表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
36/50

【第36話】怪物と踊る

寮の厨房を借りるのに、三日かかった。


「白い菓子を作りたいんですの」


「白?」


「ええ。雪みたいな」


寮母は、しばらく私を見て、それから「好きにおし」と言って、鍵を寄越した。


この人、たぶん、私が何をしても驚かないと決めているのね。


***


作ったのは、大福だった。


もち米。餡。片栗粉。


この世界にも、似た材料はある。米はある。豆もある。砂糖は高いけれど、金貨ならまだ残っている。


問題は、餅を搗くことだった。


「マリー、もっと強く!」


「これ以上、強く、というのは——お嬢様、代わってください、腕が!」


「私がやってもいいのだけれど、たぶん十回で座り込むわ」


「なぜ、そこは自信満々なのですか」


三時間かかった。


そして、できあがったのは——不格好で、大きさがてんでばらばらで、粉が偏っている、十二個の白い塊だった。


「……マリー。これ、雪に見える?」


「はい。……降り積もったあとの、少し汚れた雪に」


「言い方!!」


***


アッシュ様は、中庭のベンチに、一人で座っていた。


雪の中で、微動だにせず。


この人、寒くないのかしら。いつもここにいるわね。


「アッシュ様」


「……ん」


「差し入れですわ」


私は、隣に座って、包みを差し出した。


彼は、包みを開いて、しばらく、中を見ていた。


「白い」


「ええ」


「石か」


「お菓子ですわ!!」


彼は、無表情のまま、ひとつ摘み上げた。


そして、口に入れた。


***


沈黙。


長い、長い、沈黙。


……あの。


なにか、言ってくださいます?


無言のまま、二つ目に手が伸びた。


三つ目。四つ目。


「……あの、アッシュ様」


五つ目。


「感想を、いただけると」


彼は、六つ目を口に入れて、それから、ぽつりと言った。


「……知らない」


「え?」


「この味を、知らない」


彼は、掌の上の、七つ目を見ていた。


「甘い。だが、俺の知っている甘さじゃない。粉の下が、伸びる。噛むと、また戻ってくる」


その声が、少しだけ、上ずっていた。


「……こんなものが、この世にあるのか」


***


私は、彼の横顔を見た。


十二歳。灰色の髪。無表情。誰もが「怪物」と呼んで避けてきた少年。


その少年が、大福を七つ食べて、この世の不思議に触れたような顔をしている。


……ああ、もう。


だめだわ。


こんな顔をされたら。


「アッシュ様」


「ん」


「私、あなたにお願いがありますの」


「なんだ」


私は、雪の積もったベンチの上で、まっすぐ座り直した。


そして、言った。


「冬の舞踏会に、私と、出てくださいまし」


***


八つ目を持っていた手が、止まった。


彼は、ゆっくりと、こちらを向いた。


「……なぜ、俺だ」


来たわね。


私は、深く息を吸った。


嘘は、つかない。


嘘は、必ずバレる。そして、バレた時に失うものは、最初から言っておく痛みより、ずっと大きい。


「あなたが、どこにも属していないからですわ」


***


「私、いま、三つの罠に囲まれておりますの」


私は、指を折った。


「王妃派の男と踊れば、私は王妃派の駒。ロブ様と踊れば、寵姫派が私を担いだことになって、あの方と母君が狙われる。誰とも踊らなければ、王家の招きを拒んだことになって、フォックス家が潰れる」


「……」


「三つとも、負けですわ。だから私、盤を変えることにしましたの」


私は、彼を見た。


「ドスラキ家は、どちらの派閥にも属していない。誰の味方でもなく、誰の敵でもない。……あなたと踊れば、私は、**どの駒にもならずに済む**んですのよ」


雪が、静かに降っていた。


「——つまり、私はあなたを、利用します」


***


アッシュ様は、しばらく、何も言わなかった。


そして、八つ目を、ゆっくりと口に運んだ。


食べた。


飲み込んだ。


それから、言った。


「知っている」


「え?」


「お前は、いつもそうだ」


彼は、前を向いたまま言った。


「演習の時も、そうだった。菓子で俺を釣った。学院祭の時も、そうだった。俺の魔力を、舞台に使った」


——ぐ。


そう言われると、返す言葉が。


「……申し訳ありません」


「謝るな」


彼は、遮った。


「俺は、それでいい」


「え?」


「利用される、というのは」


彼は、そこで、少しだけ、言葉を探した。


「——**必要とされる、ということだ**」


***


私は、息を止めた。


「俺は、六つの時から、誰にも必要とされたことがない」


彼は、掌を見ていた。


弟を壊した、その手を。


「使われるのが、怖くない。使われないのが、怖い。……俺は、そういう子供だ」


「アッシュ様」


「だから、いい。舞踏会に、出る」


彼は、あっさりと言った。


あまりにあっさりと言うので、私は、しばらく反応できなかった。


「……よろしいんですの? 私と踊れば、あなたも巻き込まれますわ。『怪物の家の子息が、性悪女狐と踊った』と、社交界中が」


「言わせておけ」


「……」


「もう、六年、言われている」


***


「ただし」


彼が、初めて、こちらを向いた。


「ひとつ、困ったことがある」


「なんですの」


「俺は、踊れない」


「……は?」


「踊り方を、知らない」


彼は、真顔だった。


「習っていない。誰も、俺に教えなかった。……ドスラキ家の子供に、舞踏を教えても、無駄だからだ。誰も、俺とは踊らない」


***


私は、しばらく、彼を見ていた。


雪が、彼の灰色の髪に、積もっていく。


——ああ。


そう。


十二歳まで、誰も、この子に踊りを教えなかったのね。


踊る相手が、一生現れないと、決めつけて。


「……アッシュ様」


「ん」


「立ってくださいます?」


「あ?」


「今から、教えますわ」


***


「まず、右手を」


「……こうか」


「もっと、上。私の背に、そっと」


「壊れる」


「壊れませんわよ!!」


雪の中庭で、私は、身長差三十センチ以上の少年と向き合っていた。


見上げると、首が痛いわね。


「左手は、私の手を取って。……そう。強く握らないで。卵を持つように」


「卵は、割れる」


「割らないでくださいまし!!」


彼の手は、大きくて、硬くて、そして——恐ろしく、遠慮がちだった。


まるで、自分の手が武器であることを、片時も忘れていないみたいに。


「……アッシュ様」


「なんだ」


「もう少し、力を入れて結構ですわ」


「なぜ」


「私、そんなに簡単には、壊れませんの」


彼の手が、ほんの少しだけ、私の手を握った。


***


「一、二、三。一、二、三」


「……」


「そう。左足から。私が下がるから、あなたが出る」


「……お前が、下がる?」


「ええ。舞踏というのは、そういうものですわ。片方が出れば、片方が引く。……喧嘩と同じですわね。両方が前に出たら、ぶつかりますもの」


雪の中で、私たちは、恐ろしくぎこちなく、回った。


三回、足を踏まれた。


一回、私が転びかけて、彼が支えた。


その支え方が、あまりにも慎重で、私は、なんだか泣きそうになった。


***


「……エミリア」


「はい?」


「なぜ、俺なんだ」


「先ほど申し上げましたでしょう。どこにも属していないから——」


「そうじゃない」


彼は、足を止めた。


そして、私を見下ろした。


灰色の目が、まっすぐ、私を見ていた。


「お前は、俺を、怖くないのか」


***


雪が、降っていた。


私は、彼の手を握ったまま、少しだけ、考えた。


「怖いですわよ」


彼の肩が、ぴくりと動いた。


「あなたの魔力を、学院祭で見ましたもの。講堂の空気が軋んで、天井の梁が鳴って、私、正直、腰が抜けそうでしたわ」


「……」


「でもね、アッシュ様」


私は、彼の手を、ぎゅっと握り直した。


「私、あの日、あなたが力を解き放った瞬間に、何を考えたと思います?」


彼は、答えなかった。


「『**あ、この人、泣いてるわ**』って、思いましたのよ」


***


アッシュ様の顔が、ゆっくりと、歪んだ。


十二歳の子供の顔に、戻った。


「……俺は」


「ええ」


「俺は、泣いていない」


「ええ。存じておりますわ」


私は、笑った。


「あなたは、一度も泣いていない。六年間、一度も。……だから私、あなたを怖いとは思いませんの」


雪が、静かに降っていた。


「泣かずに六年を過ごした人が、いちばん怖いのは、自分ですもの」


***


その日、私たちは、日が暮れるまで踊った。


正確には、踊りの真似事をして、転んで、笑って、また踏まれて。


最後の一回だけ、ほんの数歩、ちゃんと回れた。


「——できましたわ!」


私が声を上げると、アッシュ様は、目を丸くして、それから。


——笑った。


初めて、見た。


不器用で、ぎこちなくて、どこか申し訳なさそうな笑い方だった。


***


寮に戻って、私は、寝台に倒れ込んだ。


腕が、上がらない。


膝が、笑っている。


……たかが、踊りの練習よ?


十二歳の身体が、三時間の餅つきと、二時間のダンスで、こんなに壊れるものかしら。


「お嬢様。お水を」


「……ありがとう」


私は、水を一口飲んで、天井を見上げた。


「マリー」


「はい」


「私、あの人を利用しますわ」


「はい」


「……でも、それだけじゃ、ないの」


私は、目を閉じた。


「あの人と、踊りたかったのよ。たぶん、最初から」


マリーは、何も言わなかった。


ただ、静かに、毛布をかけてくれた。


***


翌朝、掲示板に、舞踏会の参加者名簿が貼り出された。


『エミリア・フォックス —— アッシュ・ドスラキ』


学院が、ひっくり返った。


そして、その騒ぎの中で。


食堂の隅で、ロブ王子が、スプーンを落とした音を。


私は、聞いていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ