【第37話】切り裂かれたドレス
朝から、学院中が私の話題で持ちきりだった。
『エミリア・フォックス —— アッシュ・ドスラキ』
廊下を歩くだけで、視線が刺さる。ひそひそ声が追いかけてくる。
「怪物と踊る気か……」「正気か、あの令嬢」「いいえ、むしろお似合いよ、二人とも人を殺せる目をしているもの」
言い方!! 最後の人、褒めてるのか貶してるのかはっきりしてくださいまし。
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食堂では、ディーン様が椅子にふんぞり返って笑っていた。
「怪物と踊るのかよ、お前」
「アッシュ様は怪物じゃありませんわ」
「知ってる。俺が言いたいのはそこじゃねえ」
ディーン様は、にやりと笑った。
「面白ェことになったなって話だ」
隣で、ブライアン様が眼鏡を押し上げる。
「賢明とは言えませんね。あなたの評判に、また一つ傷が増える」
「傷なら、もう数え切れませんもの。今さらですわ」
「……それもそうですね」
ブライアン様は、少しだけ、口の端を上げた。この人がこういう顔をするのは、珍しい。
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クリスとは、廊下ですれ違った。
一瞬、目が合った。
彼女は、何も言わずに、視線を外して通り過ぎた。
……その背中が、少しだけ、強張っていたように見えたのは、気のせいかしら。
審問会からこっち、私たちの間には、まだ、名前のつかない距離がある。友達でもなく、敵でもない。
その距離を、埋める気は、まだお互いにない。
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ロブ様には、その日、一度も会わなかった。
いつもなら、廊下の角で、わざと小さな声で「エマ」と呼ぶ人が。
今日は、姿すら見なかった。
……忙しいのかしら。まあ、王子様も色々あるでしょうし。
私は、そう思うことにした。深く考える余裕が、その日はなかったから。
***
夜、寮の自室で、私は衣装箱の蓋を開けた。
明日は、舞踏会。
このドレスは、伯爵家からの被服費が止まったあと、ソフィアの紹介で見つけた、まだ独立したばかりの仕立て屋の娘に頼んだものだった。無名で、格式張った工房を持たない代わりに、腕は確かで、なにより、急な仕事を嫌がらなかった。
亜空間スーツケースの金貨で、代金は前払いした。伯爵家の紋章は、どこにも入れなかった。
——誰の助けも借りずに、私自身で用意した、初めてのドレス。
そう思うと、箱を開ける手が、少しだけ浮ついた。
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蓋を開けて、私は、動きを止めた。
白い布地が、箱いっぱいに、広がっていた。
いいえ——広がっていたのは、布地の欠片だった。
胸元から裾まで、まっすぐに、幾筋も。レースは、糸一本残さず解かれていた。刺繍の花は、花びらの形のまま、切り取られていた。
「お嬢様……?」
戸口から、マリーの声がした。振り返らなくても、彼女が息を呑んだのがわかった。
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「……いつ」
私の声は、自分でも驚くほど、平坦だった。
「夕食の前までは、確かにありました。私、鍵は……」
マリーが、震える手で、扉の鍵を確かめる。
「壊れておりません。誰も、こじ開けた形跡が」
「鍵のかかった部屋を、開けずに荒らした、ということ?」
「……そうなります」
私は、切れ端の一つを、そっと持ち上げた。
指先が、切り口に触れる。
——まっすぐだった。定規で引いたみたいに、一寸の乱れもなく。
これは、怒りに任せて刃物を振り回した跡じゃない。
一枚一枚、丁寧に、時間をかけて、切ってある。
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激情の仕事じゃないわ、これは。
計算された仕事。
腹を立てた誰かが、勢いでやったのなら、こんなに揃わない。これは——玄人の手口。
……この切り口、どこかで。
そう思った瞬間、頭の隅で、小さな警報が鳴った。答えは出てこない。手がかりが足りない。
私は、箱の底に、目を落とした。
白い、小さな花びらが、一枚。
裂かれたレースの間に、紛れ込むように、落ちていた。
こんな花、飾った覚えはない。
……なんの花かしら。私は、それを、そっと指でつまんで、明かりにかざした。答えは、わからなかった。
***
「クリス様、でしょうか」
マリーが、絞り出すように言った。
「あの方なら、動機は」
「マリー」
私は、花びらを、そっと巾着にしまいながら、遮った。
「動機だけで、人を裁いたら、私、審問会で何を言ったのか、わからなくなるわ」
——あなたは紙を運んだだけで、黒幕ではありませんもの。
あの日、自分で言った言葉が、耳の奥で響いた。
証拠もなく、都合のいい犯人に飛びつくのは、いちばん楽で、いちばん愚かなやり方だ。
前世で、そういう現場を、何度も見てきた。犯人らしい人間と、犯人は、たいてい別人だった。
***
扉が、叩かれた。
「エミリア」
低い声。アッシュ様だった。
「話は、もう回っている。……ドレスが、やられたと」
早いこと。噂の伝わる速さだけは、この学院、演出部より優秀だわ。
「ご心配なく。舞踏会は、出席いたしますわ」
「ドレスもなしにか」
「……」
痛いところを、真顔で突いてくる人ね、この人。
「方法は、考えます」
「手伝う」
「アッシュ様に、裁縫は」
「できない。だが、犯人が誰か、腕力で聞き出すことはできる」
「それは犯罪ですわ!!」
***
彼は、少しだけ、目を細めた。
「……冗談だ」
「冗談を言うようになったんですのね、あなた」
「お前が、教えた」
——ああ、もう。
こんな時に、そんな顔をしないでほしい。
「アッシュ様。手伝ってほしいことが、一つだけありますわ」
「言え」
「明日まで、誰にも——私が慌てている姿を、見せないこと」
彼は、しばらく、私を見ていた。
「……お前らしいな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
***
一人になって、私は、切れ端の山を、もう一度見下ろした。
悔しくないと言えば、嘘になる。
初めて、自分の力だけで、誰にも頼らずに用意したものだった。伯爵家の紋章も、誰の施しもない、私自身のドレス。
それを、一晩で、こんな風に。
……いいわ。
私は、箱の蓋を、静かに閉じた。
ドレスがなければ、なくても出られる格好を探せばいい。舞台に立つ方法は、衣装だけじゃない。
前世で、香盤表が丸ごと吹っ飛んだ現場を、何度立て直したと思っているの。
「マリー」
「はい」
「明日の朝、寮母に会いに行くわ。もう一度」
マリーが、怪訝な顔をした。
「今度は、なにを」
私は、笑った。
自分でも、少し、悪い顔をしている自覚があった。
「白いお菓子は、もう作ったから。今度は、白い制服を借りますの」
***
窓の外で、雪が、また降り始めていた。
舞踏会まで、あと一日。
誰が、なんのために、これをしたのか。
答えは、まだ、出ていない。
けれど、明日の夜、私は、必ず、あの会場に立つ。
——ドレスなんかなくても。




