【第33話】俺は、彼女を振った
その日の昼、食堂は、いつも通りだった。
俺がトレイを持って、いつもの席——あの女の隣に座ろうとした、その時。
彼女が、立ち上がった。
椅子が、大きな音を立てた。
食堂中の目が、こちらを向いた。
「ロブ・フェンリール殿下」
——嫌な予感がした。
こいつがフルネームで俺を呼ぶ時は、ろくなことがない。
「冬の舞踏会に」
やめろ。
「私と、踊っていただけません?」
食堂の音が、消えた。
***
三百人が、息を止めていた。
学院一の——いや、この国でいちばんと噂される娘が、二百年で初めて、女から男に、申し込んでいる。
しかも、相手は王子だ。
しかも、公衆の面前だ。
俺は、彼女を見た。
まっすぐに、俺を見ていた。
紫の目が、一ミリも、揺れていなかった。
——ああ。
そこで、俺は、理解した。
こいつ、俺が断ることを、知っている。
昨日、俺は言ったのだ。この女の隣で、スープを飲みながら。
『俺は、誰も誘わない。誰の申し込みも、受けない』
こいつは、それを聞いていた。
そして今、その言葉を、俺の前に、そのまま置いた。
——断れ、と。
三百人の前で、俺に、断らせようとしている。
***
俺の口が、勝手に動いた。
「……すまない」
自分の声が、遠くで聞こえた。
「俺は、誰の申し込みも、受けない」
食堂が、ざわりと揺れた。
——断った。
第二王子が、フォックス伯爵家の令嬢を、断った。
明日には、王都中に広まるだろう。
あの女は、王子に振られた。
学院一の美貌が、二百年で最初の申し込みで、無様に振られた。
——そういう話に、なる。
俺は、彼女の顔を、見られなかった。
見たら、何かが、壊れる気がした。
***
その時。
彼女が、笑った。
「あら」
大きな声だった。
食堂の隅々まで、届く声だった。
「振られてしまいましたわ!」
俺は、顔を上げた。
彼女は、笑っていた。
にっこりと。悪びれもせず。まるで、いま茶をこぼしただけ、というような顔で。
「ご覧になって、皆様」
彼女は、両手を広げて、食堂中を見回した。
「エミリア・フォックスが、フェンリール王国の第二王子殿下に、公衆の面前で、振られましたわ」
しん、としていた。
「二百年で、最初の申し込み。相手は王子。結果は、玉砕」
彼女は、くるりと回ってみせた。
ドレスの裾が、ふわりと広がった。
「——ほら」
そして、彼女は言った。
「私、死んでおりませんでしょう?」
***
食堂の、どこかで。
誰かが、小さく、笑った。
それが、伝染した。
くすくす、と。
やがて、あちこちで。
そして、最後には、食堂全体が、笑い声で満たされていた。
「フォックス嬢、次はぜひ私に!」
「馬鹿、お前じゃ釣り合わん!」
「振られたら、私も踊りますわ、その場で!」
笑い声の中で、俺は、一人だけ、笑えなかった。
***
翌日。
学院の掲示板の下に置かれた、申し込みの受付箱に。
女子生徒からの手紙が、**十九通**、入っていた。
その次の日は、三十一通。
そのまた次の日は、数えるのをやめたそうだ。
***
「殿下。ご立腹ですの?」
三日後、彼女は、平然と俺の隣に座った。
いつもの席で。いつもの顔で。
「……何が」
「あら。ずいぶん、ご機嫌がよろしくないようですから」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
こいつは、俺を使ったのだ。
「振られても死なない」ことを証明する道具として、俺を、三百人の前に引きずり出した。
そして、見事に、成功させた。
五十二人が、動き出した。二百年、灯りを消して音楽を聞いていた娘たちが、震える手で手紙を書いている。
あの女がやったことは、正しい。
一点の曇りもなく、正しい。
——なのに、なぜ。
なぜ俺は、こんなに、腹が立っているんだ。
「殿下」
彼女が、静かに言った。
「怒っていらっしゃるのは、私に使われたからではないでしょう」
俺は、スプーンを落としそうになった。
「……なんだと」
「あなたが怒っていらっしゃるのは、——**断ってしまった自分に、でしょう**」
***
「私、あなたが断ることを知っていて、申し込みましたわ」
彼女は、まっすぐ前を見たまま、言った。
「あなたを政争に巻き込みたくなかったんですの。断られるとわかっている相手にしか、申し込めなかった。……ですから、私も、卑怯者ですわ」
「……」
「二人とも、卑怯者ですのよ。おあいこですわ」
彼女は、そこで、初めて俺を見た。
「でも、殿下。ひとつだけ、申し上げますわ」
その目が、少し、細くなった。
「あの日、私が申し込んだ時。あなた、一瞬だけ、迷いましたでしょう」
——。
「迷ったのなら、それは、あなたの意思ですわ」
彼女は、立ち上がった。
トレイを持って、行ってしまう前に、彼女は、ぽつりと言った。
「……次は、迷わないでくださいまし。どちらでもいいから」
***
その夜、俺は、北向きの自室で、灯りもつけずに座っていた。
窓の外で、雪が降っていた。
机の上には、開けていない手紙が、四十通ほど積んである。
俺は、そのうちの一通も、開けたことがない。
——迷ったのなら、それは、あなたの意思ですわ。
あの女は、そう言った。
俺は、迷ったのか?
……ああ。
迷った。
三百人の前で、あいつが俺を見上げた、あの一瞬。
俺は、確かに、こう思った。
——「はい」と、言いたい。
そう思ったのだ。
十二年間、一度も思ったことのない類の、まっすぐで、身勝手で、どうしようもない欲望だった。
目立つな。分をわきまえろ。望むな。
十二年、俺はその通りに生きてきた。剣術の試合はほどよく負け、成績は二位か三位に調整し、夜会では兄上より早く退出した。
そのおかげで、母は今も生きている。
俺は、その取引を、正しいと思ってきた。
——けれど。
母は、俺が「望まない」ことで、生き延びている。
俺が、何かを望んだ瞬間に、母は死ぬ。
俺の欲望は、母の命と、天秤にかかっている。
こんな天秤を、十二歳の子供に持たせたのは、誰だ。
「……兄上」
俺は、暗闇の中で、呟いた。
あなたは、正しい。
いつも、正しい。
けれど、あなたが正しいたびに、俺は、少しずつ、死んでいる。
***
俺は、机の引き出しを開けた。
奥の方に、古い箱がある。
その中に、あのメガネが入っている。
雰囲気を平凡にする、安物の魔道具。
幼い頃、城下の魔道具屋で、俺が自分の金で買った、最初の買い物だ。
これをかけると、誰も俺を二度見しない。
——ああ、これが、普通か。
初めてかけた日、俺は広場の隅で、そう思った。
俺は、そのメガネを、手に取った。
しばらく、掌の上で、転がしていた。
そして。
引き出しに、戻した。
——ぱたん、と。
音を立てて、引き出しを閉めた。
「……もう、いい」
俺は、立ち上がった。
十二年、これをかけて生きてきた。
そのおかげで、俺は、誰にも見つからなかった。
——なのに、あの女は、俺を、見つけた。
粘着液まみれで穴の底に座り込んでいた、名もない泥だらけの少年に、あいつは、まっすぐ手を差し出した。
俺が王子だと知らずに。
俺が何の役に立つかも知らずに。
『ほら、掴まって』
——あの手を、俺は掴んでしまった。
もう、遅い。
俺は、外套を掴んだ。
***
その夜、俺は、王城へ向かう馬車を呼んだ。
従者が、青い顔で止めようとした。
俺は、初めて、それを振り払った。
——兄上。
一度だけ、申し上げたいことがあります。
私は、十二年間、一度も、あなたに何かを願ったことがありません。
だから、今日が、最初です。
そして、たぶん、最後になります。




