【第29話】母の顔をした人
人攫いは、三人とも、口を割らなかった。
正確に言うと、割ったのだけれど、出てきたのは「金で雇われた」「顔は見ていない」「使いの者から紙を渡された」——それだけ。
玄人は、自分では紙に触らない。
そういえば、私、それを最近どこかで言った気がするわ。
「では、紙のほうを追いましょう」
学院の図書館の隅で、私はマリーに言った。
「あの似顔絵は、私が入学前に描かせた肖像画の写しですわ。原本は、私の亜空間スーツケースの中。一枚、足りない」
「はい」
「つまり、あの束から抜かれたのは、屋敷にいた時ですのよ。学院に来てからは、ずっと私が持っていますもの」
マリーの顔が、こわばった。
彼女は、賢い子だ。だからもう、この先に何があるか、わかってしまったのだと思う。
「マリー。屋敷の中で、私の荷物に触れた人間は?」
「……お嬢様。それは」
「言いなさい」
長い沈黙のあと、彼女は、目を伏せて言った。
「奥様が、お嬢様のご出立の前夜、別館にお入りになりました」
***
ドリス・フォックス。
伯爵夫人。クリスとフローラの母。
そして——亡き父ランスロットを、二十年以上、想い続けていた女。
第一話でマリーが教えてくれた時、私は正直、その情報を軽く扱っていた。ドラマの背景設定くらいのつもりで聞いていたのよ。よくある話じゃないの、と。
でも今、私は、その「よくある話」の正体を、たぶん、初めて理解しかけている。
好きだった男が、別の女を選んだ。
その女は死んだ。男も死んだ。
残ったのは——**あの女に生き写しの顔をした、娘**。
その娘が、屋敷の中で、毎日、目の前を歩いている。
八年間。
***
「証拠が、ございません」
寮の部屋で、マリーは苦しそうに言った。
「奥様が別館にお入りになったのは事実です。ですが、それだけです。肖像画を抜いたところを見た者はおりません。人攫いも、奥様の名を出しておりません」
「ええ。出せるはずがないわ。使いを何人か挟んでいるもの」
私は、寝台に座って、天井を見ていた。
「マリー。今日、私、生まれて初めて、人を殺したいと思ったの」
「お嬢様!」
「安心なさい。やらないわ。昔いた場所で、そういう人間の末路を、何十本もドラマで見たもの」
私は、笑ってみせた。
うまく笑えたかしら。自信がないわ。
「でもね、マリー。あの人は、私を売ったのよ。金のためじゃない。……たぶん、それすら、どうでもよかったんだと思う」
「……はい」
「あの人は、ただ、私の顔を、この世から消したかったんですわ」
言葉にしてみて、初めて、自分の指がまた冷たくなっているのに気がついた。
「傷はつけるな、と書いてありましたわね」
紙の隅の、あの一行。
「あれ、優しさじゃないのよ。値崩れするからですわ。……あの人は、私を、南の商館に売り飛ばして、そのまま生きたまま、遠くで飼い殺しにさせたかった。死体は残らない。噂も残らない。ある日、フォックス家の娘が、ふっと社交界から消えるだけ」
私は、両手で顔を覆った。
「——そうしたら、あの人の目の前から、シャーロット様の顔が、やっと消えるんですもの」
***
不思議なもので、そこまで言葉にしたら、少しだけ、頭が冷えた。
前世でも、そうだった。
腹の立つことがあった時、私は必ず、それを企画書の形に書き起こした。感情を、箇条書きにする。理不尽を、構成表に落とし込む。
そうすると、化け物の輪郭が見えるのよ。
輪郭が見えたものは、もう、化け物じゃないわ。
私は、机に向かって、新しい紙を広げた。
『ざまあ大作戦・企画書』
上のほうに、そう書いてある。演習の後に書きはじめて、まだ一行も進んでいなかった紙だ。
その下に、私は書き足した。
『登場人物・追加
ドリス・フォックス伯爵夫人。
罪状:肖像画の窃盗。人身売買の教唆。
動機:憎悪。……ではない。
※要調査。この人は、たぶん、憎んですらいない』
そこまで書いて、私は羽根ペンを止めた。
——憎んで、すらいない?
自分で書いておいて、自分で驚いた。
でも、そうなのよ。
憎むというのは、相手を「人間」として見るということだわ。
あの人は、たぶん、私を人間として見ていない。
八年間、一度も、私の名前を呼ばなかった。
「あの子」「あれ」「その娘」。
……ああ。
そうだった。
思い出したわ。
第二話の、あの憂鬱な夕食。ドリス夫人は、私に一度も話しかけなかった。私が激辛料理を平然と食べても、こちらを見もしなかった。
私は、あの時、無関心だと思っていた。
違うのね。
あの人にとって、私は「シャーロットの顔をした、置き物」なのよ。
置き物なら、売れる。
置き物なら、消せる。
——なるほど。よくわかりましたわ。
私は、羽根ペンを持ち直した。
『対策:
一、この件を、伯爵に知らせる。
(※重要。伯爵は、これを知らない)』
そう。ここなのよ、今日いちばんの発見は。
***
考えてもみて。
ミラー伯爵は、けちな男だわ。八年かけて私から魔力を搾り取って、領地の魔力灯を灯し続けた男よ。
そういう男が、資産を、南の商館に叩き売ると思う?
思わないわ。
あの人なら、もっと高く売る。
「傾国の美姫」「王家の加護持ち」——そんな札のついた娘を、隣国の王族に売り込むか、王宮の政略の駒として競りにかけるか。少なくとも、屋敷が三つぶんの端金で手放すような男じゃない。
つまり。
ドリス夫人は、夫に黙って、夫の資産を、勝手に、安値で、処分しようとしたのだ。
「……ふふ」
「お嬢様?」
「マリー。私、あの夫婦のこと、少し誤解していたみたい」
私は、羽根ペンの尻で、こめかみを叩いた。
「あの二人、共犯じゃありませんわ。——別々に、私を食い物にしていたのよ」
伯爵は、私を「資産」だと思っている。
夫人は、私を「置き物」だと思っている。
そして二人は、そのことを、お互いに話していない。
「マリー。この情報、いま使ってはだめよ。大事に取っておくの」
「……取っておく、とは」
「いちばん効く場面まで、ね」
前世で覚えたことのひとつ。
決定的な証拠は、掴んだ瞬間に出すものじゃない。
相手が、全員、同じ部屋に揃った時に出すものよ。
そのほうが、はるかに、面白いんですもの。
***
「お嬢様。ひとつ、申し上げてもよろしいですか」
寝る前、マリーが、蝋燭を消しながら言った。
「なあに」
「お嬢様は今日、笑っていらっしゃいます」
「あら。おかしいかしら」
「いいえ」
彼女は、暗闇の中で、静かに言った。
「……ですが、今朝、馬車の中では、手が震えておいででした」
私は、答えなかった。
「わたしは、震えていらっしゃるお嬢様のほうを、覚えておこうと思います」
「……なによ、それ」
「笑っていらっしゃる時のお嬢様は、たいてい、何かを我慢していらっしゃるので」
——この子は。
本当に、この子は。
私は、毛布を頭までかぶった。
「おやすみ、マリー」
「おやすみなさいませ、お嬢様」
***
その夜、私は、なかなか寝つけなかった。
暗い天井を見上げながら、ひとつだけ、どうしても引っかかっていることがあった。
ドリス夫人は、なぜ、今なのだろう。
八年間、あの人には、いくらでも機会があった。屋敷の中で、私は無力だった。地下に繋がれていたも同然の子供だった。売ろうと思えば、いつでも売れたはずだ。
なのに、やらなかった。
やったのは、私が学院に入って、演習で優勝して、学院祭を成功させて——
……社交界で、噂されはじめてから。
「……ああ」
私は、暗闇の中で、目を開けた。
そういうこと。
あの人は、私が「置き物」でいるうちは、放っておけたのよ。
置き物は、動かないもの。
動き出した置き物は、もう、置き物じゃない。
——恐ろしくなったのね。
シャーロット様の顔をしたものが、屋敷を出て、笑って、人を集めて、光の当たる場所に立ちはじめたことが。
あの人は、たぶん、今も、屋敷の暗い廊下で、あの絵の前に立っている。
亡くなった義姉の、肖像画の前に。
「……いい気味だわ」
そう呟いてみた。
思ったより、ちっとも、いい気分ではなかった。




