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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第34話】望んだことが、ない

弟が、夜更けに訪ねてきたと聞いた時、私は、書類を読んでいた。


「通せ」


そう言って、私は、ペンを置いた。


——ついに来たか、と思った。


いつかは来ると思っていた。あの娘が学院に入った日から、この日が来ることは、わかっていた。


ロブが、部屋に入ってきた。


雪に濡れた外套のまま。従者も連れず。


そして、私の前に立った。


「兄上」


「座れ」


「立ったまま、申し上げます」


——ほう。


私は、少しだけ、目を見開いた。


この弟が、私の言葉に従わなかったのは、生まれて初めてだった。


「兄上。私は、十二年間、一度も、あなたに何かを願ったことがありません」


「そうだな」


「だから、今日が、最初です」


ロブは、まっすぐ、私を見た。


銀髪に、金の目。始祖の血が濃く出すぎた、忌まわしい色。


その目が、揺れていなかった。


「冬の舞踏会で、エミリア・フォックス嬢を、誘いたい」


***


私は、答えなかった。


答える前に、頭の中で、十二手先まで、盤面が動いた。


第二王子が、フォックス家の加護持ちを誘う。


寵姫派が、加護持ちを担いだと見なされる。


母上の実家——ハーグレイヴ家が動く。


あの娘を、王家の外へ出そうとしている連中が、警戒する。


寵姫の身が、危うくなる。


そして、あの娘は。


政争の中心に、引きずり出される。


十二歳の娘が、大人たちの盤面の、真ん中に。


「——だめだ」


私は、そう言った。


自分でも驚くほど、静かな声だった。


「理由は、以前告げた。あの娘は、駒として強すぎる。お前が近づけば、あの娘が壊れる」


「存じております」


「では、なぜ言う」


「壊させないためです」


ロブは、一歩、前に出た。


「兄上。私は、十二年、身を潜めて生きてきました。目立たず、勝たず、望まず。……そのおかげで、母は生きています。私は、その取引を、正しいと思ってきました」


「今も、正しい」


「ええ。正しい」


彼は、頷いた。


「——ですが兄上。**正しさで人を救えるなら、この城の誰も、こんなに息を殺して生きてはいないでしょう**」


***


私は、しばらく、弟の顔を見ていた。


この子は、変わった。


いつからだろう。


いや、わかっている。


あの娘が学院に来てからだ。


森で罠に落ちて、粘着液まみれになって帰ってきた日から、この子の目は、変わった。


「ロブ」


「はい」


「お前は、あの娘に、何を望む」


「……」


「よく考えて答えろ。これは、兄としての問いだ」


ロブは、長い間、黙っていた。


そして、ぽつりと言った。


「わかりません」


「わからない?」


「はい。ただ——」


彼は、少しだけ、俯いた。


「あの女の隣にいると、俺は、俺のままで、いられます」


***


その言葉を聞いた瞬間。


私の中で、何かが、ぐらりと揺れた。


——俺のままで、いられる。


私は、その言葉の意味を、知らなかった。


生まれてから、二十年。


私は、王太子だ。


朝、目を覚まし、王太子として起き上がり、王太子として食事をし、王太子として学び、王太子として微笑み、王太子として眠る。


私が「私のまま」でいた時間が、この二十年で、一秒でもあっただろうか。


——ない。


一秒も、ない。


「ロブ」


私は、口を開いた。


「私は、何かを望んだことが、一度もない」


弟が、顔を上げた。


「望む必要が、なかったからだ。私は王太子だ。欲しいものは、望む前に与えられる。剣も、書物も、称賛も、地位も」


私は、机の上の書類を見た。


今日、決裁した案件は、四十一件。


そのうち、私が「やりたい」と思ったものは、ひとつもない。


ひとつも、なかった。


「与えられるものを、私は正しく処理してきた。四十年、この国は、そうやって回ってきた。父上もそうだった。祖父もそうだった。……それが、王家というものだ」


「兄上……」


「だから、お前が羨ましい」


***


言ってしまってから、私は、自分の口を、疑った。


羨ましい。


私が。


寵姫の子を。


北向きの部屋で、氷の張る冬を越してきた、あの弟を。


「……兄上、それは」


「言うな」


私は、手を挙げて、弟を制した。


「聞かなかったことにしろ。王太子は、弟を羨まない」


***


窓の外で、雪が降っていた。


私は、しばらく、それを見ていた。


「ロブ」


「はい」


「母上は——王妃陛下は、あの娘を、ハーグレイヴ家の縁者に嫁がせようとしている」


弟の顔が、こわばった。


「十二歳の娘にか、と思うだろう。だが、婚約の内諾は、年内に取る腹だ。加護持ちの娘を王家の外へ出す。それが、母上の実家の悲願だ」


「なぜです」


「——王家が、二百年、あの家の娘を囲い込んできたからだ」


私は、窓に向かって、答えた。


「そして王家は、その理由を、記録に残していない」


「……記録に、残していない?」


「ああ」


私は、振り返った。


「ロブ。お前は、あの術が何をするものか、聞かされたな」


「はい。心の弱い娘は、ここで死ぬ、と」


「私は、それすら、聞かされていない」


弟が、息を呑んだ。


「王太子だぞ、私は。この国のすべてを継ぐ男だ。……その私が、フォックス家の娘に王家が何をしているのか、知らされていない」


私は、拳を握った。


「叔父上は、教えない。父上も、語らない。書庫の契約書は、王族であっても、閲覧に許可がいる。……許可を出せるのは、叔父上だけだ」


「兄上は、求めなかったのですか」


「求めた」


私は、静かに言った。


「三度、求めた。三度とも、断られた」


***


弟は、長い間、黙っていた。


そして、静かに言った。


「兄上。私は、その許可を、取りました」


——は?


「先日、叔父上を説得しました。……半年以上、かかりましたが」


私は、目を見開いた。


「お前が、叔父上を?」


「はい」


「どうやって」


ロブは、少しだけ、笑った。


「『契約の当事者に見せないほうがおかしい』と、あの女が言うものですから。それを、そのまま、叔父上に何度も申し上げました。……三十回ほど」


「……三十回」


「はい」


——なんという。


なんという、馬鹿げた方法だ。


理屈でも、権謀でもない。


ただ、正しいことを、正しいと言い続けただけ。


それを、半年。


「兄上。書庫へは、近く参ります」


弟の目は、もう、揺れていなかった。


「その時、何が書いてあったか、必ず、あなたにお伝えします」


***


私は、答えなかった。


答えられなかった。


——弟が、私を追い越していく。


そう思った。


十二年間、私が「目立つな」と押さえつけてきた弟が。


私が、母から守ってやっているつもりだった弟が。


いま、私の知らない扉を、開けようとしている。


「……ロブ」


「はい」


「舞踏会の件は、許さん」


弟の顔が、歪んだ。


「兄上——!」


「聞け」


私は、机を回って、弟の前に立った。


そして、初めて、この子の肩に、手を置いた。


「私が許さないのは、お前が『申し込む』ことだ」


「……?」


「お前が申し込めば、寵姫派があの娘を担いだと見なされる。あの娘が狙われる。それは、変わらん」


私は、弟の目を、まっすぐ見た。


「——だが、**あの娘が、お前を誘うのなら**、話は別だ」


弟の目が、大きく見開かれた。


「学院長が、告示を出したそうだな。女子から男子への申し込みを、これを禁ずるものではない、と」


「兄上、それは」


「王家は、学院の学則には、口を出さん」


私は、手を離した。


そして、机に戻った。


書類を、また、手に取った。


「……以上だ。下がれ」


***


弟が出ていったあと。


私は、しばらく、書類を見つめていた。


一文字も、頭に入ってこなかった。


——私は、何をした?


弟に、抜け道を教えた。


母上に知られれば、私が疑われる。二十年、一度も踏み外さなかった私が。


「……ふ」


私は、笑った。


生まれて初めて、一人の部屋で、声を出して笑った。


「なるほど。これが」


これが、望むということか。


***


翌朝、私は、いつも通りに起きた。


王太子として起き上がり、王太子として食事をし、王太子として、四十件の書類を決裁した。


昼過ぎ、母上——王妃陛下が、私の部屋を訪ねてきた。


「ルーカス。昨夜、あの子が来たそうね」


美しい人だ。


そして、この城でいちばん、恐ろしい人だ。


「はい、母上」


「何の用で?」


私は、微笑んだ。


完璧な、王太子の微笑みで。


「学院の成績のことです。二位に落ちたと、しょげておりました」


母上は、私を見た。


長い、長い、五秒間。


そして、満足そうに頷いた。


「そう。……あの子には、それくらいが、ちょうどいいわ」


母上が去ったあと。


私は、椅子に沈み込んで、天井を見上げた。


——生まれて初めて、嘘をついた。


心臓が、うるさいほど鳴っていた。


不思議なことに。


その音は、少しも、不快ではなかった。

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