【第35話】どちらの手にも、乗らない
屋敷からの手紙が届いたのは、舞踏会の十日前だった。
紋章の押し方が、いつもより丁寧だった。
……嫌な予感がするわ。
『喜べ。お前に、縁談が来た』
私は、そこで一度、手紙を閉じた。
窓の外では、雪が降っている。
深呼吸を、ひとつ。
——よし。
『相手は、ハーグレイヴ伯爵家の縁者、セドリック・ハーグレイヴ卿。王妃陛下のご実家に連なる名家である。
年内に、婚約の内諾を交わす。異存は認めぬ。
冬の舞踏会には、卿が出席される。パートナーとして、必ず卿の申し込みを受けよ。』
***
「マリー」
「はい」
「セドリック・ハーグレイヴ卿って、どなた?」
マリーは、一拍だけ間を置いて、答えた。
「……三十四歳です」
「三十四」
「二度、妻を亡くしておられます」
私は、羽根ペンを取り落とした。
「一人目は、ご結婚の二年後に。二人目は、三年後に。……どちらも、原因は公表されておりません」
「……マリー」
「はい」
「それ、殺されているのではなくて?」
「わかりません。ですが、社交界では、誰もその話をいたしません」
***
十二歳の娘に、三十四歳の男。
前世の日本なら、それだけで新聞の一面よ。ワイドショーが三日は回せるわ。
でも、この世界では、これが「良縁」なのだ。
家格が釣り合っている。王妃の実家に連なる。それだけで、十分。
私が何を思うかなんて、誰も、一度も、訊いていない。
「……八年前と、同じね」
私は、机の上の手紙を見つめた。
四つの子供に、呪契約の紙を差し出した男。
十二の娘に、婚約の紙を差し出す、同じ男。
あの人にとって、私は最初から、そういうものなのだ。
紙に、名前を書かせるための、手。
***
「エミリア様!」
翌日の昼、ソフィアが真っ青な顔で駆けてきた。
「た、たた大変です! ハーグレイヴ卿という方が、学院にいらして——」
「あら、もう?」
「エミリア様に、舞踏会の申し込みを、と……!」
私は、食堂の窓から、外を見た。
雪の中庭に、立派な毛皮の外套を着た男が立っていた。
遠目にもわかる。
——あの人、私を「見て」いないわ。
品定めをしている。馬でも見るように。
前世で、私はああいう目を、何度も見た。オーディション会場の隅で、まだ十六歳の子の脚を、上から下まで舐めるように見ていたプロデューサーの目だ。
「ソフィア」
「は、はい!」
「私、今日、体調が優れませんの」
「え?」
「熱があるかもしれませんわ。ええ、たぶん、ひどい熱ですわね」
私は、にっこり笑った。
「三日ほど、寝込むかもしれませんわ」
***
もちろん、逃げ切れるとは思っていない。
三日稼いだところで、あの男は帰らない。伯爵は諦めない。王妃の実家は、もっと諦めない。
私は、寮の部屋で、企画書を広げた。
『冬の舞踏会・企画書(第二稿)』
問題を、書き出す。
前世で覚えたことのひとつ。頭がぐちゃぐちゃになった時は、必ず紙に書く。
書けないものは、解けない。
『状況:
一、王妃派(ハーグレイヴ家)は、私をセドリック卿に嫁がせたい。
狙い=フォックス家の加護持ちを、王家の外へ出すこと。
二、では、寵姫派は?』
私は、そこで羽根ペンを止めた。
「マリー。寵姫派は、どう動いているの?」
「……動いておりません」
「動いていない?」
「はい。**不気味なほど、静かです**」
***
——ああ。
そういうこと。
私は、天井を仰いだ。
寵姫派が動かないのは、動けないからだ。
彼らが私を担げば、「寵姫派が加護持ちを取り込んだ」と見なされる。そうなれば、王妃派は本気で潰しにくる。潰される先は、私ではない。
**ロブ王子と、その母だ。**
「……なるほど。よくできているわ」
私は、乾いた笑いを漏らした。
つまり、こうだ。
私が王妃派の男と踊れば——私は、王妃派の駒になる。
私がロブ王子と踊れば——寵姫派が私を担いだと見なされ、ロブと寵姫が狙われる。
私が誰とも踊らなければ——「フォックス家の娘は、王家の招きを拒んだ」と言われ、伯爵家ごと潰される。
三つとも、負け。
『二択を出された時は、必ず、出した側に得のある二択なのよ』
——私、ついこの間、そう言ったばかりだわね。
今度は、三択。
しかも、全部、負け。
「……ずいぶん、丁寧なお仕事だこと」
***
その夜、私は温室に行った。
行けば、いるとわかっていた。
「あら。ごきげんよう、エミリア様」
ヴィオラ・ハーグレイヴが、白い花に、じょうろで水をやっていた。
「ご縁談、おめでとうございます」
「ありがとう存じますわ。あなたのご親戚だそうですわね」
「ええ。従兄ですの」
彼女は、微笑んだ。
「お優しい方ですわ。……前の奥様が亡くなられた時も、それはもう、お嘆きになって」
「二度、お嘆きになったんですのね」
ヴィオラ様の手が、ほんの一瞬、止まった。
そして、彼女は、初めて声を出して笑った。
「……あなた、本当に、憎らしい方」
***
「ヴィオラ様。ひとつ、伺ってもよろしくて」
「なんでしょう」
「あなた方は、なぜ、そこまでして私を王家の外へ出したいんですの?」
彼女は、じょうろを置いた。
そして、しばらく、白い花を見ていた。
「……フォックス家の娘が王家の手にある限り、王家は、絶対に落ちませんの」
「え?」
「二百年、ずっとそうでしたわ。加護持ちの娘は、王家が抱え込む。誰の手にも渡さない。……なぜだと思います?」
私は、答えられなかった。
「王家は、あなたを恐れているのですわ」
彼女は、私を見た。
その灰色の目は——まっすぐ、私の顔を、見ていなかった。
いつものように。
少しだけ、横を。
「恐れているものは、手元に置いておくものですのよ。……逃がしたら、どこへ行くかわかりませんもの」
***
寮に戻る道すがら、私は、ずっと考えていた。
——王家は、私を恐れている。
なぜ?
十二歳の娘を。魔力もろくに使えない、剣も振れない、ただの、小娘を。
契約書には、なんと書いてあるのだろう。
「王家の呪い」の正体は、なんなのだろう。
閲覧許可は、まだ下りていない。
……いいえ。
正確には。
『半年以上かかったが、叔父上を説得した』
——ロブ王子が、そう言っていた。
近いうちに、書庫へ行く。
その時、全部わかる。
でも、舞踏会は、十日後だ。
***
部屋に戻って、私は、企画書の前に座った。
そして、白い紙を、じっと見ていた。
三つの選択肢。全部、負け。
……ねえ。
前世の私は、こういう時、何をしていたかしら。
——「その企画は通らない」と言われた時。
——「予算がない」と言われた時。
——「主演が降りた」と言われた時。
私は、いつも、何をしていた?
……ああ。
そうだった。
私はいつも、こう言っていたのよ。
『じゃあ、企画を変えます』
***
問題は、こうだ。
「誰と踊れば、負けないか」
——違うわ。
この問いが、そもそも罠なのよ。
誰と踊るかを選ばせている時点で、私は、あの人たちの盤の上にいる。
盤の上で最善手を探しても、盤ごと相手のものなんですもの。
だったら。
「盤を、変えればいい」
私は、羽根ペンを取った。
そして、企画書に、大きく書いた。
『目的の再設定:
×「誰と踊れば、負けないか」
○「誰と踊っても、**誰の駒にもならない**にはどうするか」』
***
「マリー」
「はい」
「この学院で、どの派閥にも属していない家は、どこ?」
マリーは、しばらく考えた。
「……王妃派でも、寵姫派でもない家、ということでしょうか」
「そう。どちらにも与していない。どちらからも、誘われない。社交界の真ん中から、少し外れているお家」
マリーの目が、はっと見開かれた。
「……お嬢様。それは」
「言ってごらんなさい」
彼女は、少しだけ、言いにくそうに口を開いた。
「ドスラキ家です」
***
——ドスラキ家。
アッシュ様の家。
魔力暴走の血筋。「怪物を出す家」と呼ばれ、社交界が遠巻きにしてきた家。
どの派閥も、彼らを取り込もうとしない。
なぜなら、価値がないと思われているから。
「マリー。ドスラキ家は、王家とどういう関係?」
「……古い家です。建国のころからの。ですが、ここ百年、王宮の役職についた方は、一人もおられません」
「誰の味方でもない」
「はい。誰の敵でも、ありません」
私は、羽根ペンを置いた。
そして、笑った。
たぶん、ものすごく、悪い顔をしていたと思う。
「マリー。私、明日から、また体調が良くなりますわ」
「……お嬢様?」
「ええ。すこぶる、元気ですのよ」
私は、立ち上がった。
窓の外では、まだ雪が降っている。
「明日、アッシュ様に、お菓子を焼きますわ」
「お菓子、でございますか」
「ええ」
私は、窓に手をついて、白い息を吐いた。
「——**あの方が、生涯一度も、食べたことのないお菓子を**」




