【第44話】ミラー伯爵は眠れない
ミラー伯爵は、もう何ヶ月も、まともに眠れていなかった。
書斎の窓を、春の雨が叩いている。
一年。あの娘が学院の門をくぐってから、季節がひと巡りした。たった一年で、私の何もかもが傾いた。
原因のひとつは、水晶だ。
最初の異変は、あの娘が王城で呪いを受けて、数日後の夜だった。呪契約の水晶に触れた指先に、ちりっと、針で刺したような痛みが走った。あの時は、気のせいだと思うことにした。
気のせいでは、なかった。
夏には、痛みは手首まで這い上がっていた。秋には、詠唱を終えるころに腕が痺れて、羽根ペンが持てなくなった。冬には、水晶に触れるだけで肘まで焼けた。
そして昨夜。詠唱を始めた途端、肩から背へ、焼けた鉄を押し当てられるような激痛が走り、私はとうとう書斎の絨毯に膝をついた。
私が受ける痛みではない。あの人形に与えるはずの痛みだ。
なぜ、術者の私に返ってくる。
原因のふたつ目は、金庫だ。
エミリアから八年かけて搾取し、貯蔵水晶に蓄えてきた魔力。あれを切り売りすることで、伯爵領の魔道具も、街道の魔力灯も、私の社交界での地位も維持されてきた。
その貯蔵水晶が、この一年、一度も満ちていない。
補充が、止まっているのだ。あの娘が城で呪いを受けた日から、呪契約を通して流れ込んでいた魔力が、一滴も入ってこない。
一年、蓄えを食いつぶすだけの一年だった。
先月、とうとう領境の街道で、魔力灯が二十基まとめて落ちた。夜盗が出た。領民の陳情書が机の上に積まれている。魔力税はもう二倍に上げてある。これ以上は上げられない。
「王家の呪いが、私の契約を上書きしただと……?」
原因の三つ目は、娘だ。
秋、学院からクリスの不祥事の報せが届いた。教官室から答案用紙を盗み、シリル侯爵家の嫡男の答案が細工される片棒を担いだ。停学一ヶ月。奉仕活動百時間。そして——講堂での、公開謝罪。
公開謝罪。
学院中の生徒と教官の前で、ミラーの名を名乗る娘が、頭を下げたのだ。
その報せが届いた週、私は三つの夜会の招待を失った。理由は誰も書いてこない。ただ、招待状が来なくなるだけだ。
そして、わからんのはそこではない。
「……あの娘は、なぜハーグレイヴ家の令嬢などと関わったのだ」
クリスが名を伏せ通した「頼んだ相手」が誰であったか、その程度のことは、金を使えば伝わってくる。ヴィオラ・ハーグレイヴ。王妃陛下の遠縁。
——手が出せん。
うちの娘が使い捨てられ、うちの家名が泥をかぶり、そして私は、相手の名を口にすることすらできない。
さらに悪いことがある。
クリスからの手紙が、来なくなった。
以前は、週に二度は届いていた。涙とインクの染みだらけの、恨みつらみと泣き言と、金の無心。役に立たん娘だと舌打ちしながら、それでも私は、あの手紙で学院の様子を知っていた。
それが、秋を境に、ぱたりと止んだ。
謝罪の詫び状すら、一通も来ない。
冬の舞踏会がどうであったのかも、私は噂でしか知らん。
代わりに私の耳に入ってくるのは、あの人形の話ばかりだ。入学早々の演習で学院史上最多の記録を打ち立てて優勝した。秋の学院祭では演劇の演出を任され、名家の子息どもを舞台に上げた。F4だの何だのと呼ばれる連中を侍らせ、あろうことか第二王子までが公然と目をかけているという。
「目立つな」と、八年間、言い聞かせてきたはずだ。
——沈黙している娘と、輝いている人形。
どちらも、私の手から抜け落ちていく。
そして原因の四つ目が、今朝、王城から届いた一通の書状だった。
『フォックス家の守護契約に関する定期照会の件。近日、王弟府の監査官を伯爵邸に遣わす。エミリア・フォックス嬢の養育状況につき、聴取を行う』
伯爵は書状を握りつぶした。
守護契約。儀式の日、王弟は確かに言っていた。「エミリアを利用しようとした者には罰が下される」と。
まさか。この水晶の痛みは。魔力の枯渇は。
まさか、まさか、まさか。
「……落ち着け。証拠は何もない。呪契約は外傷を残さん。あの娘は八年間、誰にも訴えなかった。屋敷の使用人は皆、私の息がかかっている」
いや——皆、ではない。
一人いる。あの娘の乳母の娘。別館に置いた、あの赤毛のメイド。
それに監査官が来て、あの娘自身が口を開けば。
伯爵は、震える手で便箋を取った。ペン先が二度折れた。
『エミリアへ。学院生活はどうか。近く、王都での用向きのついでに、お前と久しぶりに食事でもと思う。当家の恥にならぬよう、くれぐれも口のきき方には気をつけるように。——ミラー』
文面は穏やかに。まずは呼び出して、監査の前に、あの生意気になった人形をもう一度「躾け」直す。
自白剤では駄目だ。あれは口を割らせる薬で、監査官の前で使えば、かえって余計なことまで喋りだす。
必要なのは、逆の薬だ。
書斎の隠し棚には、闇市で手に入れた「静穏の水薬」がまだ半分残っている。裏では『人形薬』と呼ばれている代物だ。飲ませれば思考が霞み、自分で物を考える力が抜け落ち、目の前の人間の言葉にただ頷くだけの従順な器になる。効き目は数日。痕跡も残らない。
八年かけて作り上げたあの無表情を、薬で取り戻すのは癪だが、背に腹は代えられん。
監査官の前で、エミリアが虚ろな目で「伯爵様には良くしていただいております」と微笑めば、それで終わりだ。
投函を執事に命じたあと、伯爵はふと、机の上の家族の肖像画に目をやった。
双子の兄、ランスロット。憎んで、憎んで、憎み抜いた顔。
その兄の顔が——なぜか今夜は、笑っているように見えた。
***
数日後、学院の寮に一通の手紙が届いた。
「マリー、見て。伯爵様がお食事のお誘いですって。『久しぶりに』『穏やかに』『食事でも』……ふふ、ふふふ」
「お、お嬢様?笑い方が完全に悪役のそれになってますが……」
「だってこれ、書いた人が焦ってるのが丸わかりなんだもの。八年間ろくに口もきかなかった人が、丸一年こちらを放っておいた人が、急に『久しぶりに』『食事でも』ですって? こういう手紙はね、書いてある中身より、なぜ今それを書いたのかを読むものなのよ」
一年。
私がこの学院で、演習を戦って、友達ができて、テストを受けて、事件を解いて、舞台をつくって、踊って——笑っていた一年。
同じ一年を、あの人は、水晶に焼かれながら数えていたわけね。
さて。あちらが「躾け」の準備をしているなら、こちらは何を仕込みましょうか。
私は羊皮紙のノートの新しいページに、大きくタイトルを書いた。
『ざまあ大作戦・企画書(第一稿)』




