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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第24話】銀狼役は、王子ではなく

演劇の稽古が始まって、五日目のことだった。


放課後の講堂に、教官がひとり、青い顔でやってきた。


「エミリア・フォックス。……配役の件で、通達がある」


「はい?」


「主役のフェンリル役だが。ロブ・フェンリール殿下から、辞退の申し出があった」


稽古中の一年生たちが、ざわめいた。


私は、講堂の隅で無言で台本を読んでいた銀髪の王子を見た。


彼は、こちらを見なかった。


「……理由を、伺っても?」


「殿下ご自身の、ご意向だ」


教官の目が、泳いだ。


嘘ね。この人、嘘をつくのが下手だわ。


「わかりました。では、代役を立てます」


私はあっさり引き下がって、稽古を続けた。教官が、ほっとした顔で去っていった。


そして、その夜。


私は、ロブ王子を学院の屋上に呼び出した。


「辞退なさったのは、殿下のご意向ではありませんわね」


星空の下、私が単刀直入に切り出すと、王子は手すりに寄りかかったまま、しばらく黙っていた。


「……なぜ、そう思う」


「殿下、この五日間、稽古のたびに台本を読み込んでいらしたもの。フェンリルの台詞、もう全部覚えていらっしゃるでしょう。やりたくない人間は、台詞を覚えませんわ」


彼が、ふっと息を吐いた。


「……敵わないな、お前には」


「どなたの差し金です?」


長い沈黙のあと、彼は夜空を見上げて、言った。


「母上のところに、ここ数日、立て続けに手紙が届いたそうだ。学院の保護者筋から」


「保護者筋」


「『第二王子殿下が、建国の始祖フェンリルを演じられるとは。まるで次代の王が決まったかのようですな』——と」


背筋が、冷たくなった。


「……そういう、こと」


「銀狼フェンリルは、建国の王だ。その役を、寵姫の子の俺が、全校と、招かれた貴族全員の前で演じる。……それがどう受け取られるか。俺の母の実家は、それを恐れた」


そこで、彼は、ふと言葉を切った。


「……俺の、母の実家」


彼は、その言葉を口にしてから、少し不思議そうな顔をした。


まるで、その家の名を、自分でも知らないというように。


彼は、乾いた笑いをこぼした。


「兄上を差し置いて、俺が王の役をやる。ただの学生劇だ。だが、この国では、ただの学生劇にならない」


「それで、殿下ご自身が辞退したことにして、丸く収めた」


「そうだ」


私は、手すりに並んで、夜の学院を見下ろした。


魔力灯の灯りが、点々と、暗い校舎に散っている。


「殿下。ひとつ、伺ってもよろしいですか」


「なんだ」


「あなた、悔しくはないんですの?」


彼の肩が、わずかに動いた。


「台詞を全部覚えるほど、本当はやりたかったのでしょう? 生まれて初めて、堂々と真ん中に立てるはずだった。……それを、あなたのせいでもないのに、取り上げられた」


「……悔しがっても、何も変わらない」


「変わりませんわね。でも、悔しいものは悔しいでしょう」


王子は、答えなかった。


その沈黙が、答えだった。


やがて、彼は夜空を見上げたまま、ぽつりと言った。


「……エミリア。お前も、誰かにそう言われたことがあるのか」


「目立つな、と?」


「ああ」


私は、笑った。


「いいえ。一度も」


伯爵の声が、耳の奥で聞こえた気がしたけれど。


私は、それを夜風のせいにした。


——ああ、この人も。


アッシュ様と、同じだ。


自分の一番いいものを、出してはいけないと信じている。出せば、誰かが傷つくと。出せば、母が危ういと。


だから、凪いでいる。


十二歳の子供が、二人も三人も、この学院で、必死に自分を押し殺して生きている。


私は、心の中で、そっと決めた。


翌日、私は代役のオーディションを開いた——ことにして、こっそり王子のところへ行った。


「殿下。怪物役の相手役、つまりフェンリル役ですけれど」


「代役は決まったのか」


「いいえ。殿下に、やっていただきますわ」


彼が、眉をひそめた。


「話を聞いていたか? 俺は」


「フェンリル役は、降りていただいて結構です。あの役は、目立ちますもの。母君のお立場に障りますわ」


「では、何を」


私は、にっこりと笑った。


「フェンリルには、台本にない場面をひとつ、足しますの。——建国の後、王となったフェンリルが、追い払った怪物と、たった一度だけ、言葉を交わす場面を」


王子の目が、見開かれた。


「怪物役は、アッシュ様。そして、その相手をするのは、王冠をかぶった王ではなく……ただの、旅の狼です。名もない。台詞も、ほんの三行。誰の目にも留まらない、端役ですわ」


「……端役」


「ええ。二百年の伝統ある建国劇の、どこにも記録されない、名もなき狼の役。——目立ちませんわよ。保証しますわ」


私は、彼の目を見た。


「でも、その三行だけは。誰にも遠慮なく、あなたの声で、あなたの言葉として、言っていただきますわ」


星のない昼の空の下で、狼王子は、長いこと私を見つめていた。


そして、ぽつりと言った。


「……お前は、本当に」


「はい?」


「人の、いちばん出したいものを、掘り当てるのが上手いな」


「あら。演出家ですもの」


私は、台本を彼に押し付けた。


新しく書き足した、三行の台詞が挟んである。


その夜、屋上で、彼がその三行をひとりで読んでいるのを、私はこっそり見ていた。


読み終えた王子は、しばらく空を見上げて——それから、袖で、そっと目元を拭った。


何を書いたかは、内緒。


……本番まで、内緒よ。

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