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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第25話】名もなき狼と、名を得た怪物

学院祭、最終日。


大講堂は、満員だった。


王都から招かれた貴族たち。教官。全校の生徒。最前列には、学院長と並んで——王太子ルーカスの姿もあった。金髪に青い瞳。ロブ王子とは似ても似つかない、絵に描いたような王族。


その隣には、栗色の髪の三年生。ヴィオラ・ハーグレイヴ。扇で口元を隠して、退屈そうに座っている。


役者は揃ったわね。


私は、舞台袖で、深呼吸をした。


前世で、生放送の本番前、私はいつも同じことを自分に言い聞かせた。


——段取りは全部組んだ。あとは、みんなを信じるだけ。


「エミリア様! 開演です!」


ソフィアの声。舞台監督は、彼女に任せた。あの子、こういう仕切りの才能があるのよ。


幕が、上がった。


前半は、退屈な建国譚だった。


二百年変わらない台詞。二百年変わらない筋。客席から、小さな欠伸が漏れる。招かれた貴族たちは、社交辞令の顔で座っている。


——それでいい。


退屈は、演出よ。落差のための、前フリ。


そして、物語は北の氷の谷へ移る。


怪物の、登場。


照明が、青く落ちた。


舞台の奥から、それは現れた。


身の丈、二メートル半。灰色の毛皮の下から覗く、鋼のような肉体。作り物の牙。そして——


アッシュ・ドスラキが、両腕を広げた瞬間。


その全身から、灰色の魔力が、炎のように噴き上がった。


講堂中が、息を呑んだ。


魔術の実演ではない。制御された演出でもない。それは、六年間、この少年が地の底に押し込め続けてきたものが、生まれて初めて、外に向かって解き放たれた瞬間だった。


大道具の氷山が、彼の一薙ぎで砕け散る。仕込んでおいた紙吹雪の氷片が、青い照明の中を舞う。彼が咆哮すると、魔力の余波で、舞台の松明がいっせいに揺れた。


客席から、悲鳴が上がった。


でも、逃げる者はいなかった。


みんな、目を逸らせなかったのだ。


恐ろしくて、美しくて、目が離せない。——それは、恐怖ではなく、畏怖だった。


私は、舞台袖で、拳を握った。


そうよ、アッシュ様。それがあなた。あなたの力は、人を壊すだけのものじゃない。人を、こんなにも、震わせる。


そして、物語は、クライマックスへ向かう。


銀狼フェンリルが、怪物を追い払う。台本通り。怪物は、敗れて、北の谷へと去っていく。


——ここまでが、二百年の伝統。


ここからが、私の書き足した、たった一場面。


去っていく怪物の背に、ひとりの旅の狼が歩み寄る。


王冠もない。豪華な衣装もない。ただの、みすぼらしいマントを羽織った、名もなき狼。


演じるのは、ロブ・フェンリール。


顔を隠す頭巾の下で、誰も、それが第二王子だとは気づかない。台本にも、配役表にも、その名はない。


名もなき狼が、敗れた怪物に、そっと声をかける。


客席は、静まり返っていた。二百年、この場面を見た者は、誰もいない。


ロブ王子の声が、講堂に、静かに響いた。


「——なぜ、ひとりで谷へ帰る」


怪物が、足を止める。


「お前は、悪者だから追い払われたのではない。ただ、大きすぎただけだ。強すぎただけだ。誰も、お前の力の使い道を、教えてやらなかっただけだ」


アッシュ扮する怪物が、ゆっくりと振り返る。


そして、名もなき狼は、三行目を言った。


台本に、私が書いた、最後の一行。


「——一緒に来い。お前の力が、誰かを守るために使える場所を、俺は知っている」


怪物が、名もなき狼の、差し出した手を取る。


二匹の狼が、並んで、朝焼けの谷を歩いていく。


幕が、下りた。


***


沈黙が、あった。


一拍。二拍。


そして——講堂が、割れた。


拍手だった。


嵐のような、地鳴りのような拍手。招かれた貴族が、教官が、生徒が、全員が立ち上がっていた。


カーテンコール。


役者たちが、並んで一礼する。フェンリル役の代役を務めた一年生。村人役の一年生たち。名もなき狼のロブ王子は、頭巾を目深にかぶったまま、端で静かに頭を下げた。


そして、最後に。


怪物役の、アッシュ・ドスラキが、舞台の中央に進み出た。


作り物の牙を外し、頭の被り物を取る。


灰色の髪の、大きな少年の、素顔が現れた。


十二歳。無口で、無表情で、誰もが「怪物」と呼んで避けてきた少年。


その少年に向かって。


講堂の全員が——立ったまま、拍手を送り続けた。


王太子殿下も。招かれた貴族も。彼を「怪物」と呼んでいた一年生たちも。


誰ひとり、逸らさずに。誰ひとり、怯えずに。ただ、まっすぐに、彼を見て、手を叩いていた。


アッシュ・ドスラキは、その真ん中で、立ち尽くしていた。


生まれて初めて浴びる、自分への拍手の中で。


大きな身体が、微かに、震えていた。


やがて彼は、ぎこちなく、深く、頭を下げた。


顔を上げた時、その頬に、光るものが伝っていた。


——ちなみに。


舞台袖で号泣していた誰かさんのことは、内緒にしておいてあげる。私じゃないわよ。マリーよ。……半分は、私だけど。


***


その夜、打ち上げの中庭で。


アッシュ様は、私の前に立って、しばらく言葉を探していた。


「……エミリア」


「はい」


「怪物の、名前」


「決まりまして?」


彼は、うなずいた。


そして、生まれて初めて聞く、はっきりとした声で言った。


「アッシュ、にした」


私は、目を丸くした。


「……ご自分の、お名前?」


「怪物の名だ。俺の名でもある。……もう、怖くない。俺は、俺の名前で、いる」


名前で、いる。


……私は、どちらの名前で、いるのかしら。


その問いは、胸の奥にしまった。


私は、泣きそうになるのを堪えて、精一杯、偉そうに笑ってみせた。


「よろしい。では、アッシュ様。次の菓子は、あなたの故郷の北の味に寄せてみましたの。召し上がれ」


彼は、包みを受け取って、大事そうに抱えた。


そして、ぼそりと。


「……ありがとう。名前を、二回くれて」


一回は、怪物の名前を訊いてくれたこと。


もう一回は——たぶん、この学院の全員に、彼の名前を、覚えさせたこと。


***


寮に戻って、私は服も脱がずに寝台に倒れ込んだ。


楽しかった。


ものすごく、楽しかった。


……なのに、どうして、こんなに、疲れているのかしら。


窓の外で、秋の風が鳴っていた。

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