【第36話】怪物と踊る
寮の厨房を借りるのに、三日かかった。
「白い菓子を作りたいんですの」
「白?」
「ええ。雪みたいな」
寮母は、しばらく私を見て、それから「好きにおし」と言って、鍵を寄越した。
この人、たぶん、私が何をしても驚かないと決めているのね。
***
作ったのは、大福だった。
もち米。餡。片栗粉。
この世界にも、似た材料はある。米はある。豆もある。砂糖は高いけれど、金貨ならまだ残っている。
問題は、餅を搗くことだった。
「マリー、もっと強く!」
「これ以上、強く、というのは——お嬢様、代わってください、腕が!」
「私がやってもいいのだけれど、たぶん十回で座り込むわ」
「なぜ、そこは自信満々なのですか」
三時間かかった。
そして、できあがったのは——不格好で、大きさがてんでばらばらで、粉が偏っている、十二個の白い塊だった。
「……マリー。これ、雪に見える?」
「はい。……降り積もったあとの、少し汚れた雪に」
「言い方!!」
***
アッシュ様は、中庭のベンチに、一人で座っていた。
雪の中で、微動だにせず。
この人、寒くないのかしら。いつもここにいるわね。
「アッシュ様」
「……ん」
「差し入れですわ」
私は、隣に座って、包みを差し出した。
彼は、包みを開いて、しばらく、中を見ていた。
「白い」
「ええ」
「石か」
「お菓子ですわ!!」
彼は、無表情のまま、ひとつ摘み上げた。
そして、口に入れた。
***
沈黙。
長い、長い、沈黙。
……あの。
なにか、言ってくださいます?
無言のまま、二つ目に手が伸びた。
三つ目。四つ目。
「……あの、アッシュ様」
五つ目。
「感想を、いただけると」
彼は、六つ目を口に入れて、それから、ぽつりと言った。
「……知らない」
「え?」
「この味を、知らない」
彼は、掌の上の、七つ目を見ていた。
「甘い。だが、俺の知っている甘さじゃない。粉の下が、伸びる。噛むと、また戻ってくる」
その声が、少しだけ、上ずっていた。
「……こんなものが、この世にあるのか」
***
私は、彼の横顔を見た。
十二歳。灰色の髪。無表情。誰もが「怪物」と呼んで避けてきた少年。
その少年が、大福を七つ食べて、この世の不思議に触れたような顔をしている。
……ああ、もう。
だめだわ。
こんな顔をされたら。
「アッシュ様」
「ん」
「私、あなたにお願いがありますの」
「なんだ」
私は、雪の積もったベンチの上で、まっすぐ座り直した。
そして、言った。
「冬の舞踏会に、私と、出てくださいまし」
***
八つ目を持っていた手が、止まった。
彼は、ゆっくりと、こちらを向いた。
「……なぜ、俺だ」
来たわね。
私は、深く息を吸った。
嘘は、つかない。
嘘は、必ずバレる。そして、バレた時に失うものは、最初から言っておく痛みより、ずっと大きい。
「あなたが、どこにも属していないからですわ」
***
「私、いま、三つの罠に囲まれておりますの」
私は、指を折った。
「王妃派の男と踊れば、私は王妃派の駒。ロブ様と踊れば、寵姫派が私を担いだことになって、あの方と母君が狙われる。誰とも踊らなければ、王家の招きを拒んだことになって、フォックス家が潰れる」
「……」
「三つとも、負けですわ。だから私、盤を変えることにしましたの」
私は、彼を見た。
「ドスラキ家は、どちらの派閥にも属していない。誰の味方でもなく、誰の敵でもない。……あなたと踊れば、私は、**どの駒にもならずに済む**んですのよ」
雪が、静かに降っていた。
「——つまり、私はあなたを、利用します」
***
アッシュ様は、しばらく、何も言わなかった。
そして、八つ目を、ゆっくりと口に運んだ。
食べた。
飲み込んだ。
それから、言った。
「知っている」
「え?」
「お前は、いつもそうだ」
彼は、前を向いたまま言った。
「演習の時も、そうだった。菓子で俺を釣った。学院祭の時も、そうだった。俺の魔力を、舞台に使った」
——ぐ。
そう言われると、返す言葉が。
「……申し訳ありません」
「謝るな」
彼は、遮った。
「俺は、それでいい」
「え?」
「利用される、というのは」
彼は、そこで、少しだけ、言葉を探した。
「——**必要とされる、ということだ**」
***
私は、息を止めた。
「俺は、六つの時から、誰にも必要とされたことがない」
彼は、掌を見ていた。
弟を壊した、その手を。
「使われるのが、怖くない。使われないのが、怖い。……俺は、そういう子供だ」
「アッシュ様」
「だから、いい。舞踏会に、出る」
彼は、あっさりと言った。
あまりにあっさりと言うので、私は、しばらく反応できなかった。
「……よろしいんですの? 私と踊れば、あなたも巻き込まれますわ。『怪物の家の子息が、性悪女狐と踊った』と、社交界中が」
「言わせておけ」
「……」
「もう、六年、言われている」
***
「ただし」
彼が、初めて、こちらを向いた。
「ひとつ、困ったことがある」
「なんですの」
「俺は、踊れない」
「……は?」
「踊り方を、知らない」
彼は、真顔だった。
「習っていない。誰も、俺に教えなかった。……ドスラキ家の子供に、舞踏を教えても、無駄だからだ。誰も、俺とは踊らない」
***
私は、しばらく、彼を見ていた。
雪が、彼の灰色の髪に、積もっていく。
——ああ。
そう。
十二歳まで、誰も、この子に踊りを教えなかったのね。
踊る相手が、一生現れないと、決めつけて。
「……アッシュ様」
「ん」
「立ってくださいます?」
「あ?」
「今から、教えますわ」
***
「まず、右手を」
「……こうか」
「もっと、上。私の背に、そっと」
「壊れる」
「壊れませんわよ!!」
雪の中庭で、私は、身長差三十センチ以上の少年と向き合っていた。
見上げると、首が痛いわね。
「左手は、私の手を取って。……そう。強く握らないで。卵を持つように」
「卵は、割れる」
「割らないでくださいまし!!」
彼の手は、大きくて、硬くて、そして——恐ろしく、遠慮がちだった。
まるで、自分の手が武器であることを、片時も忘れていないみたいに。
「……アッシュ様」
「なんだ」
「もう少し、力を入れて結構ですわ」
「なぜ」
「私、そんなに簡単には、壊れませんの」
彼の手が、ほんの少しだけ、私の手を握った。
***
「一、二、三。一、二、三」
「……」
「そう。左足から。私が下がるから、あなたが出る」
「……お前が、下がる?」
「ええ。舞踏というのは、そういうものですわ。片方が出れば、片方が引く。……喧嘩と同じですわね。両方が前に出たら、ぶつかりますもの」
雪の中で、私たちは、恐ろしくぎこちなく、回った。
三回、足を踏まれた。
一回、私が転びかけて、彼が支えた。
その支え方が、あまりにも慎重で、私は、なんだか泣きそうになった。
***
「……エミリア」
「はい?」
「なぜ、俺なんだ」
「先ほど申し上げましたでしょう。どこにも属していないから——」
「そうじゃない」
彼は、足を止めた。
そして、私を見下ろした。
灰色の目が、まっすぐ、私を見ていた。
「お前は、俺を、怖くないのか」
***
雪が、降っていた。
私は、彼の手を握ったまま、少しだけ、考えた。
「怖いですわよ」
彼の肩が、ぴくりと動いた。
「あなたの魔力を、学院祭で見ましたもの。講堂の空気が軋んで、天井の梁が鳴って、私、正直、腰が抜けそうでしたわ」
「……」
「でもね、アッシュ様」
私は、彼の手を、ぎゅっと握り直した。
「私、あの日、あなたが力を解き放った瞬間に、何を考えたと思います?」
彼は、答えなかった。
「『**あ、この人、泣いてるわ**』って、思いましたのよ」
***
アッシュ様の顔が、ゆっくりと、歪んだ。
十二歳の子供の顔に、戻った。
「……俺は」
「ええ」
「俺は、泣いていない」
「ええ。存じておりますわ」
私は、笑った。
「あなたは、一度も泣いていない。六年間、一度も。……だから私、あなたを怖いとは思いませんの」
雪が、静かに降っていた。
「泣かずに六年を過ごした人が、いちばん怖いのは、自分ですもの」
***
その日、私たちは、日が暮れるまで踊った。
正確には、踊りの真似事をして、転んで、笑って、また踏まれて。
最後の一回だけ、ほんの数歩、ちゃんと回れた。
「——できましたわ!」
私が声を上げると、アッシュ様は、目を丸くして、それから。
——笑った。
初めて、見た。
不器用で、ぎこちなくて、どこか申し訳なさそうな笑い方だった。
***
寮に戻って、私は、寝台に倒れ込んだ。
腕が、上がらない。
膝が、笑っている。
……たかが、踊りの練習よ?
十二歳の身体が、三時間の餅つきと、二時間のダンスで、こんなに壊れるものかしら。
「お嬢様。お水を」
「……ありがとう」
私は、水を一口飲んで、天井を見上げた。
「マリー」
「はい」
「私、あの人を利用しますわ」
「はい」
「……でも、それだけじゃ、ないの」
私は、目を閉じた。
「あの人と、踊りたかったのよ。たぶん、最初から」
マリーは、何も言わなかった。
ただ、静かに、毛布をかけてくれた。
***
翌朝、掲示板に、舞踏会の参加者名簿が貼り出された。
『エミリア・フォックス —— アッシュ・ドスラキ』
学院が、ひっくり返った。
そして、その騒ぎの中で。
食堂の隅で、ロブ王子が、スプーンを落とした音を。
私は、聞いていなかった。




