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元社畜ADは女狐に転生し、狼王子を翻弄する  作者: 鷹居鈴野


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【第22話】切り捨てられた駒

クリスは、翌朝の朝礼のあと、教官室の扉を叩いた。


「わたくしが、教官室から、白紙の答案用紙を盗みました」


その報は、昼前には学院中に広まった。


彼女は、頼まれて盗んだとだけ言い、頼んだ相手の名は、最後まで口にしなかった。


処分は、三日で決まった。停学一ヶ月。奉仕活動百時間。そして、講堂でブライアン様に公開謝罪すること。


退学ではなかった。


「軽すぎる」と憤る生徒もいたし、「フォックス家の縁者だから甘い」と陰口を叩く者もいた。


でも私は、処分を読み上げる学院長の顔を見て、この人が何を考えているのかわかった気がした。


十二歳の子供を、社会から切り離してはいけない。一度でも社会の外に放り出された子供は、二度と戻れなくなる。前世の私が知っている、いくつもの事件のように。


そして学院長は、たぶん、気づいている。


紙を盗んだ娘の背後に、紙を使った誰かがいることに。


だが、証拠がない。証拠がない以上、学院はその名を呼べない。——だから、この処分なのだ。


謝罪の日、講堂の壇上で、クリスは深く頭を下げた。


「ブライアン・シリル様。わたくしは、あなたをお守りするつもりで、教官室から、白紙の答案用紙を一枚、盗みました。あなたが首席を失えば、お父様に家を追われると、そう聞かされて。……愚かにも、それを信じたのです」


彼女の声は、震えていなかった。


「わたくしが盗んだのは、何も書かれていない、ただの白い紙でした。だから、大した罪ではないと思っておりました。……けれど、その白紙は、あなたの筆跡で埋められて、あなたの答案の裏に貼りつけられたのです」


講堂が、静まり返っていた。


「あなたを救うはずの手が、あなたを最も深く傷つけました。……訊くべきでした。その紙が、本当は何に使われるのかを」


「わたくしが差し出した紙で、あなたの名誉が汚されました。手を下したのがわたくしでなくとも、あの紙を運んだのはわたくしです。……申し訳、ありませんでした」


顔を上げた彼女は、泣いていなかった。


ただ、まっすぐに前を見ていた。


ブライアン様は、しばらく黙って彼女を見ていた。


それから、壇上へ歩いていった。


謝罪を受ける側が動くなんて、誰も予想していなかった。講堂がざわめく。


彼は、クリスの前で立ち止まって、上着の内から、麻紐で束ねた便箋の山を取り出した。


クリスの顔から、血の気が引いた。


彼女は知っている。それが何かを。自分が三年間、返事の来ない場所へ投げ続けたものだと。


——ここで、この場で、破り捨てられるのだ、と。


私も、傍聴席で息を止めた。


ブライアン様は、束を両手で持って、深く頭を下げた。


そして、傍聴席の隅々まで届く声で言った。


「三年間、ありがとう」


講堂が、しんとした。


「一通残らず、読んでいる。返事を書かなかったのは、私が臆病だったからだ。あの手紙に救われていたことを、君に言えなかった」


クリスの唇が、声にならずに震えた。


「不正のことは、許さない。私は君を許さないし、忘れもしない。……だが、恨んではいない」


彼は、束を胸に戻した。


「これは、私のものだ。誰にも捨てさせない」


クリスは、その場に崩れ落ちて、声を上げて泣いた。


講堂の誰も、彼女を笑わなかった。


その日の夕方、私は学院の温室で、ヴィオラ・ハーグレイヴに呼び止められた。


「あら、エミリア様。ごきげんよう」


温室は、彼女のお気に入りの場所らしい。栗色の髪の三年生が、白い花に水をやりながら微笑んでいる。


とても、美しい光景だった。


とても、寒気のする光景でもあった。


「ヴィオラ様。ごきげんよう」


「素晴らしい活躍でしたわね、審問会。インクの色ですって? わたくし、感心してしまいましたわ」


「恐れ入りますわ」


「クリス様も、無事に停学で済んで。……本当に、よかったこと」


私は、微笑みを崩さなかった。


この人は、今、私が持っている手札を確かめに来ている。


「ヴィオラ様。ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」


「なんでしょう」


「あなたは、何がお嫌いですの?」


ヴィオラ様の手が、ほんの一瞬止まった。


じょうろの水が、白い花にこぼれ落ちる。


「……妙なことをお聞きになるのね」


「ええ。私、人を理解する時は、好きなものより嫌いなものを聞くことにしていますの。好きなものは飾れますけれど、嫌いなものは隠せませんから」


彼女は、しばらく私を見つめていた。


そして、初めて扇を下ろして、素顔で笑った。


「——身の程を知らない人が、嫌いですわ」


背筋が冷えた。


「フォックス家の娘は、二百年、王家に囲われてきましたわね。呪われて、力を封じられて、それでも国が娘たちを恐れる。……なぜだと思います?」


「……」


「怖いからですわ。あなたたちのような、生まれつき持っている者が」


彼女は、じょうろを置いた。


「わたくしは、王妃陛下の遠縁ですの。血筋は良い。教養もある。努力もしてきましたわ。……ですが、殿方は誰一人、わたくしを見ません。同じ部屋にあなたがいれば」


温室に、湿った土の匂いが立ちこめていた。


「あなたは何もしていない。それが、耐えられませんの」


私は、何も言わなかった。


言えなかった、が正しい。


なぜなら、その言葉の一部は、たぶん本当だったから。


……ただ、ひとつだけ。


さっきから、どうしても引っかかっていることがあった。


「ヴィオラ様。ひとつ、伺ってもよろしい?」


「まだ、何か」


「あなた、私を見て、頭が痛くなったりなさいませんの」


妙な問いだったと思う。自分でも、なぜそれを訊いたのかわからない。


けれど彼女は、初めて、心底おかしそうに笑った。


「いいえ」


そして、こう言った。


「わたくし、あなたを見るときは、いつも、あなたの少し横を見ておりますの」


「クリス様は、可哀想な方でしたわ。あの方はね、自分がわたくしに使われていることに、最後まで気づかなかった。……愚かでしょう?」


「いいえ」


私は、静かに答えた。


「気づいた上で、それでも縋るしかない人間を、私は何人も見ましたわ。彼女は愚かではありません。ただ、寂しかっただけです」


「あら、優しいのね。そういうところが」


ヴィオラ様は、心底楽しそうに笑った。


「そういうところが、いちばん嫌いですわ」


彼女は、私の横をすり抜けて温室の扉に手をかけ、そこで振り返った。


「エミリア様。ひとつ、忠告して差し上げます」


「はい」


「冬の舞踏会には、お出になりませんように」


温室の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


寮に戻った私は、暖炉の前で膝を抱えて座り込んだ。


胸の奥が、ざらついている。


「お嬢様? 何かございましたか」


「マリー。私、ずっと勘違いしていたわ」


私は、暖炉の火を見つめた。


「私、この顔を『得したもの』だと思っていたの。天使みたいな顔でしょう、なんて言って、悪評をひっくり返す道具に使って、王子に見惚れられて、いい気になっていた」


「お嬢様……」


「でもね。この顔のせいで、フォックス家の娘は十二歳で城に呼ばれて、呪いをかけられるのよ。この顔のせいで、私はミラー伯爵にとって値打ちのある駒だった。この顔のせいで、王家は二百年、フォックス家の娘を囲い込んできたんですって。……ヴィオラ様が、そう仰っていたわ」


暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。


——そして。


そこから先は、口に出さなかった。


この顔のせいで、あの子は死んだのだ。


十二歳の誕生日に王城へ呼び出されて、呪いをかけられて、そして帰ってこなかった。


空いた器に、私が入った。


それは、マリーにも言えない。誰にも言えない。


「そして、この顔のせいで、ヴィオラ様は私を憎んでいる。……何もしていないのに」


私は、両手で顔を覆った。


前世の私は、平凡な顔をしていた。


だから、努力の全部が私のものだった。就活も、企画書も、現場で怒鳴られたことも、全部「狐田えみりがやったこと」だった。


でも今の私は、何をしても、この顔の話になる。


演習で優勝しても「美しい令嬢が」と言われる。テストで三位を取っても「美貌の令嬢が」と言われる。


私は、この顔を脱げない。


「……嫌になっちゃうわね、本当に」


長い沈黙のあと、マリーが、私の隣に座った。


メイドが主人の隣に座るなんて、規則違反だ。でも彼女はそうした。


「お嬢様。ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」


「なあに」


「私、お嬢様のお顔を、もう見ておりません」


私は、顔を上げた。


「え?」


「最初は、そりゃあ見ていましたよ。天使だと思いました。この方のためなら何でもすると思いました」


マリーは、まっすぐに私を見た。


「でも今は、お嬢様がノートに変な作戦を書きなぐっている手を見ています。ソフィア様に勉強を教える時の、少し得意げな声を聞いています。ディーン様が勝った時、いちばん大きな声で叫んでいたのがお嬢様だったことを、覚えています」


「マリー」


「お顔なんて、もう、どうでもいいのです」


彼女は、少しだけ照れくさそうに笑った。


「私、お嬢様の中身の方を、ずっと見ておりますので」


その夜、私はノートを開いて、新しいページに書いた。


『冬の舞踏会・企画書(第一稿)』


出るなと言われたわ。


ということは、あの人にとって、私が舞踏会に出ると都合の悪いことがあるということ。


——ふふ。


前世で、私が一番燃えたのはどんな時だったかしら。


「その企画は通らない」と言われた時よ。

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