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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第47話】最後の晩餐

一年ぶりに帰った屋敷は、記憶よりずっと薄暗かった。


魔力灯の輝きが落ちている。廊下の絵画が二枚、売られたのか消えている。使用人の数も減っている。焦げた匂いのする屋敷だわ、と私は思った。


ダイニングでは、あの日と同じ席順で三人が待っていた。


上座にミラー伯爵。頬がこけて、目の下に濃い隈。手が、テーブルの下で震えているのを私は見逃さない。その隣に魔女みたいな夫人。


そして、クリス。


春の休みで、帰省していたのだろう。この屋敷で彼女と食卓を囲むのは、八年間で数え切れないほどあったけれど——顔を上げた彼女を見るのは、初めてのような気がした。


彼女は、私が席につくと、まっすぐに顔を上げて私を見た。


あの審問会のあと、焼却炉の前で泣いていた夜以来、初めてだ。この子が、逸らさずに私を見たのは。


怯えているのでも、憎んでいるのでもない目だった。


何かを言おうとして、言えずに、それでも目だけは逸らさない——そういう目だ。


焼却炉の前で「わたくし、明日、自首いたします」と言った時の顔に、少しだけ似ていた。


「久しいな、エミリア。学院での活躍は聞いている」


「ご心配をおかけしました、伯爵様」


私は微笑んで、席についた。目の前には、あの日と同じ料理。今日は、匂いでわかる。ちゃんと普通の料理だわ。激辛も激甘もない。毒も入っていない。


なぜなら伯爵の目的は、今夜、私を殺すことじゃない。


私を、もう一度人形に戻すことだから。


「エミリア。喉が渇いているだろう。長旅だったな」


伯爵が自ら、水差しから杯に注いで、私の前に置いた。


八年間、この人が私に何かを注いでくれたことなんて、一度もなかったくせに。


杯の中身は、ほんのわずかに、青みがかっていた。


——ブライアン様の言った通りね。


私は両手で杯を持ち上げて、感謝の言葉を述べて、口をつけた。


三人が、じっと私を見ている。あの日、まずい料理を出した時と、まったく同じ目で。


冷たい液体を口に含む。喉を鳴らして飲む音だけを、丁寧に立てる。空になった杯を置く。


そして、テーブルの下で、袖に仕込んだ吸い取り布に、口の中のものを静かに移した。


前世の私は、女優にはなれなかった。でも、女優が飲みたくない酒をどうやり過ごすかは、現場で嫌というほど見てきたのよ。


「……ありがとうございます、伯爵様。おいしゅうございました」


私は、ゆっくりと目の焦点をぼやけさせた。まばたきの回数を減らす。声から抑揚を抜く。背筋を、少しだけ、糸が切れた人形みたいに丸める。


八年間、この人が見てきた「エミリア」を、私は知っている。


一度も笑わず、一度も逆らわず、名前を呼ばれてから三秒遅れて顔を上げる、そういう娘だったはずだ。


「……伯爵様の、おっしゃる、とおりに」


伯爵の口元が、満足そうに緩んだ。


夫人が安堵の息を吐き、クリスが、なぜか泣きそうな顔をして目を伏せた。


「そうだ。それでいい。それが、お前だ」


——ええ。よく見ておいてくださいね、伯爵様。


これが、あなたが八年かけて作った顔です。


あなたが、たった今、自分の手で薬を注いでまで取り戻そうとした顔です。


その時、玄関のほうから鐘の音がした。


執事が青い顔で駆け込んでくる。


「だ、旦那様。王弟府の監査官様が、二名、ご到着でございます。予定より、一日早く……」


——ええ。一日早く。


企画書の、二番と三番ですわ。


伯爵の顔から、血の気が引いた。


「なんだと。聞いていないぞ、応接間に通せ。私はすぐ行く」


「それが、監査官様は『先に屋敷の使用人から順に聴取したい』と仰せで、すでに厨房のほうへ……」


伯爵が立ち上がった。椅子が倒れた。


一日早い。だが、間に合った。伯爵の顔には、はっきりとそう書いてあった。


だって目の前には、薬の効いた、従順な人形が座っているのだから。


伯爵は膝を折って、私と目線を合わせ、噛んで含めるようにゆっくりと言った。四歳の子供に呪契約の紙を差し出した時も、きっとこんな声だったのだろう。


「いいか、エミリア。よく聞け。監査官が来たら、お前はこう答えるんだ。——『伯爵様には、実の娘同然に良くしていただきました』。地下室のことは、何も覚えていない。魔力のことも、痛みのことも、何ひとつ知らない。わかったな」


「……はい、伯爵様」


「もう一度言ってみろ」


「……伯爵様には、実の娘同然に、良くしていただきました」


「そうだ。そうだ、それでいい」


伯爵は笑った。八年ぶりに、心の底から安堵した顔で笑った。


そして、扉が開いた。


監査官が二人、静かにダイニングへ入ってくる。


——そして、その後ろに、書記の外套をまとった少年が一人。


帽子を目深にかぶって、帳面を抱えて、いかにも「名簿の末席の、名前のない書記」という顔で立っている。


金色の目だけが、まっすぐ私を見ていた。


伯爵は、その少年を一瞥もしなかった。


そうよね。この人は、着ているものと肩書きしか見ない人だもの。八年間、ずっとそうだった。


伯爵は満面の笑みで振り返り、私の腕を取ろうと手を伸ばした。この従順な人形を、証拠として差し出すために。


「監査官殿、ご覧ください。エミリアは、この通り——」


私は、すっと立ち上がった。


背筋を伸ばし、抑揚を取り戻した声で、はっきりと言った。


「監査官様。私は、ミラー・フォックス伯爵を告発します」


伯爵の笑みが、凍りついた。


「……なに、を」


「たった今、私はこの人に、思考を奪う薬を飲まされそうになりました。杯はそこに。中身は、私の袖の布にすべて残しております。——闇市で『人形薬』と呼ばれるものだそうですね。買い付けの記録も、こちらに」


監査官の一人が、無言で杯を検分し、もう一人が帳面を開いた。


書記の少年も、帳面を開いた。羽根ペンが、一言も聞き漏らすまいと走り始める。


——特等席で見物したい、でしたわね、殿下。


しっかり記録してくださいまし。


伯爵が私の腕を掴もうとして——その手が、途中で止まった。


伯爵の顔が、苦痛に歪む。指先から手首、腕、肩へと、見えない炎が這い上がるように。


「ぐ……あ、なんだ、これは、なぜ、触れてもいないのに」


私は、伸ばされたまま宙で震えるその手を見つめて、静かに言った。


「"返還"、というそうです」


伯爵が、私を見た。


「侵した分の苦痛と力が、そのまま返る。……私を私欲のために利用しようとした瞬間に、発動する術ですって。二百年前の、フォックス家と王家の契約書に書いてありました。伯爵様は、契約の中身をご存じないままだったんですね」


「な……なぜ、お前がそれを」


「王宮の書庫で、読んできましたので」


伯爵は膝をついた。夫人が悲鳴を上げる。クリスが立ち上がって、父と私を交互に見た。


「伯爵様。八年前、あなたは私を騙して呪契約を結ばせ、魔力を奪い、痛みを与え続けた。その八年分が、今、あなたに返っています。ひとつ残らず。利子もつけずに、正確に」


「や、やめろ、止めろ、止め方を知っているんだろう、エミリア、頼む、私は、お前を育ててやったんだぞ!!」


「ええ。だから今、あなたはまだ生きているんです」


私は膝をついた伯爵を、静かに見下ろした。


「殺すつもりはありません。あなたの罪は、あなたが生きて、公の場で全部話して、それから法が裁くものです」


その時、ダイニングの扉が、もう一度開いた。


入ってきたのは、マリーと、屋敷の使用人たち。二十人。


先頭に立っていたのは、あの日、水晶で拷問されたメイドだった。彼女は震えていたけれど、まっすぐに監査官を見て、口を開いた。


「申し上げます。私は、この屋敷で見たことを、全部お話しします」


一人が話し始めると、次が続いた。次が続くと、また次が続いた。


八年間、誰にも言えなかった言葉が、堰を切ったようにダイニングを満たしていった。


伯爵は床にうずくまったまま、その声を、全部聞いていた。


そして最後に、震える声で立ち上がった人がいた。


クリスだった。


「……わたくしも、証言します」


夫人が叫んだ。「おだまり!!」


でもクリスは、母を見なかった。彼女は私を見て、それから、床の父を見て、ぼろぼろと泣きながら言った。


「わたくしは、八歳の時に、地下からエミリアの声を聞きました。お父様が、エミリアを……。わたくしは、怖くて、扉を閉めて、聞かなかったことにしました。それから、エミリアを憎むことにしたんです。そうしないと……そうしないと、わたくしが、悪い子になってしまうから」


私は、何も言えなかった。


八歳。


私がこの屋敷で目を覚ました時、この子はもう、私を憎むことに決めた顔をしていた。


意地の悪い従姉妹。私の食事に悪戯をして、メイドに水をかけて、社交界に悪い噂を流した人。私はこの子のことを、そういう人だと思って、それ以上は何も考えなかった。


考えようとしなかった、が正しいのだと思う。


閉じた扉の向こうから、助けを呼ぶ声が聞こえてくる。開ければ、父が何をしているかを知ってしまう。開けなければ、知らないままでいられる。


八歳の子供が、扉の前で、どれだけの時間そこに立っていたのか。


私には、わからない。


わからないけれど——扉を閉めたあの日から、この子もまた、この屋敷で息を殺して生きてきたのだということだけは、わかってしまった。

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