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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第37話】切り裂かれたドレス

朝から、学院中が私の話題で持ちきりだった。


『エミリア・フォックス —— アッシュ・ドスラキ』


廊下を歩くだけで、視線が刺さる。ひそひそ声が追いかけてくる。


「怪物と踊る気か……」「正気か、あの令嬢」「いいえ、むしろお似合いよ、二人とも人を殺せる目をしているもの」


言い方!! 最後の人、褒めてるのか貶してるのかはっきりしてくださいまし。


***


食堂では、ディーン様が椅子にふんぞり返って笑っていた。


「怪物と踊るのかよ、お前」


「アッシュ様は怪物じゃありませんわ」


「知ってる。俺が言いたいのはそこじゃねえ」


ディーン様は、にやりと笑った。


「面白ェことになったなって話だ」


隣で、ブライアン様が眼鏡を押し上げる。


「賢明とは言えませんね。あなたの評判に、また一つ傷が増える」


「傷なら、もう数え切れませんもの。今さらですわ」


「……それもそうですね」


ブライアン様は、少しだけ、口の端を上げた。この人がこういう顔をするのは、珍しい。


***


クリスとは、廊下ですれ違った。


一瞬、目が合った。


彼女は、何も言わずに、視線を外して通り過ぎた。


……その背中が、少しだけ、強張っていたように見えたのは、気のせいかしら。


審問会からこっち、私たちの間には、まだ、名前のつかない距離がある。友達でもなく、敵でもない。


その距離を、埋める気は、まだお互いにない。


***


ロブ様には、その日、一度も会わなかった。


いつもなら、廊下の角で、わざと小さな声で「エマ」と呼ぶ人が。


今日は、姿すら見なかった。


……忙しいのかしら。まあ、王子様も色々あるでしょうし。


私は、そう思うことにした。深く考える余裕が、その日はなかったから。


***


夜、寮の自室で、私は衣装箱の蓋を開けた。


明日は、舞踏会。


このドレスは、伯爵家からの被服費が止まったあと、ソフィアの紹介で見つけた、まだ独立したばかりの仕立て屋の娘に頼んだものだった。無名で、格式張った工房を持たない代わりに、腕は確かで、なにより、急な仕事を嫌がらなかった。


亜空間スーツケースの金貨で、代金は前払いした。伯爵家の紋章は、どこにも入れなかった。


——誰の助けも借りずに、私自身で用意した、初めてのドレス。


そう思うと、箱を開ける手が、少しだけ浮ついた。


***


蓋を開けて、私は、動きを止めた。


白い布地が、箱いっぱいに、広がっていた。


いいえ——広がっていたのは、布地の欠片だった。


胸元から裾まで、まっすぐに、幾筋も。レースは、糸一本残さず解かれていた。刺繍の花は、花びらの形のまま、切り取られていた。


「お嬢様……?」


戸口から、マリーの声がした。振り返らなくても、彼女が息を呑んだのがわかった。


***


「……いつ」


私の声は、自分でも驚くほど、平坦だった。


「夕食の前までは、確かにありました。私、鍵は……」


マリーが、震える手で、扉の鍵を確かめる。


「壊れておりません。誰も、こじ開けた形跡が」


「鍵のかかった部屋を、開けずに荒らした、ということ?」


「……そうなります」


私は、切れ端の一つを、そっと持ち上げた。


指先が、切り口に触れる。


——まっすぐだった。定規で引いたみたいに、一寸の乱れもなく。


これは、怒りに任せて刃物を振り回した跡じゃない。


一枚一枚、丁寧に、時間をかけて、切ってある。


***


激情の仕事じゃないわ、これは。


計算された仕事。


腹を立てた誰かが、勢いでやったのなら、こんなに揃わない。これは——玄人の手口。


……この切り口、どこかで。


そう思った瞬間、頭の隅で、小さな警報が鳴った。答えは出てこない。手がかりが足りない。


私は、箱の底に、目を落とした。


白い、小さな花びらが、一枚。


裂かれたレースの間に、紛れ込むように、落ちていた。


こんな花、飾った覚えはない。


……なんの花かしら。私は、それを、そっと指でつまんで、明かりにかざした。答えは、わからなかった。


***


「クリス様、でしょうか」


マリーが、絞り出すように言った。


「あの方なら、動機は」


「マリー」


私は、花びらを、そっと巾着にしまいながら、遮った。


「動機だけで、人を裁いたら、私、審問会で何を言ったのか、わからなくなるわ」


——あなたは紙を運んだだけで、黒幕ではありませんもの。


あの日、自分で言った言葉が、耳の奥で響いた。


証拠もなく、都合のいい犯人に飛びつくのは、いちばん楽で、いちばん愚かなやり方だ。


前世で、そういう現場を、何度も見てきた。犯人らしい人間と、犯人は、たいてい別人だった。


***


扉が、叩かれた。


「エミリア」


低い声。アッシュ様だった。


「話は、もう回っている。……ドレスが、やられたと」


早いこと。噂の伝わる速さだけは、この学院、演出部より優秀だわ。


「ご心配なく。舞踏会は、出席いたしますわ」


「ドレスもなしにか」


「……」


痛いところを、真顔で突いてくる人ね、この人。


「方法は、考えます」


「手伝う」


「アッシュ様に、裁縫は」


「できない。だが、犯人が誰か、腕力で聞き出すことはできる」


「それは犯罪ですわ!!」


***


彼は、少しだけ、目を細めた。


「……冗談だ」


「冗談を言うようになったんですのね、あなた」


「お前が、教えた」


——ああ、もう。


こんな時に、そんな顔をしないでほしい。


「アッシュ様。手伝ってほしいことが、一つだけありますわ」


「言え」


「明日まで、誰にも——私が慌てている姿を、見せないこと」


彼は、しばらく、私を見ていた。


「……お前らしいな」


「褒め言葉として受け取っておきます」


***


一人になって、私は、切れ端の山を、もう一度見下ろした。


悔しくないと言えば、嘘になる。


初めて、自分の力だけで、誰にも頼らずに用意したものだった。伯爵家の紋章も、誰の施しもない、私自身のドレス。


それを、一晩で、こんな風に。


……いいわ。


私は、箱の蓋を、静かに閉じた。


ドレスがなければ、なくても出られる格好を探せばいい。舞台に立つ方法は、衣装だけじゃない。


前世で、香盤表が丸ごと吹っ飛んだ現場を、何度立て直したと思っているの。


「マリー」


「はい」


「明日の朝、寮母に会いに行くわ。もう一度」


マリーが、怪訝な顔をした。


「今度は、なにを」


私は、笑った。


自分でも、少し、悪い顔をしている自覚があった。


「白いお菓子は、もう作ったから。今度は、白い制服を借りますの」


***


窓の外で、雪が、また降り始めていた。


舞踏会まで、あと一日。


誰が、なんのために、これをしたのか。


答えは、まだ、出ていない。


けれど、明日の夜、私は、必ず、あの会場に立つ。


——ドレスなんかなくても。

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