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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第30話】字を書かない人

包みが届いたのは、その週の終わりだった。


寮の受付で名前を呼ばれて、私——マリーは、小さな麻布の包みを受け取った。


差出人の名は、ない。


けれど、結び目を見た瞬間にわかった。


母だ。


母は、荷を結ぶとき、必ず二度、逆向きに結ぶ。ほどけないように、ではない。ほどく人間の手が、急がなくて済むように。


「マリー? どうかしまして?」


お嬢様の声がして、私は慌てて包みを背中に隠した。


隠してから、自分でも驚いた。


なぜ、隠したのだろう。


「……なんでもございません」


「そう」


お嬢様は、それ以上、何も聞かなかった。


この方は、そういう方だ。踏み込むべき時と、待つべき時を、恐ろしく正確に見分ける。前世の現場で覚えた、と本人は言うけれど、あれは覚えて身につくものではないと思う。


私は、部屋の隅で、包みを開いた。


***


出てきたのは、木の匙だった。


小さな、子供用の。持ち手のところに、たどたどしい刻みで、花のかたちが彫ってある。


——ああ。


私は、思わず、口を押さえた。


覚えている。


本物のお嬢様が、四つか五つの頃、これで粥を召し上がっていた。


母が彫ったのだ。木こりの倅だった父から、ただ一つ譲り受けた小刀で。


『お嬢様、お花ですよ。ほら、お花』


母がそう言うと、お嬢様は、笑った。


——笑ったのだ。


あの頃は、まだ。


包みの中には、それだけだった。


手紙は、ない。


一枚も。


私は、しばらく、その匙を見ていた。


そして、理解した。


母は、字を書かない。


いや——書けないのではない。


書かないのだ。


書けば、読まれるから。


伯爵家の使用人の手紙は、屋敷を出る前に、必ず一度、家令の手を通る。母はそれを知っている。だから母は、二十年、一度も、手紙を書いたことがない。


伝えたいことがあるときは、物を送る。


物には、罪がない。


匙は、ただの匙だ。誰が咎められる?


だから、この匙が言っていることを読み解けるのは、この世でたった一人。


私だけだ。


——母は、何を言おうとしているのだろう。


***


その夜、私は眠れなかった。


匙を握って、寝台の上で、膝を抱えていた。


思い出すのは、屋敷のことばかりだった。


私は、あの屋敷の使用人棟で生まれた。


母は、シャーロット様——本物のお嬢様の、お母様の乳母だった人だ。だから、お嬢様がお生まれになった時も、当たり前のように乳母になった。


私は、乳母の娘。


つまり、生まれた時から、あの屋敷の「持ち物」だった。


お嬢様と、乳を分けて飲んだ。


同じ部屋で、寝た。


三つの頃までは、たぶん、姉妹のようなものだったのだと思う。


——けれど。


八年前、旦那様と奥様が亡くなって、ミラー様が屋敷に入られてから、すべてが変わった。


私は使用人棟に移された。お嬢様は、別館に閉じ込められた。


母は、乳母の役を解かれた。


そして、あの日から、母は、お嬢様の名前を口にしなくなった。


***


私が学院に入ったのは、一年前だ。


学院には、平民の給費生の枠が、学年に三つだけある。試験は年に一度。母が、私に読み書きと算術を叩き込んだのは、たぶん、この日のためだった。


「マリー。あんたは、この屋敷を出なさい」


合格の報せが来た日、母はそう言った。


嬉しそうでは、なかった。


「出て、二度と戻ってくるんじゃないよ」


「お母さんは?」


「あたしは、いいんだよ」


母は、笑った。


あの笑い方を、私は知っている。


——お嬢様が、震える手を隠して笑う時と、同じ笑い方だ。


***


私は、屋敷を出なかった。


いえ、出たけれど、戻った。


学院の寮に入って、三月も経たないうちに、私は伯爵家に願い出た。


『お嬢様付きのメイドとして、学院に随行させてください』


家令は、鼻で笑った。


そんな役目はない。伯爵家の令嬢は、まだ学院にすら入っていない。だいたい、なぜ給費生の娘が、わざわざ屋敷に戻る必要がある?


私は、こう答えた。


『私は、乳母の娘です。他に行く場所がありません』


家令は、都合のいい奴隷が一人増えた、という顔をして、頷いた。


——本当の理由は、言わなかった。


私が屋敷に戻った理由は、ひとつだ。


別館の窓に、灯りが点かなくなったからだ。


***


本物のお嬢様は、その頃、もう、笑わなかった。


私が茶を運んでも、礼を言わなかった。


私が名前を呼んでも、返事をしなかった。


椅子に座って、窓の外を見て、一日が終わる。


人形だ、と使用人たちは言った。


伯爵家の、壊れた人形。


私は、それでも毎日、部屋に行った。


母が「行くな」と言ったから、なおのこと行った。


そして、ある日、お嬢様が、たった一度だけ、口を開いた。


私が、髪を梳いていた時だ。


『……マリー』


『はい、お嬢様』


『あなた、逃げなさい』


私は、櫛を落とした。


『私のそばにいると、あなたが、殴られるわ』


それが、本物のお嬢様が、私に言った、最後の言葉だった。


その二月後、お嬢様は王城に呼ばれ、呪いを受けて——


そして、目を覚ました。


***


目を覚ましたお嬢様は、別人だった。


初日から、私に「今日は何日?」と聞いた。父親の呼び方を聞いた。国の名前すら知らないようだった。


呪いのせいだと、みんなが言った。


記憶が飛んだのだ、と。


私も、そう思うことにした。


——けれど。


私は、知っている。


八年間、あの部屋で、一度も笑わなかった娘の目を、私は知っている。


今のお嬢様は、笑う。


大声で笑う。企み事をしている時は、鼻歌まで歌う。徹夜で図面を引いて、朝、目の下に隈を作って、それでも笑っている。


前世がどうの、と、時々おかしなことを口走る。


……私は、何も聞かない。


聞いてはいけないことは、聞かないものだ。


母から、そう習った。


私が知っているのは、ただ一つ。


八年間、誰にも助けられなかったあの部屋の窓に、今、灯りが点いているということだけ。


それで、十分だ。


***


「マリー。起きてる?」


朝、部屋の扉が開いた。


お嬢様が、寝間着のまま、私の寝台の端に腰を下ろした。


私は、匙を握ったまま、起き上がれなかった。


「あなた、一睡もしていないでしょう」


「……お嬢様こそ」


「私はいいのよ。慣れているもの」


そう言って、お嬢様は、私の手元に目を落とした。


匙に。


私は、隠さなかった。


もう、隠せなかった。


「……母からです」


「手紙は?」


「ございません」


「そう」


お嬢様は、少しの間、黙っていた。


そして、静かに言った。


「お母様は、字を書かない方なのね」


私は、息が止まりそうになった。


この方は、なぜ。


「……なぜ、おわかりに」


「だって、二十年も屋敷にいる人が、娘に一通も手紙を書かないなんて、おかしいもの。書けないのではないなら、書かないのよ。……理由は、ひとつしかないわ」


お嬢様は、匙を指さした。


「読まれるからでしょう」


私は、頷いた。


頷いたら、なぜか、涙が出た。


***


「マリー。これ、何を意味していますの?」


「……わかりません」


「わからない?」


「いえ」


私は、匙を握りしめた。


「わかりたく、ないのだと思います」


言葉にした瞬間、それが正解だと、自分でわかった。


「母は、物を送る時、必ず、その物が『いちばん幸せだった頃』のものを選びます。……この匙は、お嬢様が、まだ笑っておられた頃のものです」


「……」


「幸せだった頃のものを、わざわざ、今、送ってくるということは」


私の声が、震えた。


「もう、これを渡す機会が、ないかもしれないと、思っているということです」


部屋が、しんとした。


お嬢様は、しばらく、何も言わなかった。


それから、ゆっくりと立ち上がって、窓を開けた。


朝の風が入ってきた。


「マリー。屋敷に帰りたい?」


「……はい」


私は、正直に答えた。


「帰って、母を、連れ出したいです」


「連れ出して、どうするの」


「わかりません。ですが、あの屋敷にいたら、母は」


「殺されるわね」


お嬢様は、あっさりと言った。


その言い方に、私は、かえって救われた。誰も、はっきり言ってくれなかったから。


「でも、あなたが今、帰ってはだめ」


「!」


「マリー。よく聞いて」


お嬢様が、振り返った。


朝日を背にして、その顔は、逆光でよく見えなかった。


「夫人は、私を売ろうとして、失敗したの。人攫いは捕まって、衛兵の手に渡った。……今、あの人がいちばん恐れているのは、その線が自分まで届くことよ」


「……はい」


「だから、あの人は、次にこうするわ。——**自分と私を繋ぐ糸を、全部切る**」


背筋が、凍った。


「屋敷の中で、私に親切だった人間。私の荷物に触れた人間。私のことを知っている人間。……一人ずつ、辞めさせるか、遠くへやるか、口を封じるか」


「母は、その、筆頭です」


「そうよ」


お嬢様は、頷いた。


「あなたが今、屋敷に飛び込んだら、あの人は喜ぶわ。人質が、一人から二人に増えるんですもの」


私は、拳を握った。


爪が、掌に食い込んだ。


「では、どうすれば」


「連れ出すのよ。ただし、正面から」


「正面?」


お嬢様は、笑った。


その笑い方を、私は知っている。


企み事をしている時の、あの、悪い顔だ。


「王弟府の監査が入りますわ。近いうちに、必ず。……その時、屋敷の使用人は、全員、聴取を受けるの」


「……!」


「聴取を受けた使用人を、その後で解雇したら、どうなると思う? 『口封じ』ですわ。監査官の目の前で、そんな真似ができまして?」


私は、言葉を失った。


「マリー。あなたのお母様は、屋敷でいちばん古い使用人よ。八年間の全部を見ている。……あの人は、証人なの」


お嬢様は、机の上の紙を取った。


『ざまあ大作戦・企画書』


昨日、新しい一行が書き足されたばかりの、あの紙だ。


そこに、お嬢様は、さらに書き足した。


『一、マリーの母を、屋敷から出す。

 (※証人として王弟府の保護下に置く。解雇も口封じも、できなくなる)』


「これでいい?」


私は、答えられなかった。


代わりに、床に膝をついた。


「マリー!? ちょっと、何を——」


「お嬢様」


私は、頭を下げた。


「私、一度だけ、お尋ねしてもよろしいですか」


「……なあに」


「なぜ、そこまでしてくださるのですか」


顔を上げられなかった。


だって、私は、ただの使用人だ。


乳母の娘で、屋敷の持ち物で、給費生で。この方にとって、便利な情報屋にすぎない。


長い沈黙があった。


やがて、お嬢様は、私の前に、しゃがみ込んだ。


そして、ものすごく不機嫌そうな声で、言った。


「あなた、まだそんなこと言ってますの?」


「え」


「私、前にいた場所で、上司にさんざん言われましたのよ。『代わりはいくらでもいる』って」


お嬢様は、私の目を、まっすぐ見た。


「あれ、いちばん人を殺す言葉だわ」


「……」


「だから私、二度と誰にも言わないと決めましたの。——マリー。あなたの代わりは、いないのよ」


私の視界が、ぐしゃりと歪んだ。


「泣かないの。朝から目が腫れるわよ」


「……申し訳、ありません」


「謝るのも禁止」


お嬢様は、立ち上がって、伸びをした。


「さ、朝食に行きましょう。今日は、ものすごくお腹が空いているの」


***


——ひとつだけ、書いておきたいことがある。


その日の朝食で、お嬢様は、パンを二口しか召し上がらなかった。


ものすごくお腹が空いている、と仰ったのに。


匙を持つ手が、少し、震えていた。


私は、何も言わなかった。


けれど、私は、見ている。


この方は、時々、ひどく疲れる。


戦った日の後は、必ず。


誰かを助けた日の後は、いつも。


……お嬢様。


私は、あなたのお顔を、もう見ておりません。


私が見ているのは、震えているその手のほうです。

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