【第38話】温室の噓
朝、目を覚ましてすぐ、私は天井を見上げて、現状を確認した。
ドレスなし。犯人不明。舞踏会まで、あと十数時間。
……香盤表が白紙になった朝みたいね、これ。
「お嬢様。起きてらっしゃいますか」
マリーの声が、扉の向こうからした。もう、報告を持っている声だった。
***
「昨夜、寮の裏口に、見慣れない下働きの姿があったそうです」
マリーが、手帳を見ながら言った。
「守衛は、顔を覚えておりませんでした。ただ——制服の裾に、白い花びらが付いていた、と」
私は、巾着から、あの花びらを取り出した。
「これと、同じ?」
「はい。守衛が言うには、香りが独特だったと。……冬に咲く花で、しかも、あの香りとなると」
マリーの顔が、少し曇った。
「心当たりが、ありますの?」
「学院の温室に、一種類だけ。……上級生が、個人で管理している一角がございます」
***
温室、と聞いて、頭の奥で、何かが繋がった。
——三年生。温室で、白い花を育てている。
去年、いいえ、この学年に入ってから、一度だけ耳にした噂。
「マリー。その温室、誰の管理か、わかる?」
マリーは、しばらく黙っていた。それから、小さな声で言った。
「……ヴィオラ・ハーグレイヴ様の、私設の温室です」
***
食堂で、ディーン様とブライアン様に事情を話すと、二人とも、表情を変えた。
「ハーグレイヴって、あの、王妃の親戚の」
「三年生の。……クリスの件のとき、名前が出なかった、あの人ですね」
ブライアン様の声が、低くなった。
「私は、あの事件の裏に、もう一人いると、ずっと思っていました。証拠がなく、口にしませんでしたが」
「思っていたなら、早く言ってくださいまし!!」
「証拠のない話を口にするのは、悪癖です。……あなたに、そう教わった気がしますが」
……返す言葉が、ない。
***
温室へは、アッシュ様が一緒に来た。
「巻き込まれた、と言ったろう」
「巻き込んだ覚えは」
「もういい。行くぞ」
彼は、それだけ言って、先に歩き出した。
大きな背中が、朝の霜を踏んで、迷いなく進んでいく。
……この人と組んで、正解だったかもしれない。損得抜きで、そう思った。
***
温室の裏、道具置き場の陰に、一年生らしい少女が座り込んでいた。
制服の裾に、あの白い花びらが、まだ一枚、付いている。
私を見た瞬間、彼女の顔から、血の気が引いた。
「……」
彼女は、何も言わずに、逃げようとした。
アッシュ様が、無言で、道具置き場の入り口に立った。
それだけで、少女は、動けなくなった。
***
「安心なさって」
私は、できるだけ、静かに言った。
「私、あなたを、傷つけには来ておりませんの」
「……信じられません」
少女の声は、震えていた。
「あなたのドレスを、切ったのは、私です。……罰を受けます。お好きに、なさってください」
「その前に、一つだけ、教えてくださる?」
私は、彼女の目の高さに、しゃがみ込んだ。
「あなたに、それを頼んだ人は、初めから『ドレスを切って』とは、言わなかったんじゃありません?」
***
少女の肩が、大きく震えた。
「……なぜ」
「当ててみせますわ」
私は、指を一本、立てた。
「最初に持ちかけられたのは、もっと恐ろしい話でしょう。——例えば、私を、二度と学院に来られなくするような」
少女は、俯いたまま、答えなかった。それが、答えだった。
「そして、あなたが怯んだところで、その方は、こう言ったんじゃなくて? 『冗談ですわ。もっと軽いことで済みますのよ』——って」
***
「……その通りです」
少女は、ついに、崩れ落ちるように座り込んだ。
「三時間も、話を聞いてくださって。……あの方だけが、私の話を、笑わずに聞いてくださって」
ああ。
また、この形。
心が折れた人間の前に現れて、ただ話を聞く。それだけで、人は堕ちる。
前世で、何度も見た手口だった。宗教にも、悪徳商法にも、恋愛詐欺にも、同じ構造があった。優しさが最初の餌で、恐怖が次の一手。そして最後に、恐怖より軽いものを差し出されると、人はそれに縋ってしまう。
——それが、罠だとは、気づかないまま。
***
「舞踏会の相手を、断られたんですのね」
少女が、はっと顔を上げた。
「私、当てずっぽうで言っておりますのよ。……ただ、こういう時に折れる心には、だいたい、理由がありますの」
「……テオドール様に、お断りされました。……あなたのお友達の、アッシュ様と踊ると聞いて、格下だと」
彼女の声が、掠れた。
「私、悔しくて。でも、あなたを恨む筋合いなんて、本当は、なかったんです」
***
「その方の、お名前は」
私は、静かに聞いた。
少女は、長い沈黙のあと、消え入りそうな声で、その名を言った。
——聞くまでもない名前だった。けれど、本人の口から聞くことに、意味があった。
「証言、してくださる?」
「……罰を受けます、私」
「罰は、いりませんわ」
私は、立ち上がった。
「あなたも、道具にされただけ。……道具を罰しても、何も変わりません」
***
「ただし」
私は、彼女を見下ろして、続けた。
「一つだけ、覚えておいてくださいまし」
「……なんでしょう」
「今度、誰かがあなたに、優しく話を聞いてくれたとして。——その人が、あなたに何かを『頼んで』きたら」
私は、微笑んだ。
「一度、寝て、考えることですわ。優しさと、頼み事は、別の箱に入れておかないと」
少女は、涙を拭いながら、小さく頷いた。
***
温室を出ると、アッシュ様が、聞いてきた。
「殴らなくて、いいのか」
「殴っても、ドレスは戻りませんもの」
「……本当のことを言え」
彼は、私の横顔を見ていた。
「腹は、立っているだろう」
「ええ、そりゃあ」
私は、白い花びらを、もう一度、明かりにかざした。
「でも、これで、証言は手に入りましたの。……本人が動かない限り、証拠にはならない。だから、今は、しまっておきますわ」
***
ヴィオラ様は、今日も、姿を見せなかった。
審問会のあとのクリスと同じ。用が済めば、駒には目もくれない人。
——次は、あなたの番ですわね。
私は、心の中で、そう呟いた。声には、出さなかった。今は、まだ。
証言は、切り札だ。切り札は、使う場面を選ぶ。前世で、脚本の最後の一行を先に見せる馬鹿な演出家はいない。
***
寮に戻ると、マリーが、私を待っていた。
「お嬢様。……それで、今夜は」
「決まってますわ」
私は、廊下を歩きながら、袖をまくった。
「寮母のところへ、行きますわよ」
「昨日もいらしたのに?」
「昨日は、お菓子の話でしたの。今日は——」
私は、振り返って、笑った。
昨夜、マリーに言った言葉を、もう一度、繰り返した。
「白い、制服の話ですわ」
窓の外、雪が、少しだけ、強くなっていた。
舞踏会まで、あと数時間。




