【第45話】王宮書庫、二百年前の契約書
王宮の書庫は、地下三階まで続いていた。
魔力灯に照らされた棚の谷間を、閲覧許可証を持った書記官のあとについて歩く。私の隣には、当然のような顔をした銀髪の王子。学院の制服姿でも、この場所だとやたら様になるのが腹立たしいわね。
「殿下、本当に大丈夫なんですの?私、一伯爵令嬢ですけど」
「契約の当事者だ。むしろ当事者に見せないほうがおかしい。……そう叔父上を説得するのに、半年以上かかった」
半年以上。
判子ひとつに三ヶ月かかる世界だとは聞いていたけれど、この人、去年の夏からずっと、私の見ていないところで頭を下げ続けていたのね。
「ありがとうございます、殿下」
「ロブでいい」
「では殿下、こちらの棚ですね」
「聞け」
書記官が羊皮紙の束を運んできた。二百年前の、フォックス家と王家の契約書。インクは褪せ、紙の縁は焦げ茶色に変色している。
私は前世で、何百枚もの契約書に判を押してきた社畜よ。読み込みの速さには自信がある。
——そして、三枚目で息が止まった。
契約書には、こう書かれていた。
『フォックス家の直系に生まれし女児には、いにしえの森の民の加護がしばしば宿る。
加護を宿す娘は、人の理性を奪う美と、人を惹きつける力を持つ。
これを野に放てば、国が乱れる。これを縛れば、娘が壊れる。
ゆえに王家は、十二の歳に、二重の術をもってこれを預かるものとする。
第一の術、"抑制"。娘の内に加護を封ずるものとする。
第二の術、"返還"。何人たりとも、この者を私欲のために利用することを得ず。
これを侵す者には、侵した分の苦痛と力とが、そのまま返るものとする』
「加護……?」
私が呟くと、書記官が恭しく頭を下げた。
「フォックス家の美しさは、人の血のものではございません。遥か昔、ご先祖が森の民——妖精と呼ばれる者たちから受けた加護でございます。直系の女児にのみ、高い確率で現れる」
だから、男であるミラー伯爵には現れなかった。だから、彼はあれほど平凡だった。
そして、だから、この顔は「美しい」ではなく「人ならざる」なのだ。鏡を見るたびに感じていた薄気味悪さの正体が、ようやくわかった。
私は、自分の白すぎる手を見下ろした。
「では……過去に三度、戦争のきっかけになったというのは」
「ご先祖様方が、望んでそうなさったわけではございません」
書記官は、言葉を選ぶように言った。
「……ただ、そこにいらしただけです。加護を封じられる前の美姫を一目見た男たちが、勝手に狂い、勝手に争った。記録には『美姫が国を乱した』とだけ残っております」
私の中で、何かが冷たく音を立てた。
そういうこと。何もしていない女の子が、生まれつき持たされた力のせいで「国を乱す者」と呼ばれて、十二歳で王城に呼び出されて、術をかけられる。
そして誰も、その術が娘に何をするのかを、記録に残さなかった。
「……返還」
隣で、ロブ王子が低く呟いた。
「侵した分の苦痛と力が、そのまま返る。……エミリア、これはつまり」
「私を痛めつけた者には、その痛みがそっくり返る。私から奪ったものは、奪った者から流れ出す」
指先が冷たくなっていた。
伯爵は八年間、私に——いいえ、本物のエミリアに、呪契約で拷問のような痛みを与え続け、魔力を吸い上げ続けた。
それが今、全部、あの人自身に返り始めている。
私が城で呪いを受けた、あの日から。
「ですが、殿下。ひとつ辻褄が合いません」
私は羊皮紙の端を指でなぞった。
「この術は十二歳でかけられます。それ以前に受けた被害は?」
書記官が咳払いして、補足した。
「……"返還"は、施術の瞬間に遡って、それまでの負債をすべて計上いたします。過去八年、十年、何十年であろうと、記録は術式に刻まれております」
八年分。
八年分の痛みと、八年分の魔力が、いま、あの屋敷の水晶を通じて、逆流している。
私の背中を、ぞっと冷たいものが走った。これは正義の鉄槌なんて綺麗なものじゃない。もっと機械的で、もっと容赦のない、精算処理だ。
そして同時に、私は理解してしまった。
本物のエミリアが、なぜ死んだのかを。
「殿下。——最後にもうひとつだけ教えてください。第一の術、"抑制"」
私は、契約書の一行を指でなぞった。
『これを野に放てば、国が乱れる。これを縛れば、娘が壊れる』
「壊れる、と書いてあります。この術を受ける時、私たちの身に何が起きるのですか」
書記官が、初めて目を伏せた。
答えたのは、ロブ王子だった。声が、低かった。
「……儀式に立ち会う王族には、事前に説明がある。俺も一度だけ、聞かされた」
「教えてください」
「加護は、外へ出ようとする力だ。抑制の術は、それを娘の内側に押し込める。……押し込められた力は、消えるわけじゃない。行き場を失って、宿主の内側を、内から削り続ける」
「削る……何を?」
「心を」
書庫の空気が、急に薄くなった気がした。
「魔力の量でもない。身体の頑健さでもない。ただ、心の強さだけが、あの術に耐える唯一の手段だ。折れた者から順に死ぬ。歴代の美姫のうち二名は、儀式の最中に心の臓が止まった。生き延びた者も——」
彼はそこで、言葉を切った。
「……多くは、長く生きていない」
「王家は、それを知っていて」
「知っていて、二百年続けてきた。記録には残していない。残せば、誰も娘を差し出さなくなるからだ」
私は、両手で羊皮紙の端を握りしめた。
——ああ。
そういうこと。
八年間、あの屋敷で痛めつけられ、笑い方を忘れ、感情をひとつずつ痛くないところにしまい込んで、最後に人形になるしかなかった女の子。
その子が十二歳の誕生日に受けたのは、心の強さだけを頼りに耐えなければならない術だった。
耐えるだけの心なんて、彼女にはもう、一片も残っていなかったのに。
——伯爵が、殺したんだ。
儀式の日にではない。八年かけて、ゆっくりと、少しずつ。
そして心臓が止まったその隙間に、死んだばかりの日本人が滑り込んだ。
理不尽に怒鳴られ、徹夜明けに現場へ立ち、それでも翌朝また出勤していた、しぶといのだけが取り柄の、二十三歳の社畜が。
魔力でも、血統でもなかったのだ。
この呪いを受け止めるのに要ったのは、ただ、折れない心という、それだけのものだった。
私は、羊皮紙を持つ手が震えるのを止められなかった。
私が生きているということは、この身体の本当の持ち主が、あの日、確かに一度死んだということだ。
八年間、誰にも助けてもらえないまま、人形になることでしか生き延びられなかった女の子が。
「エミリア?」
「……なんでもありませんわ。少し、埃っぽくて」
嘘。目が熱いのは、埃のせいじゃない。
この八年間を、私は知らない。
痛みの記憶も、あの屋敷の冷たさも、助けを呼んで誰も来なかった夜も、私のものじゃない。私はある朝、全部が終わったあとの身体に、のうのうと入ってきただけの人間だ。
だからこそ、私には言う資格がある。
代わりに怒ってあげられる人間が、この世界にたった一人しかいないのなら、それは私だ。
「殿下。ひとつ、お願いがあります」
「言え」
「この契約書の写しを、いただけませんか。……"返還"の術のことも、"抑制"の負担のことも、全部書いてある写しを」
「何に使う」
「証拠にします」
私は羊皮紙から顔を上げた。
「伯爵は八年間、屋敷の外に一枚も証拠を残しませんでした。呪契約は傷を残さない。だからあの人は、今も安心しているはずです。——なら、この国で一番古い羊皮紙に、あの人の罪を書かせましょう」
ロブ王子は、しばらく黙って私を見ていた。それから、目を細めた。あの夜、焚き火越しに見た時と同じ目で。
「エミリア・フォックス。お前、今どんな顔をしているか自分でわかっているか」
「天使みたいな顔でしょう?」
「いいや」
王子は、書庫の薄暗がりで小さく笑った。
「獲物を仕留めに行く狐の顔だ」




