【第32話】条文には、書いていない
「——面白い」
図書館の窓際で、ブライアン様が、片眼鏡を押し上げた。
学院学則の第三編、第七章。舞踏会に関する条文。二百年前に書かれ、以来、一文字も変わっていない、羊皮紙の束。
彼は、それを三度、読み返していた。
「エミリア。君は、これを読んで、何に気づいた」
「試すのはおやめになって。私、法学は三位ですわ」
「三位で十分だ。言ってみろ」
私は、条文を指した。
「第七章、第二条。『参加は、男子生徒より女子生徒への申し込み、および承諾をもって成立するものとする』」
「うむ」
「これ、成立の要件を定めているだけですわ」
ブライアン様の口の端が、わずかに上がった。
「続けろ」
「男子から申し込み、女子が承諾すれば、参加が成立する。——そう書いてあります。でも」
私は、羊皮紙をめくった。
一枚、二枚、三枚。
「その逆を、禁じる条文が、どこにもありませんの」
***
ブライアン様は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「二百年、誰も気づかなかったわけではないと思う」
「あら」
「気づいた者はいたはずだ。だが、誰も言わなかった。——言えば、笑われるからだ」
彼は、片眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「『そんなことは、書いていないだけで、当たり前だろう』と。……人を黙らせるのに、条文はいらん。『当たり前』の一言で足りる」
「……ええ」
私は、頷いた。
前世でも、そうだった。
「そういうものだから」で、二十年、誰も動かなかった。
「ですから、条文で殴りますの」
「殴る」
「ええ。『当たり前』には、反論できません。でも条文には、反論できますわ。書いてあるか、書いていないか。それだけですもの」
ブライアン様は、私を見た。
そして、笑った。
初めて見る、悪い笑い方だった。
「——エミリア」
「はい」
「私は、法学で首席を取り続けてきた。だが、法を『使った』のは、これが初めてだ」
彼は、羊皮紙を巻き上げて、立ち上がった。
「学院長のところへ行こう。私が同席する」
「よろしいんですの? 首席様が、こんな面倒に巻き込まれて」
「面倒?」
彼は、片眼鏡をかけ直した。
「君は、私が退学になりかけた時、二時間、あの部屋にいた。——貸しを返させろ」
***
学院長は、七十を超えた、小さな老人だった。
彼は、私たちの話を、最後まで黙って聞いた。
そして、長い息を吐いた。
「……フォックス嬢。君は、答案のインクの色を見分けた娘だな」
「はい」
「今度は、条文の隙間か」
「隙間ではありませんわ。書いていないことは、禁じられていないだけです」
学院長は、笑わなかった。
代わりに、窓の外を見た。
雪が、降っていた。
「反発が、来る」
「存じております」
「教官会議も、保護者も、卒業生も。『はしたない』『伝統を汚す』と言うだろう。……君は、それに耐えられるかね」
「私、悪評には慣れておりますの」
「君は、な」
学院長の声が、少し低くなった。
「だが、君に続く娘たちは、どうだ」
——。
私は、言葉に詰まった。
「男に頭を下げた娘」「はしたない娘」。そう呼ばれるのは、君ではない。君は、もう呼ばれ慣れている。だが、初めてそう呼ばれる娘は、耐えられるかね」
雪の音が、聞こえるほど、静かだった。
やがて、私は、口を開いた。
「……わかりませんわ」
「ほう」
「耐えられるかどうかは、その子が決めることです。私が決めることではありません」
私は、まっすぐ、学院長を見た。
「私が申し上げているのは、ただ一つ。——『やらない』ことを、その子に選ばせてください。今は、『やれない』のですから」
学院長は、私を、じっと見ていた。
長い、長い沈黙だった。
そして、彼は、机の引き出しから、印章を取り出した。
「……解釈の告示を出す」
「!」
「学則第七章第二条は、参加成立の一形態を定めたものであり、女子生徒より男子生徒への申し込みを、これを禁ずるものではない。——以上」
彼は、羊皮紙に、印を押した。
そして、ぽつりと言った。
「わしは、四十年、この学院におる」
「はい」
「四十年、舞踏会の夜には、寮の窓の灯りが、いくつも消えておった」
老人の手が、少しだけ、震えていた。
「……音楽が、聞こえるそうだな。寮まで」
***
告示は、翌朝、掲示板に貼り出された。
学院が、揺れた。
『女子から、男子に申し込める』
その一行が、廊下という廊下を、駆け抜けていった。
「はしたない!」
「二百年の伝統を、なんだと思っているの」
「フォックス家の令嬢が言い出したそうよ。……ああ、あの」
予想通りの声が、予想通りの場所から上がった。
けれど、それと同じくらい——
いいえ。それよりずっと多く。
廊下のあちこちで、令嬢たちが、掲示板の前に立ち止まっていた。
黙って。
じっと、その一行を、読んでいた。
***
「エミリア様!!」
ソフィアが、飛び込んできた。
「見ました! 掲示! すごいです! これで、これで——」
彼女は、そこで、言葉を止めた。
そして、両手を、ぎゅっと握った。
「……これで、わたしも、誘えるんですね」
「ええ」
「……」
ソフィアは、しばらく、その場に立っていた。
顔が、真っ赤になっていた。
そして、消え入りそうな声で、言った。
「……こわい、です」
***
その日の夜、私は、企画書の前で、羽根ペンを動かせずにいた。
告示は、出た。
制度は、変わった。
権利は、手に入った。
——それで、何人が、申し込んだと思う?
一人よ。
たった、一人。
三年生の令嬢が、一人。幼馴染の男子に、震える手で、手紙を渡したそうだ。
それだけ。
五十三人のうち、五十二人が、動かなかった。
「……そうよね」
私は、羽根ペンを置いた。
そうよね。
わかっていたわ。
「誘って、断られたら」
ソフィアは、そう言った。
「今は、誘われないだけです。でも、誘って、断られたら……わたし、『誘っても断られる女』に、なってしまいます」
——ああ。
そうだったわね。
私は、忘れていた。
いいえ、忘れていたのではない。
私は、知らなかったのだ。
前世で、私は、企画書を突き返され続けた。何度も、何度も。だから、断られることに、慣れてしまった。
慣れるまでに、どれだけ泣いたかも、忘れてしまった。
——最初の一回が、いちばん、怖いのに。
***
「マリー」
「はい」
「私、間違えたわ」
私は、天井を見上げた。
「扉の鍵を開けたら、みんな出てくると思っていたの。……でも、違うのね。鍵が開いていても、扉の向こうに何があるかわからなければ、人は出ないんだわ」
「……お嬢様」
「前にいた場所で、私、企画を通すのが得意だったのよ。仕組みを作って、道筋を引いて、あとは走らせるだけ。それで、たいていのことは、うまくいったの」
私は、両手で顔を覆った。
「でもこれ、仕組みの問題じゃないわ」
心の、問題だ。
そして私は、人の心を、企画書に落とし込む方法を、知らない。
「……どうすればいいのかしら」
答えは、なかった。
マリーは、何も言わずに、私の隣に座った。
蝋燭の火が、揺れた。
***
翌日の昼、食堂で。
ロブ王子が、ものすごく不機嫌な顔で、私の隣に座った。
「……なんですの、その顔」
「なんでもない」
「なんでもない人は、そんな顔をしませんわ」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、忌々しそうに言った。
「今朝、俺の部屋の前に、手紙が、十六通あった」
「……あら」
「十六通だぞ。扉が、開かなかった」
私は、思わず吹き出した。
「よかったですわね、殿下。モテて」
「よくない」
「あら、なぜ?」
「——お前が、この制度を作ったからだ」
彼は、私を睨んだ。
その顔が、あまりにも本気で不機嫌だったので、私は、なんだか、面白くなってきた。
「殿下。手紙は、お開きになりまして?」
「開くわけがないだろう」
「なぜ」
「……」
彼は、答えなかった。
答えずに、スープを飲んだ。
そして、ぼそりと言った。
「俺が誰かを誘えば、その娘が、政争に巻き込まれる」
——。
私は、スプーンを止めた。
「だから俺は、誰も誘わない。誰の申し込みも、受けない。……それが、いちばん、誰も傷つかん」
彼は、まっすぐ前を見ていた。
その横顔が、あの日の掲示板の前と、同じ顔をしていた。
一位のすぐ下に、自分の名前を見つけた時の。
「……殿下」
「なんだ」
「あなた、それ、誰に決められましたの?」
彼の手が、止まった。
「兄上ですか。それとも、王妃陛下? 父上? ……それとも、この国の誰か、名前もわからない大人たちの都合?」
「エミリア」
「私、五十三人の娘に、『やらない』ことを選ばせてくださいと、学院長に申し上げましたの」
私は、彼を見た。
「殿下。あなたは、『誘わない』ことを、ご自分で選びまして?」
長い、沈黙が落ちた。
ロブ王子は、スプーンを置いた。
そして、初めて、私の方を、まっすぐ見た。
「……ずるいぞ、お前」
「あら、なぜ?」
「今のは、俺の話じゃない」
彼は、椅子の背にもたれて、天井を仰いだ。
「今のは、お前が、自分に言った言葉だろう」
——。
私は、何も、言い返せなかった。
***
その夜。
私は、寮の窓を開けて、雪の降る中庭を見ていた。
五十二人。
まだ、誰も、動いていない。
制度は、変わった。
でも、心は、変わらない。
——なら、どうする?
私は、白い息を吐いた。
前世の私が、こういう時に何をしたか、思い出そうとした。
……ああ。
そういえば。
新人の頃、私は、企画を出すのが怖かった。
出せば、笑われる。突き返される。「これだからゆとりは」と言われる。
それでも私が、初めての企画書を出せたのは。
——先輩が、先に、出したからだ。
自分の企画書を、私の目の前で、ぼろぼろに突き返されて。
それでも、平気な顔で、次の企画書を書きはじめたからだ。
「……あら」
私は、窓の縁を、指で叩いた。
「なあんだ」
簡単なことじゃないの。
誰かが、先に、やってみせればいいのよ。
誘って、断られて、それでも、平気な顔で笑ってみせる女が、一人。
——たった一人、いればいいの。
私は、部屋の中を振り返った。
「マリー! 起きて!」
「……まだ、寝ておりません」
「上着を取って! 出かけますわ!」
「こんな夜更けに、どちらへ!?」
私は、笑った。
たぶん、ものすごく、悪い顔をしていたと思う。
「決まっているでしょう。——**振られに**行くのよ」




