扉を閉めた自分を、正しいことにできなかった」
彼女は、そこで一度、深く息を吸った。
「ごめんなさい。あなたの美しさを妬んだことも、あなたを憎むと決めたことも、扉を閉めたことも。……許してほしいとは、言いません」
私は、しばらく何も言えなかった。
八年間、この子もまた、憎むという仕事を自分に課して生きてきたのだ。憎まなければ、自分が扉を閉めた子供のままだと認めなければならなくなるから。
「クリス。ひとつだけ、聞いてもいい?」
「はい」
「私の顔なんて、そんなにいいものかしら」
クリスは、面食らったように目を丸くした。
「……なにを、今さら」
「本気で言ってるの。私、この顔でずいぶん損をしたわ。この顔のせいで呪われたし、この顔のせいで屋敷に閉じ込められた。あなたが欲しがるほど、いいものじゃないのよ」
私は、ほんの少しだけ笑ってみせた。
「妬むなら、もっといいところを妬んで。私、演習で十二本も旗を獲ったのよ。そっちのほうが、ずっと自慢なんだから」
クリスの目から、ぼろりと涙がこぼれた。
「……ずるい。そういうところが、いちばん妬ましい」
「あら、光栄ですわ」
「エミリア様」
彼女が私をそう呼んだのは、あの焼却炉の夜以来、二度目だった。
一度目は、背中に投げつけるような声だった。今度は、まっすぐ、正面から。
「わたくし、もう二度と、誰かの声に扉を閉めません」
「ええ。それだけで、十分よ」
クリスは深く一礼して、馬車に乗った。
ざまあ、と胸の中で言ってみた。あんまり甘い味はしなかった。前世で見たドラマの断罪シーンは、もっとスカッとしていたはずなのにね。
馬車の音が遠ざかると、地下から魔術師長が私を呼ぶ声がした。
「準備が整いました。エミリア嬢、術式の中央へ」
魔法陣の中に立つ。ロブ王子が心配そうにこちらを見ているのを、大丈夫よ、と手を振って制した。
魔術師長が詠唱を始めると、私の胸の奥から、鎖のようなものがずるりと引き抜かれる感覚があった。八年間、この身体を縛っていたもの。
痛みはなかった。ただ、とても、静かだった。
そして——引き抜かれた鎖の跡に、何かが残った。
私の中に、私ではない記憶が流れ込んできた。
暗い地下室。冷たい床。「伯爵様。私が、何をしましたか」と問いかけて、答えの代わりに焼けた痛みだけが返ってきた無数の夜。窓のない部屋から見えない空を想像した昼。笑い方を忘れていく過程。感情を、ひとつずつ、痛くないところにしまい込んで、最後に人形になった女の子。
そして、王城での儀式の日。
魔術師たちに囲まれて、"抑制"の術を受ける直前。少女は、生まれて初めて、自分の意思でにっこりと笑って言ったのだ。
『痛いのは一瞬にしてくださいね。私、痛いのだけは長引くと嫌なんです』
——ああ。
あの言葉は、私が言ったんじゃなかった。
あれは、彼女が最後に振り絞った、たったひとつの反抗だったのだ。八年間、長く長く引き延ばされた痛みへの、精一杯の。
『……だれ?』
声が聞こえた気がした。
『あなた、だれ? わたしの中に、ずっといた人?』
「私は、狐田えみり。遠いところから来たの。……ごめんね。あなたの身体を、勝手に借りてしまって」
『こわかった』
「うん」
『でも、あなたが来てから、あの水晶、ぜんぜん痛くなかった』
私は、魔法陣の真ん中で、みっともなく泣いた。
『ねえ。あなた、たのしそうに生きてるね。ごはんがおいしくて、お友達がいて、へんな作戦を考えて笑ってる。……わたし、あなたがそうしてるのを、ずっと見てたよ』
「……そう」
『わたしの願いを、ひとつだけ聞いてくれる?』
「なんでも言って」
少女は、少しだけ照れたように言った。
『いつか、お父様とお母様のお墓に、行ってくれる? わたし、一度も行かせてもらえなかったの。「行きたいなら、この紙に名前を書きなさい」って、あの人に言われて……やっと字を覚えたばかりの手で、いっしょうけんめい、書いたのに』
——それが、呪契約の契約書だった。
四歳の女の子が、両親の墓に行きたい一心で、覚えたての文字で書いた名前。
それが、八年間の地獄の入り口だった。
私は、声にならない声で答えた。
「行くわ。絶対に行く。あなたの分まで、ちゃんと生きて、いっぱい花を持って行く」
『ありがとう』
その声は、笑っていた。
『じゃあ、この身体、あなたにあげる。……大事にしてね。けっこう、いい顔でしょ』
「ええ。とんでもない美人よ」
『ふふ』
光が、消えた。
魔法陣の上で泣き崩れている私に、ロブ王子が駆け寄ってきた。何も言わずに、上着を私の肩にかけて、私が泣き止むまで、ただそこにいた。
やがて私は顔を上げて、涙だらけの顔で言った。
「殿下。……お願いがあります」
「聞こう」
「フォックス伯爵領を、私に管理させてください。あの土地には、あの子の八年分が眠っています。私は、それを全部、ちゃんと返したい」
十二歳の伯爵令嬢の申し出は、普通なら一笑に付されるものだ。
でも王子は、笑わなかった。
「エミリア・フォックス。お前は、この国で最も面白い女だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「そのつもりだ」
彼は私の手を取って、恭しく甲に口づけを落とした。
「王家の名において、その申し出を支持しよう。……ただしひとつ条件がある」
「なんでしょう」
「これから先、お前が何かを企むときは、必ず俺を数に入れろ。手紙が来ないのは、二度とごめんだ」
……この王子、根に持つタイプだったのね。




