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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第28話】値札のついた顔

学院祭が終わって、三日が過ぎた。


私は、王都の商店街を歩いていた。


「お嬢様。本当に、お一人で行かせるわけには参りません」


「一人じゃないでしょう。あなたがいるじゃないの」


「わたし一人では、心もとないと申し上げているのです」


マリーは、朝からずっと機嫌が悪い。


そして、その後ろを、のっそりと歩いている影がひとつ。


「……菓子」


「ええ、ええ。ちゃんと買って差し上げますわ。荷物持ちの報酬ですもの」


アッシュ様である。


学院一の巨躯が、令嬢の買い物袋を両手に提げて、菓子の一言だけ言って黙って歩いている。ものすごく目立つ。学院祭で「怪物」を演じて以来、この人を怖がる生徒は激減したけれど、街の人にはまだ「怪物」なのよね。すれ違う人が、ぎょっとして道を空けるもの。


まあ、道が空くのは便利だわ。


今日の目的は、糸だ。


星の女王に選ばれた、刺繍の子。彼女に礼をしたかった。三年かけて縫った学院の全景を、あの子は「糸が高くて、空の色だけ最後まで買えませんでした」と言ったのだ。


だから、空の色を買いに来た。


「この店ですわね」


王都でいちばん古い、染め糸の店。狭い店内に、天井まで糸が積み上がっている。


私は、店の奥で足を止めた。


……見えないわ。


このメガネ、色が沈むのよね。


雰囲気を平凡にする魔道具のメガネ。街に出る時は、必ずかけることにしている。この顔で王都を歩くと、馬車が止まるし、人だかりができるし、ろくなことがないもの。


でも、糸の色を選ぶのに、これでは話にならない。


「マリー。ちょっとだけよ」


私は、メガネを外した。


——ほんの、三十秒だった。


空の色を三種類、日にかざして、いちばん淡い一巻きを選んだ。それだけ。


私はすぐにメガネをかけ直して、代金を払い、店を出た。


店主が、口を開けたまま、動かなくなっていたけれど。


まあ、よくあることだわ。


***


異変に気づいたのは、その十分後だった。


「……マリー」


「はい」


「後ろの、灰色の外套の男。糸屋の前にもいたわね」


マリーの返事は、早かった。


「三人おります。灰色、茶色、それと、向かいの屋根の上に一人」


さすがだわ。私より先に数えていたのね。


「屋根の上」


「はい。あれは、見張りです」


心臓が、ひとつ、大きく鳴った。


——見張り。


つまり、こちらの動きを、上から追っている。


つまり、行き先を、先回りしている。


つまり、これは、たまたまではない。


「アッシュ様」


「ん」


「菓子屋は、あとにいたしましょう。今すぐ、学院に戻りますわ」


アッシュ様は、荷物を提げたまま、私を見下ろした。


そして、初めて、袋を持つ手をひとつ、空にした。


……この人、気づいていたのね。たぶん、私より、ずっと前から。


***


大通りへ出れば人目がある。


そう思って角を曲がったら、そこは、人のいない裏道だった。


しまった。


道を、間違えたのではない。


——間違えさせられたのだ。


前世で、私は何度もロケハンをした。だからわかる。人の流れは、作れるのよ。屋台をひとつ置くだけで、通りは死ぬ。


灰色の外套が、前を塞いだ。


後ろから、二人。


「フォックス伯爵家の、ご令嬢で?」


男が、笑った。


その笑い方で、全部わかった。


こいつらは、私が誰かを知っている。屋敷の紋も、学院の制服も見ていない。ただ、顔を見に来たのだ。


「……人違いですわ」


「その顔で、そりゃ通らねえよ」


男が、一歩、踏み込んだ。


「ずいぶん探したぜ。噂に聞いてた通りだ。……いや、噂より上等だ。これなら、南の商館で、屋敷が三つ買える」


——屋敷が、三つ。


私の頭の中で、何かが、ぱきりと音を立てた。


値段が、ついている。


この顔に。


私が、生まれてから、一度も選んでいないこの顔に。


「マリー、下がって」


私は、そう言ったつもりだった。


でも、声が出ていなかった。


膝が、笑っている。


……なによ、これ。


私は、視聴率という化け物と三年戦った女よ。理不尽な怒鳴り声も、徹夜も、土下座も、全部やってきた女よ。


なのに、なんで。


なんで、こんなに、身体が冷たいの。


——ああ。


思い出した。


最後の現場。


主演のアイドルが、スタジオの裏口から出てきた瞬間。人混みの中から、一人の男が、まっすぐ歩いてきたときの、あの、笑い方。


あの男も、こんなふうに笑っていた。


好きだから、殺すのだと。あの男は、そう言った。


私は、彼女を庇って、割って入って——


そこで、私の二十三年は、終わったのだ。


「おい、この女、動かねえぞ」


「都合がいい。担げ」


男の手が、伸びてきた。


その手が、私の腕を掴む寸前で。


——止まった。


***


音が、しなかった。


それが、いちばん怖かったと思う。


灰色の外套の男が、私の目の前から、消えていた。


いえ、消えたのではない。


三歩ぶん、後ろに、飛んでいた。


石壁に叩きつけられた男が、ずるずると崩れ落ちるのを、私はぼんやりと見ていた。


私の前に、影が立っていた。


大きな、背中だった。


「……アッシュ、様」


彼は、答えなかった。


灰色の髪が、逆立っている。空気が、みしり、と軋んだ。


学院祭の舞台で、この人が魔力を解き放った時、講堂の全員が立ち上がって、震えながら拍手をした。


でも今、この裏道に立っているのは、拍手される怪物ではない。


ただ、怒っている少年だった。


「て、てめえ——!」


残った二人が、剣を抜いた。


アッシュ様は、それを見なかった。


ただ、地面に手をついた。


石畳が、割れた。


***


三人が全員転がるまで、たぶん、十秒もかかっていない。


マリーが、私の前に膝をついて、両手で私の頬を挟んだ。


「お嬢様。お嬢様。ここです。息をなさって」


「……マリー」


「はい」


「私、いま、逃げそこねたわ」


「はい」


「情けないったら」


私は、笑おうとした。


失敗した。


代わりに、みっともなく、歯が鳴った。


マリーは、何も言わなかった。ただ、私の背中に手を回して、そのまま、しばらく、そうしていた。


アッシュ様が、ゆっくりと、こちらを振り返った。


魔力の余韻で、髪がまだ逆立っている。目が、ぎらついている。彼を「怪物」と呼んだ人たちが見たら、腰を抜かすだろう。


その怪物が、私の前で、膝をついた。


そして、恐ろしくぎこちない手つきで、私の頭に、大きな掌を乗せた。


「……もう、平気だ」


たぶん、彼が知っている、いちばん優しい仕草だったのだと思う。


弟に、してやりたかった仕草かもしれない。


私は、しばらく、その掌の重さを受け止めていた。


「……アッシュ様」


「ん」


「菓子、二十個で足りますかしら」


彼は、少し考えて、


「……三十」


「強欲ですわね!」


やっと、声が出た。


***


衛兵が来て、三人は連れて行かれた。


マリーが、その場でひとつだけ、押さえていた。


灰色の外套の男の懐から、彼女がすっと抜き取った、一枚の紙。


学院に戻る馬車の中で、それを開いて——私は、黙り込んだ。


似顔絵だった。


私の。


しかも、それは、私が知っている絵だった。


「マリー」


「はい」


「これ、私が入学前に描かせて、F4の三人にお送りした、肖像画の写しだわ」


亜空間スーツケースの底で、一枚、数が足りなかった、あの束の。


紙の隅に、小さな文字が書いてある。


『フォックス、加護あり。生きたまま。傷はつけるな』


生きたまま。


傷は、つけるな。


商品として。


私は、その紙を、膝の上でゆっくりと畳んだ。


指が、震えていた。怒りなのか、恐怖なのか、自分でもわからなかった。


「……ねえ、マリー」


「はい」


「加護って、なんなの」


マリーは、答えなかった。


答えられないのだ。この子も知らないのだから。


王家しか知らない。


契約書は、王宮の書庫にある。


閲覧許可は、まだ、下りていない。


——ふざけないでほしいわ。


私の顔に、値札をつけたのは誰?


私の身体に、呪いをかけたのは誰?


そして、その全部を「お前のためだ」と言いながら、私に一言も説明しないのは、誰?


窓の外を、王都の灯りが流れていく。


私は、膝の上の紙を、ぎゅっと握りしめた。


「マリー。企画書を、一本増やしますわ」


「……お嬢様」


「呪いの正体を、暴きます。今度こそ、絶対に」


***


寮に戻ったのは、夜だった。


湯を浴びて、寝台に座って、私は、自分の掌を見ていた。


まだ、震えている。


……情けないわね。


十二歳の身体を言い訳にするのは、卑怯だとわかっている。でも、それにしても。


前世の私なら、もっと、うまく立ち回れたはずだ。


叫んで、走って、店に飛び込んで、人を呼べたはずだ。


なのに、私は、一歩も動けなかった。


膝が笑って、息が上がって、指の先が氷みたいに冷たくなって。


——ねえ。


この身体、どうなっているの?


私は、掌を、ぎゅっと握った。


そして、開いた。


まだ、震えている。


「……寝ましょう」


考えても、答えが出ない時は、寝るに限る。前世で覚えた、数少ない知恵よ。


灯りを消して、目を閉じる。


その日、私は、久しぶりに前世の夢を見た。


スタジオの裏口。人混み。まっすぐ歩いてくる男。


夢の中で、私は、また同じことをした。


割って入って、腕を広げて、彼女を庇った。


——ばかね。


夢の中でくらい、逃げればいいのに。


でも、私は、逃げなかった。


たぶん、何度やっても、私はそうする。


そういう女なのよ。前世も、今世も。


だからきっと、私は、この呪いにも、負けないのだと思う。


……そうよ。


負けてなんて、やらないわ。

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